悪霊
今週は、遂にドストエフスキーの「悪霊」を読み終わりました。最初に購入してから五年は経ちますでしょうか。傷め、読み切れず、また買い直し…という経過を経てようやく読み終えました。
実はあまりドラマチックな物語ではないし、複雑に広げられた風呂敷が上手に畳まれて「すっきり」ともいかない気がするのですが(宮崎駿の新作思い出しちゃった。こんなこと言ったらお前の読解力が足りないと怒られるかも。笑)、まさにカーニバル・ポリフォニー的と言われるドストエフスキーの生きた人物を生み出す力の真髄を味わうべき作品なのかも知れません。悪霊が歴史に名を刻んだのは、まさに描かれた登場人物の狂気故。
それにしても、時代背景も文化もあまりにも異なるドストエフスキーの作品を、こんなにも心の奥に住む秘密の友人として長年抱きしめていたくなる理由はなんだろう?
私は、冒頭に引用した点に辿り着きます。
ドストエフスキーの作品には、滑稽な人がたくさんでてくるように思います。興奮し、顔を赤くして大演説をぶったと思いきや、好きな女の子には厭らしい知識人ぶった台詞をゴニョゴニョ吐くことしかできず、いそいそと己の暗い地下室へと引き返す。
そこに、「彼ら」の孤立した世界が無残に世間から笑われ、敗北する姿を見るのかも知れません。「ソレデモ・ボクハ・ミンシュウヲ・アイシテイルノデス!」私のヘタレな兄弟、ドストエフスキーの描く人々。あなたがいなかったらもっと寂しかったかも知れない。
徒然。しかし現代では、オンラインで様々な人が暮らしを公開していますね。フェラーリを乗り回して高級なディナーを愉しんでいる姿よりも、貧しく、孤独で、惨めな生活を公開した方が流行っている。嘘でもね。
しかしネットは使い方を誤れば恐ろしく、時に、まさにドストエフスキーの作品の様に「己の孤立した世界が現実に衝突した結果、見事に焼き尽くされる」姿を垣間見ることもあります。二十一世紀では、酒場や賭博場で笑われるだけでは済みません。
決して己の思い込みを捨てず、独りよがりな演説を止めず、人々を批判し続けた結果、最後には民から憎まれ、住所を暴き出され、デジタルタトゥーを刻んでしまう…。
そんな風に他者指向になって、己を認めさせようと躍起になるよりも、私はいそいそと己の地下室に引き返して原稿用紙を友とするのも悪くないと思います。魂を発酵させる時間は大切だ。
ムキになって戦わないで、ドストエフスキーの様に都合が悪くなったら首を甲羅の中にひょいっと引っ込めて、「ボクハ!旅に出るのです!世界とワカレルノデス!自由になるためには、ミンナヲ・ユルシテヤラナケレバ…」とこれまた上手いこと自分を守ってしまいましょう。(笑) 世間とぶつかり戦う情熱は、冷めて諦めているよりも良いのかも知れませんが。
さて、こうしてグダグダ言っている私は勿論、ひょいっと首を甲羅の中に入れています。社会では、甲羅は笑顔だったりしますね。厚い甲羅のなかで、色々なことをしているのです。甲羅の中では、闇夜の嵐も吹けば、花も咲きます。
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