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ハードボイルド書店員日記【142】

「君が言うならよっぽどだねえ」

メンターが口元をかすかに緩める。前に会った時よりも白髪が増えた。

11坪の町の本屋。かつて指導してくれた人がひとりで支えている。いまでも店長としか呼べない。心の中では永遠にメンターだ。

「まあ棚卸の前は仕方ないけど」「でも店長は社長から怒りのメールで返品を催促されても『棚がガタガタの店では買ってもらえない』と踏み止まっていました」

30箱以上。毎日それだけの返品を出せという指令が下った。長年コーナーを彩ってきた名著が理不尽に消されていく。社員の面々は「去年ここまでやった?」と首を傾げるのみ。普段ちゃんと返してないみたいな叱責を受けたらしい。いくつかの店を渡り歩いた私の目には他よりも在庫過多とは映らないのに。

ラインナップを年に一度見直すことの意義は理解できる。

だが棚卸のためにあちこちで棚を一段減らし、一列を丸ごとスカスカにする書店は見たことがない。まるで来月閉店するみたいだ。決算期で数字の帳尻を合わせるために不毛な作業を強いられ、多くの良書が失われている。めったに売れない? だったらコミックと雑誌とベストセラーだけ扱う店にすればいい。その前に履歴書を買うけど。

人手不足でどうにか踏ん張れば、それが常態化する。残業代を出せないからするなと言い、サービス早出には見て見ぬふり。

そんなつもりではなかった。しかしメンターの顔を見ていたら彼の下で充実していた日々を思い出し、つい本音を吐いてしまった。「あんな職場ではやってられない」と。

「まあ本屋はこの店しか知らないし、大きい会社の内部事情なんてわからないけどさ」遠くを見るように目を細める。「そもそもここにはストックするほどの荷物は来ていない。にもかかわらず、君も知っての通り膨大な返品を求められる。棚卸があろうとなかろうとね」「わかります」「返品が少ないと社長は怒る。仕入れの資金が足りなくなるから。でも何でもかんでも返して貧相にしてもやっぱり怒る」「いまも視察に来ますか?」「以前より頻繁に」某商業施設に店を構えていた頃はほぼ月イチだった。

「ぼくは彼がどういう人かわかってる。商売だけじゃない。矜持と使命感がなかったら、このご時世に本屋なんて続けないよ」互いの目線が外れ、沈黙が流れる。「……ウチの経営陣も同じだと?」「まあ話を聞くとケチだなあと感じるけどね」白い前歯と金歯が覗く。「非正規には氷代や餅代すら出さないんでしょ?」「店長みたいにお年玉もくれません」「ははは。小さい店だからできたことだよ」「従業員を大事にする気がないように映ります。この前も社長が来たけど、我々とは口を利かずに帰ったし」「それはダメだね。ちゃんと話をした方がいい。君はよく社長に怒られてたけど」「姿勢が悪いとか元気がないとか」「彼なりのコミュニケーション術。ああいう積み重ねが大事なんだよ」

話は尽きない。しかし長居したら商売の邪魔になる。「オススメはないですか?」いつも訊かれていることを訊くのは不思議な感覚だ。「こんな店には何もないよ」「最近読んで面白かったのは?」「それかなあ」入り口の左にあるレジから新刊台の真ん中付近を指差す。芥川賞と直木賞の候補作が並んでいる。永井紗耶子「木挽町のあだ討ち」を手に取った。「それ」

「このあだ討ちの『真実』を見破れますか?」という帯が目に留まる。父の仇を討った若き侍のことを、芝居小屋で働く人たちが語っていく筋らしい。「あれですかね。芥川龍之介の」「『藪の中』? どうだろう」「好きなセリフはありますか?」「あるよ。どの人物も一本筋が通っていて気持ちいいんだ」本を受け取り、75ページを開いた。

「御侍様の世は一筋縄では行きますまい。しかし、まずは御身を大切に。腹を満たして笑うこと」
「それでも割り切れぬ恨みつらみもありましょうが、そいつは仏にお任せするのも、手前どもの処世術というもので」

「そうなんでしょうけど」「腑に落ちない? じゃあ」ページをふたつ戻る。

「私ら町人の道理は、御侍様よりも簡単です。人を傷つけたら謝る。殺生したら地獄に落ちる」
「清濁併せ呑むと父は言ったが、呑んではならぬ濁りもある」

考えた。「世の道理はたしかに簡単ですね」「でしょ」「従業員は真面目に働き、会社は従業員を大事にする」「そしてキレイごとだけじゃ生きていけない。でもなくしたらダメなものもある」拳を突き合わせたい衝動に駆られた。

本社の皆さん。「木挽町のあだ討ち」を読んでください。我々はこれからも一生懸命働きます。でもこれ以上濁りを呑むとは思わない方がいいです。

メンター、ありがとうございました。

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