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[読書の記録]松葉類『飢えた者たちのデモクラシー』(2023.04.15読了)

 3月に出版された松葉類の『飢えた者たちのデモクラシー レヴィナス政治哲学のために』は、20世紀のフランスで活躍した哲学者エマニュエル・レヴィナスの政治哲学を検討した書物である。

 20世紀に、主にフランスを舞台として活動した哲学者たちが担い手となったポストモダニズムと呼ばれる思想の潮流があった。わたしの理解では、レヴィナスも思想史上このグループに含めて語られることがある。レヴィナスを含め、ポストモダニズムの哲学者たちが概ね共通して主張していたのは、「同一性」ではなく「差異」が重要であるということだった。大ざっぱにいえば、「差異」を重視することによって、ものごとを一面的に受け取るのではなく、異なる角度から多様に理解すべきだと主張する思想が、ポストモダニズムだった。哲学者たちが実際にそのような主張をしたかどうかはさておき、少なくともそのような思想としてポストモダニズムは流通した。
 同時に、差異を重視するポストモダニズムの「多様性へ向かおう」というメッセージは、相対主義だという批判も受けた。ポストモダニズムとは、真理は見方によって人それぞれなので、ひとつの真理はないという思想のようだが、だとすれば事実の確実性が喪失し、倫理的・政治的な議論ができなくなるのではないかという批判である。

 さて、レヴィナスは他者について主題的に考えた哲学者として一般に知られている。
 「他者」は主体の対概念であり、したがって主体の存在を確実なものにするという重要な機能を持つ。例えばこのページのように、黒い字が白い背景の上に配置されることでよりくっきり浮かび上がるのと同じである。「わたしとは決定的な差異を持つ何らかの存在」としての他者が存在して、初めて主体の存在が確実なものとなる。他者が存在しない限り、主体は存在しない。
 レヴィナス以前にも他者を論じた哲学者はいたが、彼ら彼女らは「他者」を主体によって構成された対象の一部として見ていた。いっぽう、レヴィナスは「わたしによって取り込まれた認識像としての他者」によっては主体の存立は実現されないとした。「わたしが取り込んだ認識像」は、主体の一部にほかならないためである。
 レヴィナスによれば、他者は主体の認識や観相に還元される存在者ではない。主体は、他者の存在だけを認識することができる。言い換えれば、他者は確実に存在するものの、認識はできない。

 レヴィナスの思想はこのような主体と他者の相互性の欠如を出発点としている。そこから深められた思索は優れた哲学的成果を生み出した。しかし、認識できない他者という前提を置いているがゆえ、政治や行政などの実践における応用可能性は限定されるとの見方も受ける。レヴィナスを読んでも、わたしたちが他者とともによりよく生きるための格率を打ち立てたり、それに従って他者に対する行為を選択するための議論にはほとんど役に立たない。身も蓋も無いが、少なくとも直観的にはこのような結論が導かれる。
 つまり、差異ばかりを強調するがために、具体的な状況において行動を選び取ったり、倫理や政治について議論したりするためには使えないという、上述のポストモダニズム全体に対して行われたありがちな批判が、レヴィナスにもそのまま当てはまるように思われる。

 『飢えた者たちのデモクラシー』は、こうした批判に応答する。同書は、わたしたちが倫理や政治について思考し、議論するためにレヴィナスが残した、様々な道具立てを救い出そうとする実践である。著者の松葉は序論で率直に記す。「(…)これまでレヴィナスの政治哲学を語ることは困難だとされてきたが、彼の思想の中に政治的なものが存在しないと理解してはならない。彼の哲学はつねに実践的で政治的な側面を有していたし、むしろ政治は彼の倫理学が現実の社会に無関係なものとならないために必要不可欠な契機である」(4頁)。
 レヴィナスの哲学から、政治哲学的な示唆を導き出すため、松葉はレヴィナス自身の著作物や講義録に加え、他の哲学者たちによる多様なレヴィナス解釈を参照し、批判しながら、レヴィナスが残した思索の痕跡のひとつひとつを丹念に読み解いていく。

 例えば、レヴィナスの代表的著作『全体性と無限』において主題化される「第三者」という概念がある。「第三者」によって提示されるのは、他者は必ず具体的で特異的な存在として現前するいっぽうで、その特異性自体は複数的であるという問題である。主体の目の前にいる他者以外にも、その場にいない他者が存在する以上、特定の他者だけを特異な存在と考えることはできない。つまり特定の他者と向き合ったとき、主体はその関係の外にある別の他者(=第三者)の存在とも向き合うことを求められるのだ。この、複数の他者との関係に関わる一群の問題は「倫理」と呼ばれる。さらにそこから進んで、主体が他者からの呼びかけに応答しようとするとき、あるいは第三者が主体と他者との関係に介入してきたとき、誰に向けて、どのような行為を取るべきか、という具体的な問いが生じる。この行為の優先順位に関わる問題は「政治」と呼ばれる。

 『全体性と無限』に対する有名なデリダからの応答(『アデュー—エマニュエル・レヴィナスへ』)によれば、第三者はそもそも最初の他者の経験の時点で不可避なものとして立ち現れるのであって、したがって他者への責任ある応答は最初から不可能とされる。これは言い換えれば、政治の中で、倫理が作動することはそもそもできないという主張に等しい。
 対してレヴィナスは、特異でありつつも複数であるという二重性を持つ他者という存在について、二重性の困難を回避せずにそのまま思考することを試みたのだとするのが松葉の整理である。この二重性に関する思考は、倫理を条件とする政治はいかに可能か、という問いに直結する。

 レヴィナスは他者への応答において、倫理の不可能性の前で立ち止まり、行為の選択をあきらめるのではなく、あくまで「具体的な行為」を重視していた。また、政治の問題も「抽象的な仕方のみで考えるべきではなく、(…)実践的な仕方で考察すべきである」(75頁)とされる。
 それでは、常に複数であるような他者に対して主体が具体的な行為を取れるのはいかにしてか。目の前にいる他者に向かって行為することは、主体の認識において把握された他者に向けて行為しているにすぎないという独善性に加え、その場にいない第三者たちに対する行為の優先度を下げるという暴力性を孕むのではないか。レヴィナスは、この困難において、主体が具体的に行為する際の拠り所または契機となるのは、他者の物質的な「切迫」であるとする。いままさに死にそうなほどの物質的欠乏にある者の近くにいる場合、主体にとって「知的把握による判断の繰り延べは禁じられる」(85頁)。
 松葉によれば、責任ある応答をするための条件としてレヴィナスが引き入れるのは、他者がいつか必ず死ぬ存在であること、したがって主体は他者が死ぬまでの限られた時間内に応答する必要があること、という時間的な制約であるという。ここで重要なのは、他者同様、主体もまた死にゆく存在であり、他者への応答は主体に死が訪れるまでの限られた時間の中で行う必要があることである。この時間的な制約は、倫理的な方法で政治を行うために共有される前提となる。

 ところで、苦しんでいる人を目の前にしてのとっさの判断に関しては、アメリカ哲学のプラグマティズムの系譜の中から登場したリチャード・ローティという哲学者の「リベラル・アイロニズム」という立場を思い出す。リベラル・アイロニズムは、ローティの1989年の著書『偶然性・アイロニ―・連帯』で提案された。ローティは同書の結びを結ぶ箇所で、これからの連帯を支えるのは、「わたしたちが信じたり欲望したりしていることを、あなたも信じたり欲望したりしますか」という問いではなく、「あなたは苦しんでいますか」という単純な問いであるべきなのだと記している。

 人は普通、特定の伝統や文化、世界観や道徳などの共有を前提として団体や政党や企業を作っている。しかしローティの考えではその発想では思想を異にする人を排除することになる。ローティはむしろ、思想の共有ではなく、目の前の誰かの身体的/精神的な苦痛への「共感」のほうが、他者との連帯を構築するうえでは有効なのだと考えた。ひらたくいえば、相手が共産主義者だろうが、犯罪者だろうが、敵国人だろうが、人間は目の前で血を流して苦しんでいれば手を差し伸べてしまう生き物なのだから、そこに連帯の基礎を置こうと提案したのである。
 この部分だけを見れば、リベラル・アイロニズムはレヴィナスの提示する「切迫」を契機とする他者に対する行為の定式化と共鳴しているように思える。レヴィナスによるユダヤ教に関する論考『困難な自由』の一節を引きながら松葉が記す通り、「飢えた民衆たちの面前で、宗教団体の区別はもはや意味をなさない」(115頁)と考えている点においては、レヴィナスもまた、目の前の人間への共感を契機とする連帯や互助の原理を支持していたようにも思える。
 理念ではなく共感が他者との連帯を作り、政治を可能にするというローティの提案はある程度は現実的で説得力がある。けれども実際には、リベラル・アイロニズムは思想界で激しい反発を呼び起こした。共感が大事というが、現実には共感こそ偏見や差別の温床ではないか、そんなものを根拠に大きな連帯など作れるはずがない、という批判が相次いだのである。旧来の保守とリベラルの区別を踏襲するなら当てはめれば、ローティは普遍の原理ではなく、仲間、すなわち共感可能な相手に手を差し伸べるところから始めようと主張したため、リベラル・アイロニズムの看板には偽りがあり、その内実は保守ではないかと批判されたのだ。
 確かにローティには保守的に読めるところがある。リベラル・アイロニズムは自由と民主主義の尊重から生まれるものだが、ローティがそれらの価値を尊重するのは、たまたま彼が民主主義の国(米国)に生まれ育ったからに過ぎず、それ以上の正統化はありえない。だから論理的な帰結として、彼の思想は、結局はその全体が「米国のリベラル」の自民族中心主義者だとしか言いようがなく、左派知識人には危険な開き直りとして読まれた。
 ローティの保守的な傾向は後年出版された講演録『アメリカ 未完のプロジェクト』でさらに露骨になっており、そこで彼は民主主義の尊重とは米国の歴史の尊重なのだとはっきりと宣言してしまっている。加えてアメリカでは左派が力をもてないのは「国家に対する誇り」が足りないからだという強烈な主張もあり、むき出しのナショナリズムとして批判を受けた。

 レヴィナスの思想がリベラル・アイロニズムと異なるのは、他者に向けた行為を可能にするのが、あくまで「物質性」と「時間」という普遍の条件である点だろう。「飢えた者に『パンを与える』ことを意味する物質主義とは、『パン』を共有する絆を強めるために『われわれ』の利益のみを考える、閉鎖的な『悪しき物質主義』ではなく、政治や宗教対立を超えうる、飢えた叫びのもたらす超越、普遍性から始まる物質主義である」(115頁)。
 レヴィナスのこの物質主義はユダヤ教の教義を起点としているため、ローティに向けられるのと同様の自民族中心主義だという批判はありうる。しかしそれはあくまで、政治や宗教対立を超えうる、飢えがもたらす超越と普遍性から始まる物質主義として構想されている。レヴィナスのユダヤ的普遍主義は、「それぞれの宗教が有する特殊性を乗り越えた形で、他者のために、倫理的な仕方で普遍化することを提案している」(116頁)。レヴィナスは他者の特異性に向き合いつつも、他者もまた共通して「飢えて」、「死ぬ」存在であるという普遍性を経由することにより、目の前の他者に向けて行為することの「保守化」の陥穽を回避したのである。

 このような普遍性への指向は、レヴィナスが来たるべき政治のあり方として提示する「デモクラシー」においても徹底されている。レヴィナスにとってデモクラシーとは、「歴史の最後にある目指すべき場ではなく、そのつど目の前の物質的状況を改善するために、『よりよいもの』に向かって、行為することにおいて目指される場」である(140頁)。ローティが米国的な「自由」や「民主主義」を端的によいものと考えるのとは異なる。
 レヴィナスが考えるデモクラシー概念については、『飢えた者たちの~』では、デリダとの比較によってその輪郭が強調される。松葉の整理によれば、デモクラシーを、政治学が取り扱うような何らかの統治機関の枠組みとして考えない点ではデリダもレヴィナスも共通しているが、前者が「一つのありうべき、とはいえいまだに存在しえぬ政体」としてデモクラシーを考えていたのに対し、後者は「ある政体がよりよいものへと開かれることそのものを指して」デモクラシーと呼んでいた(157頁)。
 松葉が第三者の概念、そして他者との相互性について検討している箇所で述べている通り、デリダは政治の中で倫理が作動することはそもそもできないと考えていたのだった。したがってデリダにとって国家の政治権力とは常に「圧政」である。デモクラシーは、統治される対象が圧政から解放された「例外」として定義される。
 いっぽうでレヴィナスのデモクラシー概念の中心には、「よりよい政治」という記述不可能な形象がある。レヴィナスにとっても政治は一義的には倫理からの逸脱であるはずだ。それでいて倫理を政治の中で実現するような、むしろ倫理を出発点として行われるような政治が、「よりよい政治」であるとされる。しかしデモクラシーはよりよい政治が実現された状態として、どこかに終着点として存在するのではない。レヴィナスは、よりよい政治に向けた行為を絶えず選びとっていく営為そのものをデモクラシーと呼んだのだ(156頁)。

 レヴィナスが提示するこのデモクラシーの様相は、啓蒙思想以降に構築された近代の言語の中に生きるわれわれには直観的な理解が難しい。よりよい政治なるものが、今ここには無いとしても、どこか未来には存在しているのではないか。デモクラシーはそのような来たるべき未来に向けた運動なのではないか、という未来志向な受け取り方をどうしてもしてしまう。あるいはデモクラシーについて思考しようとすると、「古くはギリシャ語のデーモスとクラティアを語源とするのであって、よりよい民主主義のためには民衆の緩みと権力の歪みの両方を取り除くことが云々」といった、言葉の来歴を遡及するような回路が作動する。特に後者については人文系の多くの書物が同様の形式で編まれているので、この手の哲学書の読者にとってはなかなか意識して取り除くのが難しい習性といえる。
 『不協和のデモクラシー』と題して設けられている第九章が、我々が持つこの思考のくびきを外す助けとなる。この章では、レヴィナスが評価した現代音楽家ヤニス・クセナキスの音楽作品と論考とを参照しつつ、アルケーを持たない無始原として主体を、そしてデモクラシーを語ることがいかに可能か、という問いへの補助線が引かれる。
 わたしの理解によれば松葉がこの章で示すのは次のようなことだ。西欧近代思想の伝統においては、時間は過去から現在を経て未来へと連続的に流れると前提されている。そしてかような時間概念に則った芸術形態である伝統的な西洋音楽の楽曲には明確な「はじまり」と「おわり」があり、一曲を聴き終えるときには必ず聞き始めたタイミングから一定の時間が経過している。ところがクセナキスが作る音楽は、まずもって高度に不協和であることに特徴があり、協和な音を中心に楽曲を構成する西洋音楽の伝統からは逸脱する。どの音が楽曲を構成している音で、どの音は楽曲の外側にある音なのかわからなくなるということはひるがえって、音楽にとって自明であった「はじまり」と「おわり」を曖昧にしてしまうことでもある。どこまでの音が曲がわからないということは、暫定的に認識される楽曲の「おわり」の後も、音楽は鳴り続けている可能性があり、また、「はじまり」の前にも、音楽は既に鳴っていた可能性すらある。レヴィナスがクセナキスを好んだのは、楽曲の内と外にある音を分け、協和という制度に構成音を従属させようとする西洋音楽のドグマを少なくとも部分的に解体したからなのだろう。言うまでもなくこのようなクセナキスの創作の方向性は、レヴィナスが重視した他者への徹底した開かれという価値基準とも強く共鳴していた。
 こうして、読者は音楽に関するジェネリックな認識の更新を迫られる。そして伝統的な西洋音楽が依って立っていた時間概念についての認識もまた更新される。クセナキスの音楽を経由することで、どこからか来てどこかに向かうものではないという、「無始原」という存在様態についておぼろげながら了解できる。
 西欧近代的な時間概念に疑義を提示した音楽家としては、ジョン・ケージなども簡単に参照されているが、個人的には、循環構造と、逆再生しても同じ音像が現れるシンメトリーな波形を採用したマックス・リヒターの2004年楽曲"On The Nature of Daylight"もまた、無始原について思考する手がかりとなるのではないかと考えた。


 こうしてレヴィナスの思想における鍵概念の周到な検討を経て、レヴィナスを政治哲学として読む準備が整えられる。松葉は本書の結論部で「現代政治学における意義」という節を設けて具体的な考察を展開している。この箇所の内容は短いながらも非常に説得力があり興味深い。読者は著者の論に同意するかどうかによらず、レヴィナスの思想が現代の政治状況に一石を投じうるポテンシャルを感じとるだろう。

 雑駁になってしまうが、本書で示されたレヴィナスの政治哲学の射程に関して、わたしが抱いた率直な感想と連想したことがらを以降、記録しておく。

 2000年代に誕生したスマートフォンとSNSは、2010年代にはインターネットの世界を飛び出し、政治空間の性質を不可逆的に変化させた。スマホとSNSが普及したことで、インターネットは誰もが常に接続し、絶えず情報交換する生活の場そのものへと変わったように思える。
 2023年の今となっては驚くべきことだが、この変化は一時期、民主主義を強化し改善するものだと考えられていた。実際、スマホとSNSを用いた活動家と市民のあいだの連絡や世界への情報発信により駆動された2010年から2012年にかけての北アフリカおよび中東諸国での政変「アラブの春」や、2011年の米国の「ウォール街を占拠せよ」運動、2014年の香港の「雨傘運動」などは、技術に支えられた新しい民主主義の具現化と社会改革への動員のあり方として言祝がれた。
 スマホとSNSが導く常時接続と常時交流の環境は、民主主義を強化するどころか、むしろそもそもの政治的なコミュニケーションを大変難しくするものであることが明らかになりつつある。
 人々はいまや、かつてなく高機能の情報機器を持ち、かつてなく大量の情報に接している。情報の絶対量の増加に人間の認知能力が追い付かなくなったとき、人々はむしろ見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞くようになった。結果として陰謀論やフェイクニュースばかりがネットを満たし、社会の分断は深まっている。
 また10年ほど前まで、左翼の聖典といえばハート&ネグリの『帝国』三部作だった。リベラルを自認するなら誰もが彼らの壮大な著作に敬意を表さなければならなかった。しかしそれも過去の話である。ハートとネグリは、自分たちの仕事が新しい『資本論』になると主張したが、実際には革命の指南書にはならなかった。たとえば上述の「アラブの春」は、「マルチチュード」のステレオタイプに合致した、「権威主義に抵抗し民主化を求める群衆」という構図でグローバル社会に報道された。しかし実際にはマルチチュードはさまざまな宗教、宗派から構成される中東イスラム世界のモザイクの受け皿となることに失敗し、民主化運動はすぐに終わった。マルチチュードはあいまいで、文学的で、ロマン主義的である。統制的な原理のもとで展開されるあらゆる運動と同様、それは正確な知識としてではなく、「大体それらしい」かたちでしか到来しなかった。結果むしろ、松葉がランシエールの言葉を借りて指摘するように、現代には「デモクラシーへの憎悪」らしきものが生起している。

 こうしたことを念頭におけば、本書における松葉の努力をだれもが歓迎するはずだ。それは、民主主義の限界を乗り越える可能性を告げる理想として、デモクラシーを再定義または再発見しようとするものだからだ。
 デモクラシーへの憎悪を経て、特に日本では代議制など人間の集合的な意思決定を介した民主主義を断念し、AI等の機械に統治を任せるべきという議論が注目され、もてはやされている。代表的なのは落合陽一の『デジタルネイチャー』や、成田悠輔の『22世紀の民主主義』といったあたりだろう。要約すればこれらの議論は、「人間の偏りが入らない」という機械の利点を強調し、例えば、投票や政策立案において、機械による分析や判断によって公正な結果を得る、といった機械による民主主義運営の代行を謳うものである。

 しかしこうしたAI民主主義(論)は、批評家の東浩紀が指摘するように、全体主義への指向性を持つ。AI民主主義のもとでは、機械によって決定されたことに人民は従うことが求められる。東はこれでは専制ではないかというのである。情報技術の信奉者たちは、十分な大きさのデータ入力があれば統治の対象のニーズをすくいあげた公正な意思決定が可能になると主張する。けれども統計的な過程が入っている以上、機械が把握できる人間像はどこまでいってもあくまで近似値であって、特定の個人の生ではない。換言すれば機械は「あなたに似た誰か」のための政策を立案し実行し続ける。レヴィナスの用語では、倫理が政治から早々に引きはがされている状態、ということにでもなろう。このような世界観が諸外国と比べて日本でとりわけ熱狂的に受け入れられているのは、わが国ではまだ個人主義が成熟しきっておらず、なおかつ言葉の最悪の意味で統治者の「お気持ち」を察することが最重要視されるような政治風土を持つことの反映だろうと、東は警鐘を鳴らしている。

 倫理から政治を開始しようとしたレヴィナスの思想と、他者について了解することを当初から放棄しているAI民主主義が鋭く対立することは明らかだ。付け加えるならば、機械は飢えることもない。
 何より、AI民主主義ではビッグテック企業ないし政府などが開発した演算装置とデータセットこそが政治の核となる。もちろんアルゴリズムは絶えず「改良」されるが、それを行うのは統治者の仕事である。つまりここでは、権威によって作られた、単一かつトップダウンでの意思決定の論理回路を組み替えることこそが政治だと考えられている。しかも深層学習モデルなどでは演算の過程は完全なブラックボックスとなるため、延々と抽象的なキャリブレーションが反復されることになるだろう。
 主体が他者の特異性から逃げずに向き合いながら、そのつどの具体的状況を前にして、『よりよいもの』に向かう行為を目指す場をデモクラシーと呼んだレヴィナスが、現代のAI民主主義論を見たらどのような応答をするだろうか。答えを知ることはできないが、きっと政治システムは巨大なリソースを用いた技術によって一方的に確定されるべきではなく、むしろ「私」の領域に属する倫理にコミットしながら、個人の具体的かつのっぴきならない事情を踏まえた選択の積み重ねによって書き換えていくのが望ましい、とでも言うのではないだろうか。

 実現可能性や実装方法を度外視して、来たるべき世界に向けて祈ることは、ことばの大切な機能のひとつである。
 レヴィナス/松葉のデモクラシー論が政治学とは異なる形而上学的な審級に位置している以上、AI民主主義の直接的な対抗言説として作動することは難しい。「政治家は猫になる」世界に対するオルタナティブな制度を構想することもできない。けれども、本書を通じてレヴィナスの豊かな政治哲学に触れる読者たちは、AIによる全体主義への回帰に抵抗し、自身をデモクラシーに向けて開くためのことばを得るだろう。


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