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頭で分かってるということ、腹まで落ちるということ

--頭--

夏が終わる頃には無事に28歳になっているはずだけれど、それまでに28歳らしくなった!と満足はいかないだろう。

だって
小学1年のときに遊んでもらった6年生と、自分が同じになれたとは到底思えなかった12歳の頃から、それはずっと続いているんだから。

きっとこの先も「あの頃抱いていたイメージ」を「この度なってしまった私」が超えているなんてことは
このまま行けば、無い。

38歳になった私も、思いのほか問題だらけで発展途上で未熟で幼稚でわがままなままなんだろうなぁ、今、想像しているよりは。
と最近思ったために多少理想へ遠い自分に対しては辛さが減った。

だけど現時点。
白状すれば私は全くもって聞き分けが良くなったわけではなくて
諦めがある一方、私は私より年上の世間さまざまな人や同い年の人について「なんて大人げないの!」「そんなもんなの?」なんて自分が優っているとでも感じた場合にだけ思ったりしている。

すごく自分勝手に。

自分だって届かないのに、また他何事も、頭では分かっていても、アウトプットを変えられない。

なぜか。

多分、「頭」と「お腹」に距離があるからではないだろうか?なんて言い訳でしょうか。

でも「頭」で芽生えたこと、理解したことが
「お腹」まで落ちるには
それ相応の物理的時間か、否応無しの他力か、自らによる努力が必要なんだと、そう思う。

日々を過ごす中で自然とくだっていき
気がついたら「お腹」まで落ちている事もあれば

日々を過ごす中で新たな芽生えや理解が「頭」に新入りとしてやってきて、押し出される形で落ちていく事もあるだろう。半ば強制的に。

--胸--

「頭ではわかっているけど心がついてこない」のも、同じだろうし、心=胸とするなら
ここも通過点に過ぎないのかもしれない。

往々にして人というのは(あるいは私は)
「無理矢理、面倒、疲れる、努力がいる、勇気がいる、怖い」
これらの事態を避けたがる。すると腹落ちするまでをだいぶんに物理的時間のほうへ頼ることとなる。

だからきっと「あの頃」を超えはしないのだ。
生きていればそれなりに新たな芽生えは頭に降り積もるけれど、胸を通り腹まで落ちて板についたモノの数が合わないから。

生きてきた時間、過ぎ去った時間、経験値、年齢。

それに見合った分量と数を蓄えられてないことを誕生日や何かの節目に認めたとき
「あー宿題が山盛りだ。まだまだ未熟、頑張ります。」と何人かに向けて言ってみたりする。

私はこれまでそうしてきた。深くは考えずに、まだ本気出してないだけだし。つって。

けれど、考えてみると「無理矢理、面倒、疲れる、努力がいる、勇気がいる、怖い」ことを、休まずとは言わなくたって、やり続けられないならば、そんなこと言ったっていつまでも追いつきはしないのだ。気持ちの問題ではない。

--腹--

では今一度。
それはとても苦しいことで、人生休みなく毎年できるとは言えないかもしれないことを
年上だろ?または同い年だろ?ってだけで他人には求められるか私。

頭から胸へ、胸から腹へ
自分の力で押し出して蓄えよと。
自力では難しいからこそ、
環境が人を育てると言われるのではないか。(他力によって強制が働く)
その環境に身を置けたそれは巡り合わせや、ちょっとしたラッキーによるものなのだ。それだけで、過ごしてきた時間や経験や質はすでに平等ではない。

この記事を書きスクロールしてお腹まで
ちょっとはきた気がする。
明日から、世間の年上の方々をちょっと優しい目で見てみる。

多少は環境に恵まれながらも自力で続けた人が、世で名を挙げているんじゃないだろうか。歳を重ねたからって、誰もがそうではないということ。またそれを否定しないということ。

必要なのはありのままを一度ただ認めること、なのかもしれない。これが1番難関だ。

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