カカシのこと 【短編小説】
多様性が大事にされる現代社会。尊重と寛容。それでも、カカシはみんなからはぐれてしまった。カカシは、いつも孤独だった。類は友を呼ぶというように、学校では同じような人たちが同じような人と仲良くなっていった。
お互いに足りないものを埋めていきましょう。先生はそう言ったけど、足りないものを埋めるのは、前提にお互いの興味や趣味(サッカーをしてるとか、韓国コスメが好きとか、推しが一緒とか、そういうのだ)があってこそなんだとカカシは気付いた。
カカシは人が苦手だった。クラスメイトに話しかけられると、その細い肩を窮屈に緊張させ、不格好な笑顔をつくった。(それは級友たちから見るとかなり不気味にみえた。ぼこぼこに殴られた後のボクサーみたいだったから)かといって、カカシは運動が苦手だった。さらに、勉強も苦手だった。ひょろひょろと長い手足を何にも活かすことが出来ず、ぶらぶらと振り回し校内を歩いた。
先生たちもカカシの扱いに困っているようだった。決して不真面目な態度でないのに、成績はいつも悪い。友達がいる様子はなく、スポーツや習い事に打ち込んでもいない。がんばれとは安易に言えないし、不良でもないから叱るわけにはいかない。本人は目立たないようにしているつもりだろうが、その長い手足が不思議と目に入る。
カカシにとって幸いだったのは、両親たちが優しさと暖かさに満ちていたことだった。
父は明るく、物事を深く考えない男だった。
「勉強ができないんだ」
カカシが言うと、父は「勉強なんかできるやつはだめだ」と一蹴した。
「でも、運動もできないんだ」
「運動がどうした。若いんだから恋愛でもしてろ」
カカシは言葉に詰まった。恋人どころか好きな人もいなかったから。ただそれを父に言うのは、何か違う気がした。
「若いうちはとことん悩め、なんでもやれ。なんとかなる、俺をみろ」
父がカカシの背中を叩く。カカシは殴られたボクサーみたいに笑った。
母はカカシの寝食についていつも注意を払っていた。
「ちゃんと寝られているの?」
カカシの就寝が二十二時を過ぎると血相を変えて、母は怒った。
「睡眠のゴールデンタイムなのよっ!」
夜に特別することもなかったカカシは母の指示に従った。次第に背はぐんぐんと伸びた。
「あなた、ちゃんと食べているの?」
背ばかり伸びて、相変わらずひょろひょろとしているカカシを母は心配そうに見ていた。彼女は立派な二重層の弁当を毎朝持たせた。量だけでなく、彩りと栄養バランスを考えてつくられているのはすぐにわかった。カカシは母の愛を、ありがたく、しかし独りぼっちで、体育館の裏にあるカカシが見つけた秘密の場所(ただのコンクリートの段差で、体育館裏は植物がごうごうと生い茂っていたので近づいてくる者はいなかったし、人目にも見えないところだった)で黙々と食べた。空がよく見えて、雲の塊が右から左へと流れていた。風が頬を撫でる。木々が作る木陰を虫たちが散歩しているのも見えたし、足元には珍しい花が咲いていた。カカシは、きっといつまででもここにいることができた。昼休みのすべてを、ここにいて、感じる心地よさを独り占めにしていた。
ぼくは誰かの役に立てるのだろうか。カカシはすぐそばにある花や虫たちを眺めながら思った。人間として生まれるんじゃなくて、いっそ花や虫に生まれたほうがよかったんじゃないか、とも。歌が上手い、足が速い、勉強ができる。絵が描ける。カッコよくて目立つ、ダンスが得意。クラスメイトには大なり小なり、それぞれ持ち味があるように見えた。カカシにはなかった。少なくとも自分では自身に人より秀でたものは見つけられなかった。
『何か一つで良い。君だけのスペシャリストになりなさい』
答えを求めてさまよった書店に平積みされていた自己啓発本の表紙にデカデカと書かれていた言葉だ。スペシャルにならないと、生きてはいけませんか。カカシは何もない自分を恥じた。
世界に対する生きにくさ。カカシの心をぶ厚い曇天が覆う。言葉は、重たくのしかかる。みんな小さい頃から知っていたのだろうか。スペシャルにならないといけないって。うちの家族は一言も言ってくれなかった。カカシは落ち込んだ。平凡以下ですみません。
「ただいま」
うちに帰ると、カカシに元気がない事に父が気付いた。父は尋ねる。
「どうしたんだ」
「ぼくは何のスペシャリストにもなれない気がするんだ」
ふん、と父は鼻を鳴らし言う。
「なんだそれ」
「生きていくには、何か専門分野を持って、一つのことにスペシャルになっていかないといけないんだ」
「それ、かあちゃんが言ってたのか」
「違うよ」
「学校の先生か」
「違うけど」誰が言っていてもいいじゃないかと、カカシは思った。「本に書いてあったんだ、本屋で売られてた」
父は、ほうと大げさに腕組みをした。何やら思案して頭をぐるぐる動かしている。
「すると、あれか。おまえは会ったこともないやつの、声がでかいだけの意見を、鵜呑みにしてんのか。少し売れてるくらいの」
売れているかは知らないけど……。カカシは言葉の続きに迷ってしまった。
「おまえは俺にとってスペシャルなんだよ、それを忘れるな」
投げやりな父の言葉、書店に並んでいた少し売れている本の言葉よりは、愛があるのか。わからない。けど、その言葉は紛れもなくカカシに向けた言葉だっていうのはわかっているから、ありがたくもらっておく。
カカシは台所にいた母に声をかける。母は明日の弁当を作っている最中だった。父の分も作ってある。
「何をやっても一番になれないんだ」
「あるじゃない。あなたはいつも私の作ったお弁当を完食してくれるし、ありがとう、ごちそうさまって毎日言ってくれるわ」
「それは、全然特別じゃないよ」
残念ながら、それじゃあ生きていけないんだ。母はいつも家にいて社会の事がわからないんだ。カカシはそう思った。
「現実はきっとお金も稼がないといけないし、もっと大変なんだよ」
「あら、そうかしら。私はあなたが例え一流のプロバスケットプレイヤーでも、ありがとう、ごちそうさまを言えなかったら、育て方を間違えたって思うわ。それに……大人になった時の事を、もう考えてるだなんて、やっぱりあなたは偉いわ。お父さんは、毎日、その日の事しか考えていないし、考えられないもの」屈託のない笑みを母は浮かべる。
カカシは部屋に戻る。六畳一間の自分だけの空間。ベッドに仰向けでダイブすると、カカシは自分が自分で在ることの不思議さを感じた。目に映る景色、背中が感じているベッドのシーツのやわらかさ。これまで生きてきた日々、断片的でも覚えている出来事の数々。カカシの意識は此処にいた。知覚と現象ははっきりとしていて、でもあの両親から産まれたことは朧げで、右手を上げようと意識すれば、右手が動いた。左手も一緒だ。意識と動作。あたりまえのことが、自分だけの空間で、今改めてみると、スペシャルなことのように思えた。
あきらめないで。
誰かの声が聞こえた。
何を?
バッと身体を起こしても、部屋にはカカシしかいないのは明らかだった。
照明が眩しかった。カカシは目を瞑った。眠りはまだ少し先にありそうだった。意識と無意識が徐々に交差していく。
まどろみの中で交じり合った神経の回路、カカシはどこまでもカカシだった。父も母も、学校にいる全員も、誰一人カカシのことをわかっていなかった。カカシは、カカシの意識や身体は、本当に、自由で孤独だった。
誰ともなじめない自分。けれども人並みに眠くなっていく。平凡で何の才能も見つけられない。それがどうした。何もかも面倒くさかった。瞼が重い。上手くなんて生きられない。人生にはじめてが多すぎる。カカシはカカシであることが嫌になる。
悔しかった。
あきらめないで?
知ったようなこと言わないでほしかった。
何かを為すために生まれた、だとしたら世界はおたんこなすだ。
カカシは夜に浮かんでいる。月は友達で風が吹けばそこまで飛んでいけた。
カカシが想えば、いつでも月くらい簡単に行ける。そのことを誰も知らない。
カカシはカカシであった。
カカシはカカシでなかった。
空白が満たしていく。
月は白く光る。心はすぐそばにある。
カカシは眠る。空はカカシで、カカシは空だった。物理的な距離なんて瞼の裏にはない。
明日を待つ。待つ事は味わいだった。いただきます。母が笑う。父が肩を竦めた。スペシャルな弁当、心を満たす。
時間は朝へ向かっていた。
カカシはいま、何にでもなれる。
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