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小池光『茂吉を読む 五十代五歌集』五柳書院(後半)

冬がれし木立(こだち)の中(なか)はものも居ず幽(かそ)けくもあるか落葉(おちば)うごく音(おと)『寒雲』
〈誤解のないように付け加えるが、だからといってこの叙景歌が実は隣室の情事のコトを歌った一首の擬装というのではない。そういう読みを「コト読み」という。コト読みとは、対象と言葉を一義的にこれは何々のコト、これは何々のコトと一本の糸で連結して納得する読み方である。コトよみは悪しき読み方の見本で、それでは辻褄は一見すっきりするが、詩歌は死んでしまう。詩歌の詩歌たるゆえんは、イメージや意味の重層性にあるからだ。コト読みで足る歌はただの報告である。〉p171~172
 自分がコト読みをしているかどうかの判断はなかなか難しいが、陥りがちだと思う。掲出部分の最後の二文はとても重要なことだと思う。

一米(メートル)あまり隔てて見つつをるこの飛行機は明日(あす)飛びゆかむ『寒雲』
〈この遠近感を無化した距離感は、茂吉という人が抱えていた思考の欠落に一脈通じるのかもしれない。戦争詠などにみる局所へのこだわり、大局的視点への無関心がこういう距離の取り方に相通ずるとすれば茂吉の特質がやはり出ている。茂吉ならではの距離といってもよい。〉p177
 茂吉の特質に対する小池の説明は分かるが、だからといってこの歌がいい歌に見えてくるということはない。距離感だけでなく、時間感覚もやはりどこか変、というか独特だ。

〈どうも茂吉の記憶は違っていやしないか、といいたいのではない。人の記憶はあてにならないといいたいのでもない。記憶とは、それがどんなに「正確」を信念させても、すでに「物語」にほかならない。いいかえれば、「物語」にならないものを人は記憶することはできない。そういうものではあるまいか。そしてまたそれが「まぼろし」ということである。〉p187~188
 「木芽(連作)」中の「まぼろし」という語の出て来る歌についての考察の一部。この人間の記憶に対する洞察には深く同意する。

罪ふかきもののごとくに晝ながら淺草寺(あさくさでら)のにはとりの聲『寒雲』
〈「晝ながら」の「ながら」を口語に置きかえることははなはだ難しい。不可能だろう。(…)浅草寺の昼間に、にわとりの声がした。それを罪ふかいもののように感じた。なぜか、理由などもっともらしくこじつけるのは愚である。もっともっと無意識の直感である。(…)この感覚はまぎれもなく「生活」の表層を貫く。茂吉の歌のこわいところである。〉p193~194
 文語体でしか表せないこともあるし口語体でしか表せないこともある。そのことと無意識の直感を感じることは繋がるのだろうか。一段文語体を高く見ている意見のようにも感じられる。ただ無意識の直感が深いところに届くというのは歌の韻律の効果もあり、あることだと思う。

ドイツ製の兜かむれる支那兵に顔(かお)佳(よ)きをみなご立まじる壕(がう)『寒雲』p198~203 
 ニュース映画を見て作ったと思っていた歌が茂吉の夢に基づくものだった、という小池の調査の報告は詳細だ。こうした歌の生まれるところを探る執念と、茂吉にとって映画と夢は同じく「見る」ものであった、という分析はすごいと思う。しかしそこに引かれている茂吉の「童馬山房夜話」の一文にはげんなりする。それに対して小池が〈いってることはひどい偏見といいがかりだがほとばしる言葉は天才の言調で、あきれつつ、感嘆する〉と言っているのにもげんなりする。

〈短歌の言語は論理の言語ではない。AかBか解釈を限定するのは空疎といえば空疎なのだ。(…)情景は、つねに心の情景を投影するほかにないものであれば、客観的な叙景歌などというものははじめからありようがないのである。〉p208
 歌一首の評としてもすぐれているが、叙景歌というものに対する考え方としても考えさせられる。

あやまれる蔣介石(しやうかいせき)の面前(めんぜん)に武漢(ぶかん)おちて平和(へいわ)建立(こんりふ)第一歩(だいいつほ)『寒雲』
〈先に述べたようにな「意味」にたいする「語気」という観点が言葉の作物である短歌には一方でかならず備わるのであって、そこでは「意味」が戦争賛美だから作品の全体が即否定されるというふうに単純な論法では済まないのである。「語気」は、いわばニュートラルであるからだ。(…)「意味」はおそろしく空疎だが(空疎というのは思索の痕跡がないという意味で)、「しらべ」は大きく雄渾である。一歩さがって鑑賞すればこれはこれでみごとな作物である。極言すれば「語気」に人格はないのだ。〉p214~215
 確かに内容で断罪するのは違うとも思うのだが、本当にどんな内容であっても「語気」がいいからいい、と言える自信は私には無い。それにこれ、そんな「語気」がいい歌か。思想の痕跡は無いが、言いたいことである「意味」ならたくさんあって、それを無理やり全部詰め込んでいるようにも思える。

しづかなる午前十時に飛鳥佛(あすかぶつ)の小さき前(まへ)にわれは來りぬ『寒雲』
〈「小さき飛鳥佛の前に」では歌にならないが、語順を入れ替え「飛鳥佛の小さき前に」とすると一挙に名品が誕生する。短歌表現とはついには語順であり、語順にすぎない。そんな途方もない感想がふと胸裏をかすめてとんでゆく。〉p222~223
 短歌の入門書などにもよく「語順が大事」とあるが、小池のこの言い方はほとんど信念というか信仰みたいだというか。歌の敬虔さにつられているのだろうか。言ってることはもちろん、間違いないことだ。

滿州國牡丹江よりの軍事便蝮(まむし)の群(むれ)を捕へしことのみ『寒雲』
〈事実をその通りありのままに提示しただけだが、それが「牡丹江」からの通信でなかったならば、別の地名を同じように嵌めて同じような歌ができたか。けっしてそうは作られない。「牡丹江」であったからこそ茂吉はこの通信に妙味を見いだした。どんな「ありのまま」でも歌になるのではなく、特殊特別な「ありのまま」だけが歌になる。それを決定するのは主観の働きである。つまり「ありのまま」ということは一種虚妄の概念である。〉p236~237
 この最後の部分が凄い。子規の主張に斬りかかっている。

おもほえず彼女(かのぢよ)ちかづき來りつつ三米突餘(メートルよ)ばかりになれり『霜』
〈言葉は根源的にすでに比喩であることを避けられないが、もっとも比喩性の薄い言語は自然科学の言語である。とりわけ数量詞は無機質で文字通り、言葉通り以上の意味(比喩性)をもちにくい。茂吉には数量詞を配する歌が多々あるが、このように、多く比喩性の介在を単的に排除する手段として使われている。〉p248
 最初の一文が考察を誘う。言葉はすでに比喩である、そして数量詞が最も比喩性が薄い。茂吉の歌以前にそこに興味を惹かれる。

〈茂吉の文体の大きな特質は、散文であれ短歌であれ、このように推量(想像)が、ある時点で突如断定(実景)に飛躍することだ。そして、ひとたび断定すればあとはテコでも動かない。想像が実際を凌駕する。そして、凌駕したゆえに想像は実際よりも実際となる。いわば、白を黒といいくるめるに近い。いいくるめるパワーの巨大さに圧倒され、いつか白が黒よりも黒くみえてくる。しかしそこに作為や詐術はなく、ただ主観の巨大な確信だけがあるのである。〉p250~251
 これも茂吉の歌や散文以前に、小池の論に惹かれる。

松毬(まつかさ)が松のこずゑより落ちくるを拾(ひろ)ひて持てり鞄(かばん)のなかに『霜』
〈この秘密は、時間を一点にとるか、複数点にとるかというところにある。(…)茂吉は、このように出来事を時間軸上に次々に移動させて表現するのである。現在か過去かということは、基準点の設定いかんにすぎない。われわれは一首の歌をつくるときに、無意識のうちに一点の時間原点をもうけているが、茂吉はこれを排除するのだ。時間原点を複数個にとることによって、主体はたえず時間の現在にいる。だから、説明的ではなく、運動、生動の気息が立ちのぼる。〉p252~253
 2000年頃からの若い世代の短歌がこのように評されて来たのではないか。この文の一番最初に引いた歌の解説にも通じることだ。 

〈概念に対立するのものは単独性である。実在するものはつねに単独性をともなう。〉p254
 これは茂吉の歌の話で無くても短歌の話でなくても、心を掴まれる文だ。

五柳書院 2003.6. 定価:本体2300円+税

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