身体感覚から考える~いい人は疲れる~
~いい人は疲れる~
現職場へ出入りして15年になるんですが、まあいわゆる『いい社会』『いいお話』『いい人』の間に、身を置いているだけで疲れるというお話。
知らぬ間に、こちらまで四六時中、『いい社会』で『いいお話』をする『いい人』でいなきゃいけない、なんて気になっていたりするようでして。
その名実はさておき、私的には、
無理がある。笑
場には空気ってものがあって、合わせとかなきゃ、みたいなのがありますね。家族、学校、会社だろうが、そういうのを同調圧力なんて言ったりします。人によっては、それは疑う余地のないあたりまえのこと、あるいは、疑ってはいけない常識として、暗黙の了解的に、触れないことになっていたりもする。利害が絡むと、よりそうです。
『いい』に越したことはない
そう思うんですよ。
だって、いいんだからね。(笑)
だけれども、その『いい』ってのは、一体、何でしょう。
誰にとって、誰へ向けて、どうあれば、『いい』ってことになるんだろうか。その『いい』は、自分にとっても、『いい』んでしょうか。
社会にとって『いい』ことで、自分にとっても『いい』ことは、問題なさそうですが、自分にとってよくないことって、社会でどうあろうが、自分にとっては、やっぱり問題じゃないか。
そのあたり、必要以上に頑張っていませんか。
だって、いいんだからね。を、理由に。
社会ってそういうものだよ。
確かにそうかもしれませんね。他者と足並みをそろえて、はみ出さないように、本音と建て前をわきまえ、空気を読んで、波風たたせない、等々。
いやあ、社会で生きるのも、結構ハードル高そうな気がしてくる。そうすると、自分って、毎日よくやってるなあと、思えてきたりもする。
毎日、ご苦労様です。
なんですがね、無理を続けた結果、自分を見失っちゃおしまいよ、と思うんです。
誤解する人いるかもですが、海外だろうがどこだろうが、そこにはそこの同調圧力があります。そういう意味では、逃げても無駄です。(笑)
どんな社会、共同体、組織、人間関係だろうが、そこのルールを守ることは、そのコミュニティの一員として所属を得て、役割を果たして承認されるといった、自己実現の基盤ですからね。
が、そのために、自分自身をないがしろにしてしまうなら、それは本当に幸せなのかな、と思う。
いずれにせよ、
自分(の心身)にとって、『良い』と『佳い』あるいは、『好い』って何だろうか。社会や環境、それらの常識、あるいは、他者がどうあれです。
そんなことを、バカ正直に考えつつ、今月の人間学『体癖論』の講座を(今月は、開閉型を軸に)お送りしています。
原点にかえりましょう。
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