見出し画像

第49編 三分間

携帯のデジタル表示は、今、PM23:57を示している。

 都会の一室。暗い部屋にテレビの明かりだけが灯っているが、この部屋の中に男が一人いることは、誰も知らない。関心がないわけでもないのだが、誰も知るべきすべがない。男はいままでに様々な失敗を犯してきた。その失敗は、今日、いや、あと三分後にようやく成功へと導かれるのである。

「戦後最大のあの事件が、明日の深夜零時をもって、時効となります。今も悲惨なあの光景が思い出される方もいるでしょう。深夜零時、時計の針がちょうど重なる時、犯人は罪を贖うことなく・・・」

 テレビからは、あの大事件についての報道が朝から延々と流れ続けていた。戦後にして最大のあの事件。その悲惨さは極まりないものだった。警察も犯人を逮捕するためにあらゆる手段を講じた。しかし、犯人はその尻尾を警察に掴まれることもなく、今日まで逃げおおせていたのだ。そして警察の努力も虚しく、事件は犯人逮捕へとは至らずに今、時効を迎えようとしている。

デジタル表示が、PM23:58へと鈍い動きで変わる。

 ドンドン!男の部屋のドアが叩かれた。暗い部屋の中、男はビクリと一瞬肩をあげて反応をしたが、しかし、このような時間に男を訪ねてくる友人などいないし、恋人もいない。

「おい!いるのはわかっているんだ。ドアを開けろ!」

 つぶれたダミ声。中年の男の声だ。「何かの間違えだ。」そうつぶやき男はその身をさらに強張らせた。不意に、ドンと隣の部屋のドアが強く開け放たれた音がした。そして、女の発するかん高い声がドアの外で響く。中年の男とあともう一人が何か言い争っているようだ。そして、また隣の部屋のドアがドンと大きな音をたて、静けさが戻った。「またか。」部屋の中の男はつぶやいた。隣の部屋の女は、最近しょっちゅう男を取り替えている。その度に今のようないさかいが起きている。今日のも、そのいざこざの一幕だったのだろう。部屋の中の男は、再度気を引き締めた。そして自分に言い聞かせる。もう二度とあのような失敗は許されない。その時、胸の鼓動がはやくなっていたのだが、部屋の中の男はすでにそれに気づけないほどに、意識は自らを失っていた。

PM23:59。デジタルの時計が止まっているのではないか。男にはそう感じられた。

「いよいよ残りがあと1分となりました。テレビをご覧の方で、何か情報をお持ちの方、なんでも良いので気になることがありましたら、こちらの特捜本部へご連絡ください。今頼りになるのは、あなたの情報です。隣近所で何か不審な・・・」

 テレビは、依然あの大事件についての特集報道を流し続けている。

 窓の外に、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。いや、そう聞こえているだけなのかもしれない。普段は何気ない街中の音でも、今日の部屋の中の男にとっては、耳につく嫌な音だった。

「あと、30秒です。みなさん、犯人が捕まる事を祈りましょう。もう、祈るしか手立てはありません。奇跡が起こるように祈りましょう。」

 とうとう、テレビの司会者もおかしくなってきたようだ。そんな奇跡など起こりはしない。男は祈るように思った。

「あと、10秒、9、8、7、6、5、4、3、2、1・・・」

 ジリリリリン。暗い部屋の中、男の手元。携帯のアラームが激しく鳴り渡る。

 その瞬間、部屋の中の男は、とうとうやり遂げたのだった。今まで何度も挑戦してきたが、あらゆる弊害に邪魔をされ、その運命を添い遂げるには至らなかった。しかし、今夜とうとう彼はついにやり遂げたのだ。こんな事、一体誰がやり遂げることが出来るだろうか。戦後から現在に至るまで、もしかしたら考えついた者がいたのかもしれない。しかし、それをやり遂げるほどの、強靭な精神力を持つ者は未だかつていなかったであろう。

「どうだ、俺はやってやったぞ!やってやったんだぞ!」今、彼は大声でその成し遂げた思いを世界中に向けて叫んでやりたかった。

「この事件は、残念ながら本日のこの時をもって時効を迎えてしまったわけではありますが、私たちの記憶からは決して、決して、消えることはありません。あの痛ましい・・・」

 彼がこの計画を思いついてから、今日でちょうど10年目。その長い年月を経てようやく、ここに一つの記録が刻まれたのだ。

 暗い部屋の中、男は割り箸を勢いよく割り、カップラーメンの蓋をあける。湯気で視界が閉ざされるなか、男は美味しそうにその麺をすする。感極まった感情がそうさせるのか、両の目から溢れ出す涙がそうさせるのか、カップラーメンがいつもより少し塩辛い気がする。

 本日、○月□日AM00:00。これは男の生まれた日と時間だ。彼はこの10年間欠かさずに、誕生日のこの時間、つまりは○月□日AM00:00の時間ぴったりにカップラーメンが出来上がるよう、そして麺の出来上がるまでの三分間という天から授かった時間を最大限に利用するために、綿密な計画を練り実行してきた。最初の5年間は、偶然では説明がつかないくらいにありとあらゆる邪魔が入り、1分あるいは2分オーバーし、成功には至らなかった。しかし、その次の6年目からの彼の驚異的な精神力は、今日の5年連続達成の記録へと見事に繋がったのだ。こんなことは、今まで、彼以外に決して誰も成し得てはいないだろう。たとえ戦後最大の事件を引き起こした犯人といえども。

AM00:08。部屋の中の男は、空になったカップラーメンの容器の上に静かに箸を並べ置いた。

 窓の外では、何台ものパトカーがサイレンをけたたましく鳴らし、遠ざかっていく。戦後最大と謳われたあの大事件は、本日、時効という結末によってその幕が下された。

御通雨読ありがとうございます。いま、地球上に存在する未確認生物の数が減り続けています。絶滅の危機から守るため、ご支援お願い致します。