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ハードボイルド書店員日記【159】

「配送してほしいです」

耳を疑った祝日の午前11時。レジカウンターの上に置かれたのは文庫本一冊のみ。マックス・ウェーバー「職業としての学問」だ。

「こちらのお買い上げ金額だと送料をいただくことに」「大丈夫です」眼鏡をかけた若い女性だ。ベージュの細いフレームに大きくて円いレンズ。髪と服装も暖色系で統一されている。相手方のおおよその住所を訊ねた。送料が本よりも高くつく。その旨を伝えたが構わないとのこと。レジを打ち、渡したレシートをリプリントし、サービスカウンターへの移動を促した。

「ご記入をお願いします」椅子を勧め、配送伝票を差し出す。「あまりいませんか?」「はい?」「こういうことする人」「そうでもないですよ」かつての職場にはすぐ近くに住んでいるのに電話で注文し、代引きと宅配を希望する常連がいた。しかも毎回一冊か二冊。手数料と送料を足した額の方が多いケースも少なくなかった。「私の愛読書なんです。遠くへ引っ越した幼馴染に」「なるほど」「迷惑でしょうか?」「とんでもございません」「いえ、その受け取る側が」上目使いで様子を窺った。豊かな睫毛が伏せられている。

「素晴らしい本です。きっと喜ばれるでしょう」顔を上げる気配を額に感じた。「読まれたんですか?」「ええ」「どの辺が素晴らしいと?」「教師に全能を求めぬ自立性と目先の欲に縛られぬ献身性を学生に求める点です。誰かに何かを委ねるよりも、ただ『日々の仕事に帰れ』と」小さく頷いてくれた。お客さんは店内に数人いるが、レジに来る気配はない。

「特に好きなのは28ページです」こんなことが書かれている。

「自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるだろう」

彼女がすぐに応じる。「私は74ページかな」本を開き、該当箇所を形のいい爪で示した。

「いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう」

伝票を受け取る。「店員さんが読まれたのはいつ?」「エヴァンゲリオンが最初に映画化した頃に」即座に正しい西暦を言い当てられた。ファンに違いない。「当時、監督が『アニメファンよ、現実に帰れ』みたいなことをラジオで語っていまして。本書を読んで納得したのを覚えています」「言いそうですね。こういう本好きだろうし」「たしかに。実際TVアニメ版のタイトルで」「『死に至る病』とか使ってましたよね。キルケゴールの」仕事を忘れそうになった。本当に初対面だろうか。

日付指定と希望時間の有無を訊き、控えを切り離して手渡す。「承りました」「よろしくお願いします」丁寧に頭を下げてくれた。「書店で働く方はこういう本が好きじゃないのかと思ってました」「お店と人によります」「コミックと娯楽小説、あとアニメやドラマ、アイドルの情報に詳しい方が多い印象で」ウチはそうかもしれない。「私みたいなオジさんはそっち方面があまりわからず」「エヴァ好きなのに?」「昔のことです」「いまのアニメもいいですよ。『薬屋のひとりごと』とか」「覚えておきます」

アニメやコミック、ラノベだって馬鹿にしたものではない。表現方法が異なるだけでバックボーンには文学や哲学が潜んでいるはずだ。「薬屋のひとりごと」をいずれ読もう。新しい何かの到来を待ち焦がれるのではなく、こちらから一歩踏み出す。その積み重ねが、日々の仕事の価値を高めていくはずだ。

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