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三枝昻之『跫音を聴く 近代短歌の水脈』(六花書林)

 近代短歌史に足跡を残した歌人たちを一人一人取り上げて、その歌人の功績を描いていく。無味乾燥な短歌史と違って、歌人の跫音、さらには息遣いまで聞こえてくるような本だ。近代短歌史は、鉄幹子規から始まっていたことが多かったが、この本の新しいところは、鉄幹の師である落合直文から始めているところだ。また佐佐木信綱も単なる中庸の新旧折衷派とは捉えていない。信綱の捉え直しという点でも新しい史観だ。
 元々講演などの原稿から起こされている論も多く、語りかけるような口調が特徴だ。文体は平易だが内容は深く濃い。また、勤務先であった山梨県立文学館の「資料と研究」誌が初出の論も多い。様々な場で書かれた論を集大成したところ、近代文学史と呼ぶにふさわしい一冊になったところに三枝の力量を感じた。

以下は自分のための忘備録である。

〈信綱十歳の明治十五年には東京に移り、信綱は当時の御歌所長高崎正風に入門、十三歳で東京帝大文学部古典科国書課に入学、最年少だった。明治二十一年、十七歳で古典科を卒業、この時の卒業論文が加筆されて四年後刊行の『歌之栞』となった。〉P18
 まず、旧派の長と言うべき高崎正風に入門していることを忘れてはならない。また、当時と今は学制や大学を取り巻く環境が全く違うとはいうものの、凄まじい早熟の英才だったことは間違いない。その卒論の『歌之栞』は作歌法や和歌の百科全書で、旧派歌人の座右の書となって大いに流布した。
〈何十年後のことではあるが、石川啄木君の父君は村人に歌を教えておられたが、座右に「歌の栞」をおいてあったということを啄木君の妹君が啄木伝にかいておられる。〉P19
 信綱自身の回想から。この人間関係かなり濃い。また茂吉にとっても初めて買った歌書はこれだったようだ。
〈伝統を大切にしながら、旧派新派の区別なしに、全体を一つに束ねてぐいいと背負う信綱の姿である。それが佐佐木信綱における和歌革新の形だった。どっち付かずという感触がつきまとう「折衷派」は信綱にはふさわしくない。〉P22
 これは三枝の提示する新しい信綱像である。

〈晶子と茂吉、二人に共通する動機は「これならば自分にも詠める」である。やかましい作法とは無縁の飾り気のない歌への関心である。「おのがじしに」や「自我の詩」、そして「写生」といった標榜の基礎にそうした動機があったことは大切である。寛の『東西南北』以前がその呼び水の一つのようにも見えて興味深い。〉P79
 与謝野寛論。鉄幹の歌を読んで晶子が、子規の歌を読んで茂吉が、これならば自分にも詠める、と思ったという共通点。旧派の約束事抜きに、という時代背景もあるが、現在でもネットに載った短歌を見て、これならば自分にも…と思って始める人は多くいるだろう。鉄幹や子規が旧派の約束事を反故にして始めたはずの近代短歌がいつの間にやら色々の約束事を纏った現代短歌へと徐々に変じていき、それがネットの洗礼を受けて変わりつつあるのが現在ではないだろうか。

〈「しひて筆を取りて」一連から見えてくるのは、写生を脇によけた心の吐露であり、大切なのはわが万感の思い、という選択の切実さである。そこに強いて写生という言葉を当てはめるならば、写生とは自分を写生すること、自分の内面を写生することでもある、ということになるだろう。〉P96
 正岡子規論。和歌革新を進めてきた子規の最晩年の連作「しいて筆を取りて」には、むしろ和歌革新の論の実践は無い。短歌という詩型が思いを述べるのに適切な形であり、そこにあるのは写生よりもむしろ死を前にした子規の心の吐露である、とする。子規の激しい文学運動と、死を前にした作品の対比を論じて胸に迫る文章だ。

〈平成十九年十月号のデータである。(…)一位『一握の砂』、(…)五位が『みだれ髪』だった。〉P98
 与謝野晶子論。売れている歌集を検索したところこんな結果が出た、と。平成十九年は2007年だから、どちらもざっくり言って百年前の歌集である。
〈堺敷島会での活動など、晶子の発端には旧派和歌の時代があるが、「歌俳句はやかましい作法や秘訣のあるらしいのが厭」だった。しかし読売新聞明治三十一年四月十日紙面に載った与謝野鉄幹の歌を見て「此様に形式の修飾を構はないで無造作に率直に詠んでよいのなら私にも歌が詠め相だ」と考え直す。
 春あさき道灌山の一つ茶屋に餅食ふ書生袴着けたり 与謝野鉄幹
これがその時の歌である。〉P103
 晶子の著書『歌の作りやう』より。この項の小題が「挑発する鉄幹」。晶子論であると同時に鉄幹論であり、明星論である。
 また、前田夕暮、北原白秋、若山牧水、石川啄木の初心の頃の歌を並べて載せているが、それがどれも『みだれ髪』の模倣そのもので笑える。
〈『評伝前田夕暮』で前田透は「夕暮の第一歌集『収穫』では晶子模倣時代の約四千首は数首を除き全部捨てられている」と説明している。〉P107
 模倣と言ったら模倣だが、それでも四千首捨てるというのはさすが夕暮だ。こうやって先達を模倣して自分のスタイルを作るのだ、という見本のような逸話。
 
〈「あゝ淋しい」を「あな淋し」と言はねば満足されぬ心には、無用の手続きがあり、回避があり、胡麻化しがある。其等は一種の卑怯でなければならぬ。〉P125 石川啄木「食ふべき詩」(明治四十二年)
〈「吾々は『である』また『だ』と感ずる。決して『なり』また『なりけり』とは感じない。これを感じたかの如く云ひまた感じた如く聞く。ともに憐れむべきことではないか」。〉P144 尾上柴舟「短歌滅亡論」(明治四十三年)
 啄木は柴舟の滅亡論に噛みついたが、用語論的には共通するものがあることが分かる。そしてこの用語論は二十一世紀の今もあまり変化せずに、相変わらず短歌の大きな問題として残っていると思われる。
 用語のところだけ引いたが、三枝は他にも短歌形式への疑問など二人に共通するところを挙げている。
〈柴舟①連作批判(一首独立歌の大切さ)
   ②短歌形式への疑問
   ③日常語使用の必然性
 啄木①手間暇のいらない歌の小ささが大切
   ②短歌定型への揺さぶり
   ③歌は時代の言葉で書くべき〉P144~146から抜粋引用
〈柴舟と啄木は同じ問題意識、危機意識を持っていたことがわかる。批判、対立を超えて、明治四十年代のもっとも切実な問題意識といっていい。二人に共通するのは「自然主義を短歌にどう生かすべきか」である。小説から広がった自然主義は短歌においては平凡な暮らしをどう作品化するかという問題意識の中に根づこうとしていた。いわば普段着の歌を意識した。だから日常語が大切という流れになる。〉P146
 連作批判、定型など現代にも通じる問題意識だと言えるだろう。

六花書林 2021.9. 定価:本体2600円(税別)

 



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