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故事成語はエスプレッソである。


故事成語とは、ほとんどが四文字から成り
物語的な要素を含んだ言語です。

もちろん四文字以上の故事成語も存在します。
物語の時代は古いもので2800年以上前。
春秋戦国時代の論語までさかのぼります。

四字熟語と重なる部分もありますが、
故事成語であるという判断基準は
「ストーリーがあるかないか」です。

故事成語は「濃縮かつ洗練」


故事成語は、自分の気持ちや考えを
言葉では簡潔に表せないときに役立ちます。
由来を話せば2000文字はゆうに超える、
長い物語をたった四文字で表した芸術です。

人生の中で出逢う多くの経験を濃縮し、
洗練されて故事成語は世に出ました。

***

日本で故事成語を会話に入れると、

「わざわざ難しい言葉を使わなくても…」
「頭の良さを自慢するようで嫌味に思われるかも…」

という印象を持つ人もいるかもしれません。

しかし中国では小学生の頃から
たくさんの故事成語を学びます。
大人になって、故事成語を
知らない人のほうが少数という感覚なのでしょう。
子供向け絵本にも故事成語が使われています。

「成语故事」と検索すると、中国語の
子供向けの動画がたくさん出てくるので
興味がある方は調べてみてくださいね。

***

今回は私が特に「濃縮かつ洗練」を感じた
故事成語を5つ選びました。
日本に影響を与えたもの、
時代の移り変わりで意味が変化したもの、
日本では知られていないもの、
などを紹介していきます。


神ワザを持つ人に出逢ったら【庖丁解牛】ほうていかいぎゅう

庖丁解牛…
料理人が牛を捌く様子。
その人の技が神技の域に達しているという意味。

文字から気づいた人もいるかもしれませんが、
「包丁」の元になった言葉です。

紀元前400年頃の戦国時代に、
名料理人の庖丁が恵王の前で牛をさばいて見せました。
その鮮やかなさばきは、まるで踊りのようで
牛は死んだことも知らないほどです。

庖丁は牛をさばいて3年経つ頃には、
牛の骨や筋が見えるようになったと言います。
刀を牛の筋や骨の隙間に入れるので、
牛は苦痛を感じないのです。


ふつうの料理人は月に一度刀を替えます。
腕ききでも年に一度は替えますが、
庖丁の刀は19年使っていても新品同様でした。

この話は「荘子」の一説です。
庖丁は技術を超えた「道」の境地だと説きます。
能力を身につけようと努力するのもよいが、
自然に身をゆだねて心で見るという未知の感覚です。

いつか私にも
この感覚が理解できる日が来るのでしょうか。


兄弟ゲンカを見かけたら【煮豆燃萁】しゃとうねんき

煮豆燃萁…
豆殻を燃やす様子。
兄弟同士が害し合う、仲間同士で争い合う意味。

三国志に詳しい方はご存知かもしれません。
魏国の曹操の息子である曹植の詩からの言葉です。

三国時代魏国の曹操には、
曹丕と曹植という息子がいました。
曹操の生前は跡取り争いがあり、
曹丕が魏国の王に即位してからも
曹植は冷遇されます。

とにかく曹植が疎ましい曹丕は、
何かと理由をつけて曹植を排除しようとしました。

曹丕は、詩才のある曹植にこう言います。
「七歩歩くうちに詩を作らなければ殺す」

そうして曹植が作った詩が、煮豆燃萁です。

「同じ根から生まれたのに
 豆殻は焼かれて、豆は煮て苦しみ続ける。
 兄弟なのに何故苦しめ合ってしまうのか。」

私は「Three Kingdoms」というドラマで
初めてこの話を見て泣いてしまいました。
とても好きな話なので、いつか紹介したいと
ずっと思っていたので嬉しいです。
個人的な趣味が混ざってしまって申し訳ありません。


勉強に行き詰まったら【水滴石穿】すいてきせきせん

水滴石穿…
わずかな水滴でも長い期間一点に落ち続けると
固い石にも穴が空いてしまう様子。
何事も根気強く続ければ、
事を成し遂げられるという意味。

日本では「石の上にも三年」
という近い意味の言葉があります。

宋国の時代に崇陽県の県令を任された
張乖崖という人物の話です。
当時崇陽県は治安が悪く、
窃盗などの犯罪が横行していました。


ある日張乖崖は、勤務が終わり帰路につきます。
そのとき家の中からこそこそと
逃げるように走る男を見つけました。
張乖崖はすぐさま呼び止めて、
何をしていたのか問います。

理由をつけてなんとか免れようとする
その男の頭巾から金貨がかすかに見えていたのを
張乖崖は見逃しませんでした。

張乖崖は男を法廷に送り、
全部でいくら盗んだのか尋ねます。
男は金貨一枚だけだど答えますが、
張乖崖は許すことはなく刑罰を与えました。

すると男は
「たった一枚の金貨程度で私を罰するのか」
「体罰によって私が死んだらどうするのか」
と激昂します。

全く反省する様子のない男に対して
張乖崖は激怒して筆をとり、
令状を書きながらこう言いました。


「一日に一文を書けば千日で千文になる。
 縄ののこぎりでも
 時間をかければ木を切断できる。
 僅かな水滴でも長い間同じ場所に落ち続ければ
 固い石にも穴が空いてしまう」


つまり張乖崖は、たった一枚の金貨であっても
見過ごしてしまっていては
やがて大きな過ちを生んでしまうと言ったのです。

結局、男は体罰により命を落としました。
これ以降、窃盗を繰り返していた人は肝をつぶし
崇陽県の風紀は一新されます。

水滴石穿という穏やかな四文字からは想像できない
壮絶な話だったのではないでしょうか?


凡人が騒ぐな!【庸人自扰】Yōng rén zì rǎoだけど本当は…?

庸人自扰…
平凡な人が自分で勝手に不安になる様子。
凡人が自ら騒ぎを引き起こすという意味。

宋国の時代に生まれた言葉という説がありますが、
定かではありません。
小老太という2人の息子を持つ人物の話です。

お兄さんのほうの息子は、
傘を売る仕事をしていて
弟のほうの息子は、
布製の靴を売る仕事をしています。


小老太は悩んでいました。
「晴れの日は傘が売れず、雨なら靴が売れない」
心配する気持ちが大きくなり、
小老太は病に伏せてしまいます。

それを聞いた皇帝に仕える役人が笑いながら
「あなたの病に効く薬の名前を書きましょう、
 これを医者に渡すとよい」
と、小老太に竹紙を渡しました。

そこに書かれていたのは
「晴天なら喜びなさい。布靴が良く売れるから」
「雨天なら喜びなさい。傘が良く売れるから」
という言葉。

それを見た小老太はたちまち病が治り、
晴れの日も雨の日も
悩むことは無くなったという話です。

なので庸人自扰は、
「悩みというのはいつも
 自分で自分が招いているもの」

という意味になります。

現在知られている意味を改めて見ると
あまりにも皇帝に仕える役人の
主観が強い気がしてなりません。

なんだか「凡人」という部分が
強調されているように
感じてしまうのは私だけでしょうか?


ただ突っ立っている人をけなす【呆若木鸡】Dāi ruò mù jīだけど本当は…?

呆若木鸡…
木彫りの鳥のようにじっとしている様子。
あっけにとられ、気が抜けて
ポカンとしているという意味。

春秋戦国時代、闘鶏が貴族の間で
流行していました。
斉国の王もその一人。
闘鶏の育成を専門にしていた紀渻の人を呼び、
斉王の鶏を訓練するように命じました。

訓練から10日後、様子を見るために
斉王は紀渻人の元へ人を派遣します。紀渻人は、
「まだこの鶏は気性が荒く、
 勢いがあるだけで実力はない」
と答えます。

さらに10日後、また紀渻人を訪ねると、
「まだ落ち着きがなく、
 人の声や物音に影響を受けやすい」
とのこと。

さらに10日後紀渻人を訪ねますが、
「まだこの鶏は、相手の鶏を見ると
 怒って睨みつけている」
とのこと。

さらに10日後、斉王は諦めかけていました。
他の鶏は走ったり飛び跳ねたりしていますが、
紀渻人が訓練している鶏は
木で作られた鶏のようにじっとしています。


しかしよく観察すると、
じっとしている鶏の高い戦闘力を、
他の鶏が感じ取り
逃げるように走ったり
飛び跳ねたりしているのでした。

なので呆若木鸡は、本来はけなす言葉ではなく
「戦わずして勝つ」高潔な精神のこと。
また10日区切りの鶏の成長段階は、
人間の成長段階を表しています。


故事成語は人間の「行動様式」


故事成語は「濃縮かつ洗練」された
エスプレッソのように雑味のない言語です。
その真意は人間の行動様式、行動パターンを
網羅しています。

今回は以下5つの故事成語を紹介しました。

  • 庖丁解牛

  • 煮豆燃萁

  • 水滴石穿

  • 庸人自扰

  • 呆若木鸡

それぞれの四文字を見ただけで、
ストーリーが浮かぶようになったでしょうか?

***

古代中国の教えと聴くと、
「難しくてなんだか古くさい」
印象があったけど、イメージが変わった!
と思ってもらえたら嬉しいです。

故事成語を学ぶことで、
ストーリーごと自分自身の経験になり
世の中が生きやすくなるかもしれません。

たった四文字の小さな言葉でも
故事成語はエスプレッソのように
濃く深くあなたの心を染めていくでしょう。


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