善き友人 - 主義 -

分ったふうに体験主義と書いてしまったので検証しつつこうして書いております。を救いたいという強い想い思想と花開くとき、その社会の文化となるのかな。友を救いたいとムハンマドナザレのイエス釈迦も思ったようで、そのように友(人)を救いたいと想えばこそ哲学は進み、目には目をのハンムラビ法典は生れただろうし、共産主義も生れたと私には思われる。

感情に哲学が働きかける所で思想へと発展し、感情が強く働いて主義へと脱皮すると捉えられると思いますが、あなたは如何お思いになるでしょうか?ムハンマドの思想はコーランに顕れてイスラム教となり、釈迦の思想は仏典に顕れて仏教となり、ナザレのイエスの思想は旧約に仕えるをとした事実が見え、マルクスの隣人への想いは理想社会を願って共産主義と顕れた。

ここでは体験主義に基づいて考えてまいります。私で言えば、野菜作りで様々な体験をして思いも寄らなかった情報をいっぱい得ております。それで何のための野菜作りでしょうか?目標は人毎に異なり、色いろあって、境涯によって時によって場合によって、個体差は生じる訳だがそれで済ませて良いだろうか?目標の奥底にある目的を見定めなければならないと私は思う。

目標にそなわる主義と云えそうで、それゆえ目標が異なれば主義も異なる。そして主義が異なれば諍(いさか)いが生れる現実があるようです。(これを敷衍してみると)目的を持たない烏合の衆になっているのでなかろうか?烏合の衆が口々にツイートするところは知らず害悪が為される。結局「普遍の主義が無いところから害悪が起きる」と言うしかないのでなかろうか⁉(*^-^*)

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