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Cadd9 #22 「光と影のコントラスト」



夏休みになると、樹は直とテルジとテツを連れ、毎日のようにナスノ家の近くの海を訪れた。当て所なくぶらぶらと浜辺を散歩するだけの日もあれば、釣りをしたり、一日じゅう泳いで過ごすこともある。

樹とテルジはよく潜りやクロールの練習をしたが、直は一度も泳ごうとはしなかった。ふたりが泳いでいる間、直は浜辺でテツと一緒に座ってそれを眺めているか、岩場で蟹やフナムシを観察していることがほとんどだ。



直とテルジが初めて顔を合わせたとき、直はあからさまに頬をこわばらせ、大人を警戒するそぶりを見せていた。ギターの練習をするためにナスノ家に招いていたとき、偶然テルジがテツを連れて訪ねてきたのだ。直は大人の男が苦手なようで、ギターを防具のように胸に抱いて戦慄していたが、テルジはにこにこと屈託のない笑みを浮かべて直を眺めていた。

そのような出会いであっても、直がテルジへの警戒心を解き、テツを気に入るのにそれほど時間はかからなかったと思う。何のてらいもないテルジの素直さを前に、直も自然と心を開かずにはいられなくなったようだった。


「テルジには、きっと隠し事なんてないんだろうね」

あるとき、直はテルジにそう言った。テルジはいつもの口調で、

「そ、そんなこと、か、考えたこともなかったなあ。か、隠し事があると、人って、ど、どんな気持ちになるんだろう?」

と、本当にわからないといった様子でたずね、樹と直を交互に見た。

ふたりは顔を見合わせ、各々しばらく考えたあと、樹は「たぶんいつも何かが後ろめたい気分になるだろうな」とこたえ、直は「人が怖くなるんだと思うよ」とつぶやいた。テルジはなおも不思議そうに首を傾げ、眉間にしわを寄せて考え込み、その言葉の意味を理解しようと頑張っていた。



日が暮れかけると、三人はよく消波ブロックにのぼって夕日を眺めた。直はブロックの上でバランスを崩し、しょっちゅう転げ落ちそうになる。そういうとき、樹は直と手を繋ぐ。


「いいか。転けそうになったら、迷わず俺のほうに全部の体重をあずけるんだ。絶対に支えてやるから。ぐらぐらすると余計に危ないぞ」


直はその言葉通り、少しでもバランスを崩しそうになると樹の体に体重を預け、繋いでいないほうの手でがっしりと服にしがみついた。そうして軸を立て直し、安全を確かめながら次の一歩の足場を探る。それが何度も繰り返された。


直の姿を見ていると、樹は時折、人知れず胸を打たれることがある。油断するとすぐに転けてしまうような体で、何かにしがみつきながらどうにか次の一歩を踏み出すその必死さが、人一倍の不安を抱え、怯えながら、それでも懸命に生きている彼の生き方と重なった。そして、いつも不安げに震えている黒々とした瞳や、傷ついたような顔で笑う頼りない表情は、この街にやってくる前のかつての自分と重なった。

樹が苦悩の果てに無理やり自分の中から追い出そうとしていた弱さを、直はどれだけ傷ついても、その小さな体に大切に抱えこんでいる。そんな気さえした。そしてそれこそが直の強さなんだと樹は思った。



「俺たちってさ」


あるとき、直の体を支えながら樹は言った。


「なんだか、お互いがそれになりそこねた姿で生きてるって感じがするよな。変な例えだけど」



どういう意味? と不安そうに直はたずね、樹を見上げる。

橙色の夕日は直の表情に光と影の強いコントラストを浮かべ、頬を縁取る細い産毛を、まるですすきの原っぱのようにきらきらと輝かせていた。

樹は返事をしなかった。いったい何をどう言えるだろう。この気持ちを、これ以上のどんな言葉で伝えたらいいのだろう。直に対する愛情のような感情が、少しずつ心に芽生えてはじめていることを、樹は自覚しつつあった。



ミナミとは、何度か映画を見に行った。樹もミナミも早起きだったので、ふたりが見るのは決まって朝一番の上映だった。朝早く映画館にやってくる客のほとんどは老人で、知り合いが少ないことも都合がよかった。ミナミの両親は子供だけで映画を見に行くのは不良のやることだと考えているらしく、ふたりはなるべく人目につかないよう、忍びやかに映画館に入りこむ必要があったのだ。


席に着いてから上映が始まるまで、ミナミは小声で様々な話をする。それは女友達の愚痴だったり、進路の話だったり、樹についてのあれこれとした文句だったりしたが、本当に小さな声なので何を言っているのかわからないことも多く、樹はミナミの口もとに耳を寄せて懸命に話を聞きながらも、最後にはいつも「またあとで聞くよ」と言ってそれを止めざるを得なかった。


しかし映画が終わるとミナミは決まって無口になってしまい、そういうとき、樹はふたりで帰り道を歩きながら、やはりミナミの話を最後まで聞くべきだっただろうか、それとも映画が退屈だったんだろうか、と思い悩んだ。

が、ある日の別れ際、ミナミは何の前触れもなく、突然樹の頬に軽く唇を押しあて、この上ないほど優しく、にっこりと笑った。それは紙にスタンプを押すような、しるしをつけるような口づけだった。


「いつもありがとう、ツキモリ」

「退屈してないか」

「ちっとも。一緒にいていつも楽しいからありがとうって言ったのよ」


ミナミは穏やかな微笑を頬に浮かべ、髪を片耳にかけながら言った。


「ねえ、来週のことなんだけど、もしよかったら一緒に土曜市に行かない?」

「もちろん行くよ」

「彼を誘ってもかまわないけど」

「彼って?」

「最近ツキモリが仲良くしてる、一年生の子。相葉直くんだっけ」

「来るかなあ」


と、樹は首をひねった。騒がしいところは、直はきっと苦手だろう。学校ですら、昼休みになるとオルガンの隙間に入り込んでいるくらいなのに。



「声をかけてみてよ。ツキモリの友達がどんな人か知りたいし」

「一応誘ってみるよ」

「じゃあ、そういうことでよろしく」



神社の前でミナミと別れてナスノ家へ戻ると、樹はさっそく直の自宅へ電話をかけた。父親が出ると面倒だなと思ったが、受話器を取ったのは直だった。

土曜市への誘いをかけると、意外にも「行ってみようかな」と直は言った。いつもの彼なら、些細な遊びの誘いでもまるで大掛かりなイベントであるかのように「どうしよう」と息を呑むところだが、今回は違った。本当に行ってみる? と樹は確認した。直はひとつ前の返事よりいささか自信をなくした様子で、それでも「行ってみる」と蚊の鳴くような声でこたえた。

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土曜市の当日、ミナミとの待ち合わせの時間まで、直と樹はナスノ家で日中を過ごした。


夕方になるとナスノさんはおもむろに仏壇の横にある押入れを開け、黴の生えかかった箱をいくつか取り出しはじめた。何をしているのかと聞くと、どうやら数年前に亡くなったナスノさんの友達夫婦の息子が、両親の写真を持っていないかと今朝方電話をかけてきたらしい。娘の結婚式に使いたいとのことだった。

樹は箱の中から次から次へと出てくる古い写真に興味が湧き、畳に広げて一枚ずつ目を通していった。直はその隣にぺたんと座り、ナスノさんが写っている写真を見つけるたびに「ナスノさん」「またナスノさん」と指をさしていた。


「これもナスノさん?」


直が一枚の写真を手に取って言った。ナスノさんはしばらく目を細めて写真を眺めると、こっくりとうなずいた。へえ、と感嘆しながら、樹と直は写真に見入った。


写真のナスノさんは四十代半ばくらいで、現在は駄菓子屋になっている土間の式台に膝をついて座っていた。手前には軍服を着た男性が威風堂々といった風格で胸をそらして立っている。


彼がナスノさんの亡き夫であり、仏壇に置かれた遺影の人でもある。生前は日本陸軍に属していたと話に聞いていた。若いころ何某かに誤って耳元で小銃を発砲されて以来、片耳がほとんど聞こえなくなってしまったらしい。二人が写った写真は他にも何枚か出てきたが、どの写真でも彼は男らしく仁王立ちで胸をはり、口を無一文に結んで力強い眼差しをカメラに向けていた。朗らかに笑っているような写真は一枚もない。



そのとき樹はふと、押入れから出されたものの中に、比較的新しい箱があるのを見つけた。中には紙袋が入っていて、赤茶けた字で日付が記入されてある。1973年1月1日。今からおよそ8年前だ。


袋の中に入っていたのは、雪景色の神社を写した写真だった。樹がいつも手伝いに行っている神社だ。写真は全部で七枚ある。大勢の人々が手水舎や参道に並んでいる様子や、神札所で御守りを買い求める姿が撮影されていた。袋に書かれた日付と、写っている人々の服装から、それが初詣の様子であることがわかる。友人に囲まれたナスノさんを写したものもあり、おそらく正月に友人と出かけたときのものだろうと樹は思った。


「あれ?」

一枚の写真を見て、樹は思わず声をもらした。


最後の一枚。そこには手をつないで参道を歩く親子連れの姿が、おそらく偶然に、しかしはっきりと映し出されていた。



「これ、直の親父さんじゃないか?」

「え?」



樹は一度しか会ったことがないが、それはたしかに直の父親だった。彼と手を繋いでいる子供は、不満そうに顔をゆがめて俯いている。そして子供のもう一方の手は、小柄でふっくらとした体格の女性にしっかりと握られていた。



「これ、俺だよね?」

と、直は子供を指さして言った。

「そうだろうな。面影がある」

「この女の人は誰?」

「誰って、母親じゃないのか?」


女性は横顔しか写っていなかった。影が落ちているため、顔立ちもわからない。直は写真に顔を近づけて女性をまじまじと見つめ、いや、と言った。


「前にも言ったけど、母さんのことは何も覚えてないんだ。気づいたときにはもういなかったから。それに、おかしいよ。だって俺、この日のこと覚えてるんだ。はっきりと全部覚えてるわけじゃないけど、父さんと初詣に行って、焚火見て、神社でお雑煮食べて、帰った。ずっと父さんと二人だったはずだ」

「彼女のことは覚えてないのか?」

「こんな人はいなかったと思うけど」


どういうことだろうかと樹は考えた。女性は父親の知人で、偶然神社で出会い、ほんの少しの間だけ一緒にいたところが、たまたま写真に写っているだけなのかもしれない。直は当時まだ五歳かそこらだし、そのことを覚えていなくても不思議ではなかった。


「この写真を持って帰って、親父さんに聞いてみれば。これ、持ち出していいかな、ナスノさん?」

ナスノさんは押し入れの奥に顔を突っ込んだまま、写真を見もせずに、はいどうぞ、と言った。


「母親の顔も知らないんだな。家にも写真くらいあるだろうに」

「ないんだ。探してみたことがあるけど、見つからなかった。俺の知る限りは一枚もない」

「親父さんと話はしないのか? 母親がどんな人だったかとか、どうしていないのかとか、気になるだろ」

「全然。俺、何も知りたくないんだ。前は知りたいと思ってたよ。でも、今さら母さんのことを知ったところで、俺はどうしたらいいんだろうって考えたら、何も知りたくなくなったんだ」


直は自分を小馬鹿にするような、冷たいうすら笑いを浮かべながらそう言った。樹はどう返事をしようか迷い、俺も母さんの顔を思い出せないんだと言いかけたが、そこから先の会話を想像してみると、これは言うべきではないなと思い直した。

直は自分の幼い頃の写真もほとんど見たことがないと言う。ナスノさんはそれを聞くと、じゃあその写真はあげますよ、と言った。直は写真をポケットに入れ、服の上から大事そうにさすった。



ナスノさんは友人夫婦の写真を見つけては輪ゴムでまとめていった。ほとんどすべての写真に目が通されたが、押し入れの一番奥にある青い箱だけは、なぜか開けようとしなかった。



「その箱は見なくていいの?」


と、樹はたずねた。ナスノさんは何も言わずに箱を見つめ、次に樹の顔をふり向くと、にっこりと笑った。話はそれでおしまいだった。


さあ、片付けるのを手伝って、とナスノさんは言った。青い箱の中身が気になりはしたものの、もうすぐ約束の時間だ。待ち合わせに遅れると、ミナミはひどく立腹する。

箱の中身についてはまた今度詳しく聞いてみることにして、樹は直と共に写真をもとあった形に収めていった。




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