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②「あの日の家族たち」~寺内貫太郎のような父のこと《前編》~


(写真はみんなのフォトギャラリーから頂きました!)
 
わたし達家族は、大工の父、その仕事を手伝う母、わたしより3歳上の姉、ワタシの4人家族だった。
三重県のド田舎で、18歳で生まれ故郷を出るまで、ワタシはマクドナルドもケンタッキーも見たことがなかった。ワタシの家から、歩いて3分くらいのところに、父方の祖母(以下、ばあちゃん)と、父の妹、いわばワタシのおばさんが2人で暮らしていた。
 
大工の父は、40代過ぎて胃癌を患うまで、とても太っており、どのくらい太っていたかというと、向田邦子さんのテレビドラマ『寺内貫太郎一家』の貫太郎を演じる小林亞聖さんくらいのお腹をしていた。大酒飲みで、飲んだ時に気に入らないことを言われると、大声で怒鳴った。怒鳴るだけでなく、手もでたから、昭和のあの頃、ドメステッィクバイオレンス(DV)などという言葉はなかったからただの乱暴な人であったけれど、女ばかりのなかで一人だけ男で生まれ、田舎の大将のような人だった。そのくせ、お人よしで、幼いころから、同じ町で生まれ育って、大人になってからも同じ環境で生活した人だったから、友人は多かった。
 
中学を卒業して、大工の見習いにでて、建築士の資格をとったようで、家の壁には、「1級建築士」の証書が、ワタシが子どものころから飾られてあった。父は、あまり大工の仕事が好きでなかったらしく、よく、そんなことを漏らしていた。お母さんは、大工の仕事が、仕事のある時とない時がはげしく、安定しないことをよく嘆いていて、夏と冬のボーナスの時期になると、なにかにつけ、「お隣の〇〇さんは、課長になったんやと。お父さんも、市役所につとめとったらよかったんやけどな。ばあちゃんが、手に職をつけなあかんてゆうて、行かせなんだんやと」と言った。子ども心に、ボーナスのある市役所の仕事がどうやら優位らしいと思ったけれど、明治生まれで、尋常小学校もろくに卒業していないのばあちゃんが、お父さんに「手に職をつけろ」と言ったのは、「なかなかばあちゃん、やるな」と思っていた。お母さんは、そしていつも、こう結ぶのだった。「まあ、お父さんが市役所に就職しても、すぐに飲酒運転でクビになっとったやろうけどさ」
 
幼い日の記憶の中の父は、仕事をしているか、夜、大酒を飲んで、大声を出しながら、人に付き添われて帰ってくるか、二日酔いで寝込み、なぜか前日に酒の場で話したことなのかなんなのか、後悔するのか、大声で母の名前を連呼し、布団をかぶって寝ている姿だった。そして、その姿を見て、大きなため息で、母が「はぁぁぁ情けないね、、、昼間やのに仕事もせんと」と言って眉をひそめていた。しょっちゅうこんなだったから、家計は火の車だったはずで、ずっと、後になって、姉が看護学校に入学し、ワタシが東京の大学に入学した時には、本当に、どうにもならないような経済状態だったのだと思う。しかし母は、その頃のことを思いだしては「神様はようしてくれとるね。今までようやってこれたんやわ」と言っていた。
 
幼い日や、学校に通っていた頃に、父と一緒に夕飯を食べた記憶は少ない。夕方には仕事を終えているはずなのだが、父は、そのあと飲み屋に出かけ、家族と一緒に団らん、などということは、ずっとずっと後、数十年たって、父が50代でアルコール依存症になり、入院し、お酒を断ってからのことだった。その頃には、ワタシと姉はすでに30代を越えていて、独立していたから、たまに実家に帰った時のことだった。母は、ワタシたちが幼い頃、よく、「うちは母子家庭やな」と愚痴をこぼしていた。しかし、ワタシは、いつも怒りっぽい父が、なにか気に入らないことがあったりすると、寺内貫太郎ばりにちゃぶ台をひっくり返すようなことをしたり、テーブルの食べ物が床にばらまかれたりすることがあるのがわかっているから、父がいない静かな食卓が平和でいいと思っていて、父がいない夕飯をさみしいとか思ったことは一度もなかった。かといって、貫太郎の父は、子どもや家族に愛情がないのかといえば、そうではなく、かなり愛情深い人であったことは、人生、一筋縄にいかないことなのだった。父と家族でいた時間、特に、大人になり、父が闘病して亡くなる頃、そんな一筋縄でない感情に涙することが多かった。そして令和になった今もそれが続いているのだった。
 
(寺内貫太郎のような父のこと《前編》了:次回につづく)

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