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小池光『茂吉を読む 五十代五歌集』五柳書院(前半)

 小池光が斎藤茂吉の歌集を読んでその読みどころを解説する一冊。小池の茂吉愛に溢れた本だと言える。個人的には茂吉の歌を良いと思えたことが無い。小池の解説に従って読めば、少しでも茂吉の良さが分かるかと思ったがそうはならなかった。やはり茂吉の歌は私の感覚には合わない。しかし、勉強になったと思うことや、疑問に思って今後考えていきたいことは書き記しておきたい。

眉(まゆ)しろき老人(おいびと)をりて歩(ある)きけりひとよのことを終(をは)るがごとく『石泉』
〈その老人を見、観察する側つまり作者の時間的現在はどこにあるか。「眉しろき老人をりて」が時間aに立っての記述である。「歩きけり」は時間bにズレる。茂吉の歌を読んでゆくとしばしばこのような時間点を複数に取る表現に出合う。主体が分割されて複数化するような印象を生む。これはひじょうに茂吉に特徴的な文体で、他ではまず見ない。われわれは九割九分が一元的時間軸上の一点から対象を見、記述するのであり、その結果、たとえば、(…)というような理屈正しく、そして平凡な作を得ることになるのである。
 茂吉はこういう多元化する自己をおそらく無意識のうちに迷わず短歌形式のうえに重ねることができた。作品の解きがたい謎、重層化された奥行き、混沌…と言った茂吉歌の特質は、この時間軸上の自己の多元化というからくりに追うところが大きい。〉P14~15
 この歌の時間軸がそこまで重層的だとは感じなかったが、一首の時間軸が重層的だということ自体はものすごく大切な指摘であり、論ではないかと思った。現代短歌の時間感覚が近代短歌から変質していることは度々指摘されているが、この論はそれを無化してしまうのではないだろうか。茂吉の近代短歌が、現代短歌の時間感覚を既に持っているとしたら?

新庄(しんじやう)をわがたちしより車房(しやばう)には士官ふたりが乗込み居りつ『石泉』
〈そういう辻褄合わせをもって作品に接しない。はるかに無意識に近いところで咄嗟に歌は成る。この場合も客室にはふたりの士官がすでにいたという、ただそれだけのことに断固とどめたい。あえて一歩踏み込めば、緊張の発生である。二人の士官がいかめしい顔で座り、足の間には軍刀を立て、軍刀の柄に肘を置いた四背で身動きもしない。そういう場面を想像すれば生ま生ましい緊張があたりを支配している。その緊張を感受すれば足りる。〉p26~27
 これも時間の描き方が、独特というか、変というか。初句から読んでいくと、最初から士官が乗っていたというより、後から乗り込んできたみたいに読めてしまう。「乗り込み居りつ」という表現が分かりにくい。「乗込む」は動作だし、「居る」は状態。乗り込んで来た、でもなく、乗って居た、でもない。そこに完了の「つ」。「わがたちしより」があるから、と考えて、最初から乗っていたのだと分かるまでにちょっと時間がかかる。こういうのが茂吉ファンにはいいのだろうか。

くれなゐの林檎(りんご)がひとつをりにふれて疊(たたみ)のうへにあるが淸(きよ)しも『石泉』
〈そして「をりにふれて」がさりげなく、本当にうまい。この句が実に凡手には出ない。赤い林檎と青い畳がまさしく「ふれて」いるではないか。そこに清潔な、早春のスパークが飛ぶ。〉P34~35
 こう言われると自分が凡手なのだと思わせられるが、「をりにふれて」はやはり妙だ。「折にふれて」に続く動詞は「思う」とか「思い出す」等だろう。「折にふれて」「ある」とはどういうことか。そう表現するところが天才だということか。〈まさしく「ふれて」いる〉という解説も納得できない。「折にふれて」と、実際に物と物が「触れる」のは別事だろう。
 赤い林檎が畳の上に一つある、それを見る度にあるいは思い出す度に清々しい気持ちになる、というような感じか…と思うが。

北ぐにの港に來つつ或る時は昆布倉庫を窺(のぞ)きつつ居り『石泉』
〈「つつ」は茂吉に頻出する語である。ただの癖ともいえるが、時間への独特のこだわり、おそらく強引な現在への引き込み意識があって多用される。茂吉調の歌を作りたい人はとりあえずあらゆる動詞に「つつ」を付帯させればよい。〉P50
 これは笑った。そんな人いるかな。
〈しかしながらこの「つつ」の意味は現代語と微妙に違う。今日、動詞に「つつ」がついた場合、動作の継続でなく、もっぱらその動作の立ち上がり、動作のはじまりとして使われる。(…)しかし茂吉の「つつ」にはそういう意味はない。文字通り継続の意味しかなく、継続する動作の強調の意味に使われる。〉P50~51
 この現代語の意味の方が意外。「つつ」は動作の継続と、同時進行と思っていた。しかし確かに動作の立ち上がりの意味もあるとこれを読んで思った。もっぱら、とは思わないが。

たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪消(ゆきげ)のこれり『白桃』
〈むろん雪は浪をかぶっている、しかし、それでも、消え残っている、というのが歌の解釈であろう。だが、こう解釈する場合のキーワードである〈しかし〉〈それでも〉の語は、一切歌のおもてには現れない。これはたまたまそうなっているということでなく、おそらく意図的にそうなっている。
 なにを意図しているか。現象を解釈することなく、現象を現象としてだけ提出することを意図している。たえまなく浪が寄せる。雪は浪をかぶる。雪は残っている。こういう三つの記述をいわば接続詞を挟むことを拒絶して(接続詞こそは解釈のもっとも率直な結果である)ただ併置する。現象の記述に因果律を持ち込まない。いいかえると記述の中に筋道を立てない。文字通り〈ありのまま〉にできている。〉p76~77
 接続詞というもののあり方を考え直させられた。そういえば接続詞には解釈がはいる。逆に言えば、散文では適切な接続詞が無いと、文が不完全な印象を与える。詩歌ではそれを逆手に取れるということか。

谷汲はしづかなる寺くれなゐの梅干(うめぼし)ほしぬ日のくるるまで『白桃』
〈何度もいうけれど、対象を言葉で写し取る(写生)という信念はひとつの思い込みにすぎない。色彩語はもっとも端的にその虚妄性を明らかにする。なぜならば、現実的存在に付着する色彩はすべて連続的に無限に変化し、一方それを追いかける色彩語の数は有限で限られている。一対一の対応はありえない。どう精密に観察しようとも色彩を言葉に〈翻訳〉すること、すなわち写生することなどできはしない。〉p96~97
 色彩だけでなく、あらゆる事象がそうだとも言える。

おのおのの炎(ほのほ)を持てる小舟(をぶね)等(ら)は暗き彼方(かなた)よりつらなめ來(きた)る『白桃』
〈この一首だけ取り出した場合、鵜飼の歌とはまずおもわれないということである。(…)これをまた写生というと、写生とは事実を事実通りに言葉に写しながら、とんでもない別次元の幻想空間へ読み手を誘う方法ということになる。そして、そういう意味においてなら写生は有力な方法である。写生をつきつめると象徴に至ると茂吉は言ったが、その象徴とは別次元へのイメージのスライドと考えるとわかり易い。この一首などはその格好の例といえる。〉p98~99
 この歌は好きだ。そして小池の解説も納得だ。写生と象徴の関係性が最も良く分かる例ではないか。

五(いつ)とせあまりのうちにかく弱(よわ)くなりし力士(りきし)の出羽ヶ嶽はや『暁紅』
〈「かく弱く」の三句は、これも「なりし力士の」と句またがりして下句に続く。上下句を句またがりするのはあぶない技で、正調の短歌では禁制といっていいが、ここではなりふりかまわず、やむにやまれず、もうふにゃふにゃとまたがってゆくのである。〉p119~121
 正調とは何、と言いたくなるが、まずこの当時のアララギ調と取っておく。それにおいては禁制であった、と。しかし2020年代の現在では、全く普通に行われている句跨りではないか。

老いづきていよよ心のにごるとき人居(ひとを)り吾をいきどほらしむ『暁紅』 
〈この歌は下句にメッセージがあるが、上句が印象に残る。老いによって「いよよ心のにごる」という。歳を重ねていって清らかになるのでもなく澄むのでもなく、心はむしろ濁っていくのだという覚醒が、重い。こういう老いの歌はやはりなかなか見ない。老いてゆくみずからを救済するように発想するのが常である。しかし老いることは身体も濁り、心も濁る。いや心こそいよいよ濁る。救済の道などどこにもない、ただ憤怒するのみだ、と歌っている。〉p125~126
 この歌はあまり好きではないが、小池の解説は好きだ。歌自体は「とき」の使い方が気になる。

みちぐさを食ひつつ附(つ)きて來し吾が子坂(さか)の入口(いりくち)に蜻蜓(やんま)を打(う)ちぬ『暁紅』
〈場面としてはよくある歌である。しかし多くの歌は、その場合こういう風にはつくられない。親子の愛情とか成長への感慨とかそういう〈観念〉が混入し、むしろそれが前面に出てくる。この一首はそういうものを出さない。ただ瞬間の行動であり、それに留める。心すべきことである。〉p129~130
 御意。この解説は確かにポイントを突いている。

鼠等を毒殺(どくさつ)せむとけふ一夜(ひとよ)心楽(たの)しみわれは寝にけり『暁紅』
〈実にすさまじい。たとえそれがネズミであろうと誰が「毒殺」の語と「心楽しみ」を平然と同居させるか、斎藤茂吉以外にはない。(…)すさまじいのは行動でなく、ただ言語表現である。同じこと、ごく日常的なことがこのようにも言えるということであり、それが余人にはできないのである。〉p141
 これも納得の解説だ。歌は好きになれないが。

ソビエットロシアの國(くに)の境(さかひ)にて飛行機ひとつ堕(お)ちゐたるのみ『暁紅』
〈どういう事情があって飛行機が墜落したか、墜落してどういうことになったか、その墜落について作者はいかなる感想すなわち感動をもつか、つまり「言いたいこと」は何か。そういう問いにはまったく答えない。答える必要を認めない。事実を事実としてだけ、通す。感想、感動は事実の解釈によって発生する。ゆえに解釈の不在は感想、感動の不在である。〉p152
 この解説はすごいな。解説によって、茂吉の歌が燦然と光を放つ感じだ。自分で歌だけ読んだのではこうは思わないだろう。特に〈感想、感動は事実の解釈によって発生する〉が圧巻だ。

(続く)













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