アナログ派の愉しみ/本◎川端康成 著『末期の眼』

それはみずからへの
弔辞であったかもしれない


『鮮やかに生きた昭和の100人』(2013年)は、文藝春秋90周年記念出版として同社写真部が保存する肖像写真より、昭和天皇や吉田茂から植村直己・夏目雅子まで、歴史的人物100名をピックアップして洒脱な文章と組み合わせた大判ムックだ。昭和の空気を呼吸した世代にはまことに香しいページを繰っていたところ、川端康成のところで指が止まった。1963年(昭和38年)『伊豆の踊子』が映画化された際、主演の吉永小百合を鎌倉の自宅に招いてのツーショットという。

 
あのトレードマークのギョロ目を剥いて笑みを浮かべた顔つきには、当時人気絶頂だった18歳の女優への親愛の情というより、期せずしてもっと生々しい少女愛めいた気振りが窺われるのは思い過ごしだろうか。それはともかく、わたしの注意を引いたのは写真に添えられた解説文の出だしだった。「『葬儀の名人』あるいは『追悼の名人』と呼ばれた」というフレーズが、咄嗟に川端のおびただしい随筆のなかでも最も有名な『末期(まつご)の眼』を想起させたのである。

 
1933年(昭和8年)12月、川端が34歳のときに発表したこの原稿用紙で30枚足らずの作品は、昭和の名随筆といったアンソロジーには必ず取り上げられるものだけれど、実のところかなり奇妙な文章だ。本人がわざわざ末尾において、ただの前書きのはずが十倍の長さになったと断り、「もし当初から『末期の眼』について語るつもりならば、自ら別種の材料と覚悟とを用意したであらう」と釈明している。ことほどさように、筆はあっちやこっちへふらふらさまよって文意を辿りにくく、でありながら、その行間から作者のただならぬ心境が伝わってきて読む者を戦慄させるのだ。

 
なぜ、こうした事態が生じたのか? そのへんの成り行きをわたしなりに忖度してみるとこんなふうになる。もともとは新進作家の龍胆寺雄と伊香保温泉で初対面したことから話をはじめようとしたものの、同じ時期に同じ温泉場で竹久夢二と出くわしてずいぶんと老け込んだ頽廃のありさまに驚いた思い出がよみがえり、さらに先年文壇を震撼させた芥川龍之介の自殺へと連想が羽ばたいて、その遺書『或旧友へ送る手記』の結びの部分、「唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」を引用して、文中の「末期の眼」に着目する。もっとも、それをもってあらゆる芸術の極意と位置づけたうえで芥川晩年の作品との関連をひとわたり論じたあとは、あっさりこのキイワードを捨ててしまって尻切れトンボの感が拭いがたい。

 
むしろ、川端の関心は幽明境を異にした友人の梶井基次郎と古賀春江のほうへ向かい、「死についてつくづく考へめぐらせば、結局病死が最もよいといふところに落ちつくであらうと想像される。いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」と結論づけ、芥川に対して病没したふたりの肩を持っている。とりわけ、この原稿を書いている2日後に四七日(よなぬか)を迎えるという、古賀への懐旧の念が心中を占めたようで、この特異なシュルレアリスム画家に関する記述がえんえんと続くのだが、率直に言って文意をつかむのは難しい。こんな具合だ。

 
「あらゆる心身の力のうちで、絵の才能が最も長く生き延び、最後に死んだのである。いや、亡骸(なきがら)のなかにも尚脈々として生存してゐるかもしれぬ。告別式の時に、絶筆の色紙を飾らうかといふ話もあつたが、それは故人の悲痛をさらしものにするに似るとの反対があつて、止めになつたけれども、絵具と絵筆は棺に納めても、或ひは罪なことではなかつたであらう。古賀氏にとつては、絵は解脱(げだつ)の道であつたにちがひないが、また堕地獄の道であつたかもしれない。天恵の芸術的才能とは、業(ごふ)のやうなものである」

 
先に紹介した『鮮やかに生きた昭和の100人』の川端のページの解説文では「追悼の名人」の代表例に、日本ペンクラブの会長として佐藤春夫を送ったときの弔辞「悲愁のうちに千峰霽(は)れて露光冷(すず)しきを感ず 心奥を貫きて開眼を促す 時は五月 詩人の古里にたちばなの花咲くならんか ほととぎす心あらば来鳴きとよもせ」が挙げられている。まさしく威風あたりを払うばかりの格調の高さだ。しかし、それだけに木で鼻をくくった印象のある文章に較べたら、親しい友人の死に混乱しながら迸らせた思いの丈のほうがずっと真情を宿しているのではないだろうか。

 
幼くして両親と死に別れ、さらに親族や知己をつぎつぎと失って、天涯孤独の境遇を生きた川端にとって死はつねに身近な存在だったろう。のちには日本人初のノーベル文学賞を受賞した4年後に、自死とも事故ともつかないかたちで人生の幕を降ろした昭和の文豪は、この『末期の眼』によって、あらかじめみずからの弔辞をしたためていたかのようにも読めるのである。
 

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