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小説『ウミスズメ』第七話:イカ釣り漁船・牛丼・先入れ先出し

【前話までのおはなし】
なんとか魚カフェを出て、僕は家へ戻ることができた。
そして眠気の中をフワフワと漂いながら、魚カフェで去り際に見た絵のことを思い出した。
僕はあの絵が妙に気になっていた。

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〈なんだかおかしな絵だったな〉

 そういえば、母は絵が好きだったのかも知れない。僕がまだ小さい子供だったある日の午後のことを、ふと、思い出した。

   * * * * *

 その時、僕と母は十二枚の絵を縁側に並べて眺めていた。

 絵とはいっても本物ではなく、新聞屋が宣伝用にくれた【世界の名画】カレンダーから日付の部分を切り離したものだ。

「今月はどの絵にしようか。ね、どれがいい?」母は僕に向かってそう聞いた。

 その時母は、アルミ製の安物ポスターフレームの中の絵を、新しいものに取り替えようとしていた。

 僕は〈また始まった〉と思った。というのも、母は何についても僕に決めさせようとしてしつこく僕の考えを聞いてくるのが常だったからだ。正直、僕はどれでも良かったし、何なら絵なんか飾らなくても良かった。

〈自分で決めればいいのに〉と思いながらも、僕は目の前に並んでいる【世界の名画】達の中から、何となく一枚を選んだ。

「これかな……」

「あなたはこれがいいのね? よし。じゃあ、これにするよ?」

 そう言って母はその絵をフレームに入れ、廊下の突き当たりの壁に掛けた。

「さあ、選んだからには責任を持ってこの絵のことを知らなきゃね。タイトルは何?」

 母がカレンダーの切れ端を押し付けてきたので、僕はしぶしぶそこに書かれた絵の説明文を読み上げた。

「タイトルは『マタイの召命しょうめい』。作者は……カラ……バッジョ……だってさ」

 それはヨーロッパ中世風の格好をした男が数人、テーブルを囲んで座っている情景の絵だった。僕はその絵の中でも、ひと際スポットライトを浴びているように描かれた人物が何者なのか、少し気になって母に聞いてみた。

「この人は何しているの?」

「お金を数えているのよ。この人は徴税人だったんだって」

「ちょうぜいにん……?」

「税金を集める人のことよ。でもこの後すぐに立ち上がって、お金も仕事も、何もかもその場に残してキリストについて行っちゃったっていう、そういうお話を絵にしたんだよ」

 その絵を暫く見ていた僕は、描かれている人々に何となく違和感を覚えた。
 キリストに付き従うのはいいが、舞台が中世であればその時にキリストもその弟子達も生きていた筈がない。登場人物のファッションとエピソードの時代が合っていないような気がした。

 それは大人になれば分かる事だが、画家というものは、必ずしも事実を忠実に描く訳ではない。特に中世の絵画では、たとえ歴史から題材を取った場合でも、画家自身の好みは言うに及ばず、絵の注文主の指示や時代の要請、権力者の圧力等々が少なからず反映されたらしい。しかし、当時子供だった僕は、何とも言えない違和感を感じたのだった。

「ヘンなの」と僕が言うと母は、

「ヘンだと思うのは良いことよ。どこがどうヘンなのか、夕飯までにノートに書いて見せてちょうだいね」と言って、鼻歌を歌いながら仕事部屋へ入ってしまった。僕は余計なことを言うんじゃなかったと後悔した。これで自動的に午後のテーマが決まってしまったからだ。その頃の僕の〈勉強〉というのは得てしてこんな風に進んでいた。

 母はカレンダーに限らず色々なものを切り抜いて保存する習慣があったのだが、いかんせん手先があまり器用ではなかった。ある時母は新聞記事を切り抜こうとしてカッターで指を切り、服も新聞も血だらけになって二人で大騒ぎをしたことがあった。

 血――そう言えば、水浸しになっていたあの観賞魚店で何があったのだろう――あれは本当に血だったのか。
 疲れていてそれ以上は何も考えられなかった。そして、高速道路から流れてくる音に揺られて、いつの間にか眠ってしまった。

   * * * * *

 僕は、母の名前を呼んで目を醒ました。

 部屋の中は真っ暗で、夏虫の声が聞こえていた。手探りでリモコンを掴んでテレビをつけると、放送されているのは夜のバラエティー番組だった。するとあれから十時間近くも眠り込んでしまったのか、と考えながら急いでテレビを消した。本当に久しぶりに見た母の夢がどんなものだったのかを思い出したかったのだ。

 布団の上に仰向けになって目を瞑り、なんとか目醒めた直後の状態へ戻ろうとしたが、まるで水に落とした水彩絵具のように、それはどんどん薄く拡がって行くばかりで、つい先程までは鮮明な像を結んでいたような気がしたものも、脳全体に溶け込んでしまったかのようだった。すっかり目が冴えてしまった僕は天井を見つめながら、あることに気付いて思わず呟いた。

「……腹が減ったな」

 通常、僕の夕食は牛丼屋かラーメン屋、またはコンビニ弁当のどれかだった。節約のためもあるが、それだけではなかった。金は母の貯金があるし、バイト代もそこそこ入るので、たまに居酒屋やファミレスに行く程度の贅沢はできた。それでも行かないのは、居酒屋は酔っ払いが多過ぎるし、ファミレスは家族連れが多過ぎるからだった。今日は、近くの牛丼屋に行くことにして外へ出た。

 この家の庭は、植物が鬱蒼としているせいか夜の闇がひときわ濃い。足元が悪い上に真っ暗なので、日が落ちた後には手探りでそろそろと歩くの常なのだが、今夜はちょっと状況が違った。庭の一角から眩いばかりの光が溢れて来て周囲を明るく照らしていたからだ。

 大きくひしゃげた竹の垣根越しにそちらを見ると、物置小屋の軒先にぶら下げられた大きな電球が周囲の闇を制圧するようにギラギラと光っていた。工事現場にあるような、スチール製の格子でカバーされた、やたらと光量の大きいやつだ。ここからは姿が見えないが、どうやら小屋の住人が帰宅したらしい。

 この場所には以前から物置小屋、あるいはその残骸とでも言うべきものがあったのだが、そこに少し前から男が一人寝泊まりしているのに僕は気付いていた。

 扉も窓ガラスも取り外され、かろうじて屋根と骨組みが残っているだけの小屋なので、その男は軒先に透明のビニールシートをぶら下げて風よけにしているらしかった。冬場なら凍死するところだが、今の季節なら差し当たっての危険は蚊の猛攻ぐらいだろう。

 僕が知る限りでは、彼がここに住みだしてから一週間くらいになる。

 最初はホームレスが空き家と思って入り込んだのかと思ったが、ビニールシートを張り巡らし、照明器具を持ち込み、果ては七輪で何かを焼く煙を目撃するに至って、これはもう住んでいるのだなと思った。

 ここの大家の敷地は、荒れ放題とはいえ広さだけは結構ある。もし、デベロッパーがここを丸ごと買い上げたとしたら、洒落た建売住宅を四、五件建てても余るくらいだと思う。あの偏屈な爺さんは庭をジャングル化することにしか興味がないようだが、恐らく小銭を稼ぐのは嫌いではないのだろう。ホームレスよりもほんの少し羽振りの良い人間に、場所だけを格安で貸すことにした可能性はある。そんな風にして、アパートを建てたり管理する手間を省きつつ、幾ばくかの収入を得ることに成功しているのだと僕は睨んでいる。

 ごくまれに、ビニールシートの背後で人の動く気配がするのを見かけるだけなので、彼が何者なのかは分からない。

〈彼〉ではなく〈彼女〉である可能性も否定はできなかったが、いろいろな周辺情報から取りあえず男性と推定している。実際、人の認識なんてそんなものなのかも知れない。様々な属性に関する情報の集積でしかない。

 例えば、彼がいる時にはいつも蚊取線香の匂いがするので、僕の中で彼は何となく蚊取線香と結びついている。そして、大きくて眩しい電球が透明なビニールシートの中でギラギラと光っている様は、まるで暗闇に浮かぶイカ釣り漁船のようだ。

 つまり極端に言えば、僕にとって彼の存在はイカ釣り漁船に乗っている蚊取線香とほぼ同義だ。イカ釣り漁船の光は衛星写真に写るらしいから、案外、彼の物置小屋も写るかも知れないなどと考えながら、ぶらぶらと駅の方へ歩いて行き、いつもの牛丼屋に入った。

   * * * * *

 牛丼を待っている間に、フリーライター氏にメールを送るためスマホを取り出した。今日は取材ができなかったことを伝えるためだ。送信し終わって一息つき受信ボックスを見ると、あちこちからの広告メールに混じって、何だか嫌な予感のするタイトルが目が止まった。

 こういう場合の僕の態度は常に一貫している。まず先に飯を食うのだ。

 良いニュースか悪いニュースか分からない場合、それを知る前に食べてしまった方が飯が美味い確率は格段に高い、と僕は思っている。何故なら、例えばそれが悪いニュースの場合、聞いてからでは食事が喉を通らなくなってしまうかも知れない。ことによったら〈食べている場合じゃない〉という可能性だってある。逆にそれが良いニュースなら、食事の前でも後でも良いことに変わりはない。

『先に始めたことは先に終わらせる』
 これは僕が割と気に入って実践している〈先入れ先出し〉メソッドだ。

 但しどんな手法にも弱点があって、ここでのデメリットは言うまでもなく〈手遅れになる〉可能性があることだ。あと三分早くメールを見ていれば、バス停まで走って行ってバスに飛び乗り、何かに間に合うことだってあるかも知れない。しかし、誰でもこれまでの人生を振り返ってみれば、一刻を争う事態というのはそれほど多くはないのに気付く筈だ。あるとすれば、自分もしくは他の誰かの生死に関わる時だろう。

 たった一通のメールを見るのが遅かったが故に親の死に目に会えない、なんていう最悪の結果に終わることもあり得るが、僕の場合その可能性は排除できる。何故かと言うと、僕が物心ついた時にはすでに周囲に父の影はなかったし、母は突然いなくなってから五年間消息が知れず、彼女は僕がここにいることすら知らない筈だからだ。

   * * * * *

 子供の頃の僕にとって、世界の中心は母だった。僕は学校へ通ったことはなく、基本的なことは母が教えてくれた。

 今思うと彼女は随分博識な人で、質問をすれば大抵の事は答えてくれたし、それ以上の話もしてくれた。子供には難し過ぎて全く理解できないようなテーマへ拡大してしまうこともしばしばだったが、母の語り口は楽しく、ずっと聞いていても飽きることはなかった。

 母は常々、学校の勉強なんて〈クソみたい〉だと言っていたが、彼女なりに教育については信念めいたものがあったらしく、そういう意味では彼女は教育熱心だったのだと思う。

 母がいなくなるまでの僕の生活は、昼食を挟んで朝の八時から午後三時までが勉強時間だった。但し、教科書に沿って何かを順番に学んで行くのではなく、母が与える課題について調べたり、質問したり、問題を解いたする方法で学習が進められていた。時には自分で課題を見つけるところから始まる場合もあった。

 学校のように土日が休みということもなく毎日同じスケジュールだったが、勉強が終われば夕食の手伝いまでの間は何をしていても良かった。とは言え、遊び友達がいる訳でもないので、裏山で一人遊びをしたり、図書館から借りてきた本を読んだりしたものだった。時には母を手伝って家庭菜園の手入れや、家の修繕のような大工仕事もした。

 まだ戸籍が無いことや学校へ通っていないことが、それほど特異な境遇であるとは知らなかった時のことだ。たまたま図書館で話しかけてきた女の人と話をしていて「勉強は家でしている」と言ったら、そこからどうにも話がチグハグになってしまった。

 相手は、僕が何か非常に深刻な事情を抱えている子供だと思ったようだった。急に腫れ物にでも触るような態度になったのを覚えている。どうやら自分は他の人間とは少々違うバックグラウンドを持っているらしい、と気づき始めたのはその頃だ。

  * * * * *

 母がいなくなった日がいつだったのか、正確には憶えていない。ただ、それは夏の日曜日だった。僕は多分、十九歳くらいだったと思う。何しろ誕生日も知らないので、本当の年齢は今でもよく分からない。

 とにかくその頃の僕は大抵、図書館の学習室でプログラミングの勉強をしていた。僕にとっては休日も他の日と変わらない一日だが、世間はそうではない。日曜日の図書館と言えば、朝から子供達が沢山やって来るのが常だった。

 その日も、図書館は子供達のヒソヒソ声で落ち着かない雰囲気だった。何となく集中できなくなった僕は調べ物を早目に切り上げて、昼食を食べるために家へ戻った。母はそろそろ食事の支度を始めている頃だった。

  * * * * *

 家に着いて六畳の居間を覗くと、テーブルの上に広げられた新聞紙の上に、半分ほど筋を取り終わったさやいんげんが散らばっていた。

 傍らにあるマグカップからはうっすらと湯気が立ち、コーヒーの香りが漂っていた。

 台所のシンクには朝食で使った食器が積み重なったままだった。

 縁側の引き戸は全て開いていて、蝉の鳴き声が耳を聾さんばかりだった。

 そして、母はどこにもいなかった。

 これが僕が持っている、母に関する最後の情報だ。

 どこへ出掛けたにせよ、すぐに帰宅するだろうと思っていた。ところが、夕方になり夜になっても母は帰らなかった。そして二日経ち、三日が経ち、一週間が過ぎても、彼女が戻って来ることは無かった。それ以来僕は、母と会っていない。

 その意味では、僕はあれからずっと間に合っていないままなのかも知れない。だからもう急いでも仕方がないのだ。いつもと同じペースで牛丼を食べ終え、その後でゆっくりと先程のメールを確認した。

 メールを読み終えて、僕は自分の〈先入れ先出し〉メソッドに対して更に信頼を深めることとなった。

「ウチのカフェにカメラを忘れています。取りに来てください」

 やはり、先に飯を食っておいて正解だったのだ。

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前話【第六話:抜け道・ジャングル・高速道路】

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