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【Bのはなし】「ロール捺染手ぬぐい」の未来を拓いた、堺市・竹野染工の技術と戦略

ある日友人から「これ使ってみて」と、手渡されたのが『Oo(ワオ)』だった。一枚の手ぬぐいがスヌードのように輪っか状に縫い合わせてあり、両面異なる色のリバーシブルになっている。おろしたてはバリッと硬い手ぬぐいもあるが、肌ざわりが最初からふんわりとしてやわらかい。

「好きな色を」と言われてずいぶん迷った。結局カーキ×グリーンを選んだが、ピンク×ベージュも捨てがたい。両面の色が違う手ぬぐいを初めて見たが、色の組み合わせも洒落ている。私は旅には必ず手ぬぐい持参と決めていて、ハンカチとしてはもちろん、道中は首にまき、温泉では体を洗い、自転車に乗る時には帽子がわりに頭に巻いてしまう。ホテルで夜洗えば、翌朝には乾いてしまうところもいい。こうして予め輪っか状なら首に巻きやすいし、頭にもかぶりやすい。また色合わせがきれいなのでスカーフみたいに使える。ーーこれすごくいいかも。もともと手ぬぐい好きということもあって、すっかりこの『Oo』が気に入ってしまった。

『Oo』を作っているのは、大阪堺市の伝統産業「和晒(わざらし)」で手ぬぐいを生産する「竹野染工株式会社」だ。竹野染工は、60年間“ロール捺染(なっせん)”の技術で、おむつや手ぬぐいを作ってきたが、同業界での後継者不足などが深刻化する中で、技術の価値を高め、未来へと続く産業にしたいと、数年前から、両面異なる色に染め上げる独自の技術の開発に取り組み、昨年(2017年)より、この技術をベースにしたオリジナルブランドの展開をしている。大阪出身の友人は、地元の力になればと、仲間とともにデザインや広告を引き受けているのだそうだ。丁度大阪に行く機会を得て、堺市の工場(こうば)で、社長の寺田尚志さんに話をうかがった。

お話「竹野染工株式会社」寺田尚志さん

▲竹野染工社長の寺田尚志さん。大学生の時にバックパッカーとして旅に出る資金稼ぎに工場でアルバイトを経験。その時はまさか自分が継ぐことになるとは思わなかったと言う。

————まずは竹野染工の歴史について教えてください

江戸時代から和晒の生産が盛んだった大阪・堺市で、1961年(昭和36年)に創業しました。繊細な柄が彫り込まれたロール状の金型で効率よく柄付けしていく「ロール捺染機」で、最初は布おむつや寝間着を、その需要が減った後には、主に手ぬぐいを生産してきました。この辺りは昔から糸を生地にする織り工場、生地を白くする晒し工場、そして僕たちのような染め工場など関連する工場同士が互いに協力し合って、製品を生み出してきました。現在では、そのどの工場も職人の高齢化が進み、技術の継承も工場自体の維持も難しくなっている状態です。現在ではロール捺染の職人も全国で10人もいないと言われています。

————どうして両面染色を手がけるようになったのですか?

祖父が工場を興し、その後を継いだ伯父が亡くなり、それまで旅行会社に勤めていた24歳の僕が三代目を継ぐことになりました。「これから業界がますます厳しくなるのに」と周囲に心配されましたが、工場を祖父とともに支えてきた祖母の寂しそうな顔を見ていられなかったのです。もちろん最初は現場の職人見習いです。そんな中、工場ではいつも「これ染めといて」など、“染める”という言葉を使って仕事をしていたのですが、お客さんからは「プリントしてほしい」と言われることがありました。ロール捺染はもともと大量生産を目的にしたもので、生地の片面に柄付けをしていくことが基本技術なので、そう言われる理由もあるのですが、当時の僕はその言葉に強い違和感を持ちました。

それから、ロール捺染の価値を知ってもらうための技術を開発しなければと思うようになりました。研究の甲斐あって浴衣などで知られる「注染」と同じように、糸の中まで染料を浸透させ、生地の両面を染め抜くことも可能になりましたが、これでは注染との差別化にはなりません。1枚の生地の表裏を染め上げる、両面染色にたどり着き、ようやくロール捺染ならでは、うちの工場ならではの技術が生まれました。この技法をマスターしているのは、日本でうちの職人一人だけなんです。

▲一人前のロール捺染職人になるには少なくとも5年はかかる。そして日本で両面染色の技を持っているのは、写真の職人、角野さんただひとりだけだ。

————『Oo』はどんな背景から生まれましたか?

両面染色は他では真似のできない技術だと自負していたので、この技で何かを作り出したいと考えました。でも僕は職人なので、ブランディングもデザインもできません。その時にタイミングよく、オリジナル商品を作りたい事業者を募り、東京ギフトショーへ出店するまでをサポートする大阪府主催のプロジェクト「大阪商品計画」の存在を知りました。資料を作って応募し、プレゼンテーションも終えて、無事メンバーに選出されたのはよかったのですが、担当のアドバイザーになって頂いた講師の神崎恵美子さんには、最初にダメ出しをくらいました。「技術はすごいけれど、両面の色が違うだけではお客さまは買ってくれない」と。

自分では、この技術さえあればと思っていたので、驚きますよね。それから神崎さんからの宿題として、誰に、どこで、どんな風に売るかなどを自分でも考えてみたのですが、どうも上手くいきません。その後、デザイナーさんからの提案を受けたのですが「なるほど、すごい」とプロの手腕に驚き、素直に受け入れることができました。そして僕たちの初のオリジナル商品となる、日本の伝統的な文化である「重ねの色目」をモチーフにした『hirali』、“首の肌着”として現代のライフスタイルにあった手ぬぐいの使い方を提案する『Oo』が生まれました。

技術があっても商品が魅力的でなければ手にとってもらえない。さらにその背景のストーリーが伝わらなければ、共感を得ることができない。そのことを神崎さんに教えてもらいました。今は展示会や記事などでも、商品とともに必ず技術のことや地域のことも必ず伝えるようにしています。

▲野外フェスでのスタッフユニフォームにも採用された。手ぬぐいが『Oo』になると、これまでにない使い方が生まれる。

————オリジナル商品誕生後、変わったことはありましたか?

『hirali』『Oo』ができてから、東京ギフトショーを始め、さまざまな展示会に出るようになりました。またそこから興味を持って頂く方も広がって取材の依頼なども増えました。これまで工場見学なんて皆無だったのですが、近くの注染工場と一緒にうちの工場にも立ち寄ってくださる方も増えました。現在商品は「D&DEPERTMENT」や「蔦屋書店」「ロフト」のフェアでも取り扱って頂いていますが、職人たちに「あのお店に置いてあるよ」と言うと、皆、見に行くようにもなりました。

それまでノベルティとして配られる手ぬぐいを依頼されるままに作っていた僕らには、こうした変化は考えられないような嬉しいことなんです。自然に仕事に向かうモチベーションも変わってきますよね。僕自身、今までどんな仕事をしているかと聞かれても、説明に窮していたのですが、今は「こうしたものを作っている」と自信を持って答えられるようになりました。

▲『hirali』は「重ねの色目」という古来からの色彩文化に着想を得ている。日本の季語から広がる世界を、表裏の色合わせで表している。

————今後の目標などはありますか?

ようやく商品を送り出すことはできましたが、まだこれからです。量より質の時代である今、ロール捺染の価値を新たに認めてもらい、技術を次世代に継承できるようにしたいという目標はありますが、自社ブランドを作って、うちだけが脚光を浴びてもそれは何の解決にもなりません。この産業は、川上から川下まで工場同士のつながりで成立しています。『hirali』『Oo』をきっかけに、この地域、堺市のことを皆さんに知って頂ければと思っています。昨年の夏は「堺でアロハ」と銘打ったてぬぐいフェスなども開催し、1日に5000人もの人に集まって頂きました。こうした取り組みを通じて、同じ志を持った仲間と、大阪の繊維産業を活性化させていきたいですね。

【お話をうかがって】

お話をうかがって、というよりも、余談になる。竹野染工の新ブランドを語るには、寺田さんともうひとり重要人物がいる。文中にも出てきた、今回のブランディングを担当した「株式会社ビアンカ」の神崎恵美子さんだ。神崎さんは、関西の企業とクリエイターをつなげ、新たな商品を世に送る「made in west」のメンバーのひとりとして、現場で実践を重ねてきた経験が高く評価されて、「大阪商品計画」のアドバイザーに選ばれた。

そんな神崎さんからも今回いろいろと話を聞くことができたのだが、中でも「デザイナーに苦手意識を持つ工場はけっこう多い」という話に興味を持った。理由は、商品やカタログ、Webは作るけれど、そこまでで“契約”が終了だからだと言う。じつはここからが勝負で、展示会で商品をアピールする。百戦錬磨のバイヤー相手に上手く話を運ばせる。ブランドの世界観に合う店に置いてもらう。ブランドを成功させるには、そういうことが大切になる。

ものづくりは得意だけれど、そういったことに経験のない職人たちは、「いいものは作ったので、後はどうぞ自分たちでがんばってください」とばかりに消えてしまうデザイナーに、急に突き放されたような気持ちになるのは当然だろう。その点、控えめな神崎さんは照れて謙遜するが、正直手厚い。商品が出来た後も、自らが営業マンとなって展示会に立ち、交渉をして、やり方を見せる。さらに時には寺田さんを母のように叱咤激励しながら1年以上に渡ってブランドに寄り添ってきた。神崎さんの尽力あってこそ『hirali』『Oo』が、短期間で大きな成長を遂げたのは間違いない。

しかし私はこの話を聞いて耳が痛かった。デザインに関わるものとして、実際に商品や販促ツールを納品した後も、このようなおつきあいを続けることが非常に難しいことをよく知っている。デザイナーたちも無責任でいなくなった訳ではないこともよくわかる。神崎さんにその話をすると「私もいくつもブランドを担当していたら無理だと思います。数が少ないからこそできるんです」という返事が戻ってきた。この問題の根は深い。どうすればいいのだろか。答えはそう簡単には出そうもないが、ゆっくり考えてみることにしたい。

▲東京・青山での展示会場に立つ寺田社長(中)と ブランディングを担当した株式会社ビアンカの神崎恵美子(右)さん。ブースの前には人が絶えなかった。

【竹野染工のブランディングのポイント】
●他には真似のできない両面染色の技術を開発した
●行政が支援するものづくりのプロジェクトを利用した
●商品開発から販売戦略までを支えてくれるアドバイザーに出会った
●技術の特徴が明快かつ、プロダクトとしての魅力を持つ商品を作った
●売れることだけを目的にせず、技術の継承や地域の活性化など、これからを考えた長期的な目標を持っている

竹野染工株式会社/ 大阪・堺市
1961年(昭和36年)創業し、和晒の町として知られる堺で、ロール捺染の技術を用いて、布おむつから始まり現在では手ぬぐいを主に生産。日本で唯一両面染色の技術を持つ。ロール捺染を未来に伝えていくために、2017年に新しい価値を持った手ぬぐいの新ブランド『hirali』『Oo』を立ち上げた。泉州タオルとのコラボレーション『大阪 堺と泉州の糸へん』など、積極的に新しいチャレンジをしている。
(取材:川原綾子)


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