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たいしたことある日々のこと230407

いつだって書きたい出来事や些細な記録は沢山頭のなかに浮かぶ。

ささやかな感情の欠片は確かに世界に存在していて、それらはやかましく「どこかで表現してくれよ」と叫んだり喚いたりもしているのだけど、だからしょうがないかとぼやきつつ「わたし」が物理的に時間を作り手を動かし文字として落とし込む。
また、言葉にしたい思いは温泉のようにこんこんと溢れんばかりとめどなく湧き、なみなみと地平へ注がれ続け、そこにじゃぶじゃぶと見過ごすのではなくバケツで、あるいは小さなマグカップで取りこぼさないようにする。この所作そのものが書くことである。

さらにいえば、書く行為は「鏡を見る」のと同義だと思う。

朝起きて鏡で自分の顔をみる。観察する。
今日は浮腫んでいるな。なんだこの寝癖。肌が乾燥しているけど昨日なにしたっけ。いや、むしろもちもちしてる。アボカド食べたおかげか化粧水のおかげか?え、わたしの目ってこんなにちっさかったか。そろそろ眉毛の処理をしなきゃ。このくらい化粧で誤魔化せるでしょ、あとシミとシワどうにかできないかな。美容整形なんて縁のない世界だったけど、このずっと気になってたホクロをとることなんて、実は大したことないよね。

自問自答するかのごとく、現在の自己を直視し内省しありとあらゆる思考をめぐらす。それはまさに文章を書く行為と似ている。現状はどのような状態であるか、興奮しているのか冷静沈着か、躁か鬱か、なにに着目して着目しなかったか。言ってしまえばそんなのその日の気分でしかない。しかし気分や心持ちは鏡を見たときに投影される。文章なんてまさにその通りで、書けば書くほど「いま現在のわたし」をありありとさせる。

過去の名作や不朽の文学がその時代の記録となるのは、当時の「現在」を生きた空気がそこに現れているからだろう。いくら文体を真似ようと試行錯誤してもそれはオリジナルにならず小手先のギミックとして消費される。1日24時間、淡々と日々を生きた人にしか見えない景色がある。

日記といえども記録は大切。ここのところnoteの更新を増やしているけど、書くことは自分の姿をあらためて客観視させてくれる。特に過去の日記を読むとそう感じる。なにを触れたかも興味深いが、なにを考えたかも同時に面白い。

自分という人間はたったひとつで、変わらないはずなのにね。
いや、人間はそもそも変容していくことが前提。

その約束を忘れてわたしたちはどこか「変わらない」初志貫徹さを好むのかもしれない。それでも「変わる」ことが当たり前。いつまでも蕾のままの花はないし枯れ木にも新たな葉は芽生えてくる。自然の摂理。

フランスで暮らして、この国の良い部分悪い部分を毎日感じる。
一方で離れた日本の良さ、あるいは悪さも同時に思う。

どれも一概に一括りにして言えない、あやふやさや曖昧さ。グレーゾーンの中間地点が自分自身のいまいる地点でその空間が好きな私はいつまでもそうやってモヤモヤを抱え続ける。「日本を離れてあらゆる問題から解放されスッキリした気分」なんてふうにも思わない。外に出れば出るほどあなたは日本人であることを意識させられる。日本での生活と同じ分だけ、あるいはそれ以上に海外生活の苦難がある。

昔わたしは周囲の人に「フランスは自分らしくいられる場所だ」と語っていた。その頃同時に自己へ向けた問題提起もあった。「場所が自己を規定するのか」「環境依存の自己は本当の自己ではないのか」「自分らしさを追求するのであれば日本でも可能ではないか」、これらの疑問はちくちくと胸を刺すような針の姿で、目の前に現れた。
ただこの数年間の修行のような在仏滞在のおかげで、いまは日本にいても自分らしくあれるという確信を手にした気がする。つまり場所は重要ではなく、どのように生きるのかが問題であって、結局でいえばかつてのわたしには、自己矛盾を追求する問いを跳ね除けるほどの強さがなかったのだ。

意識の垂れ流しはYoutubeの生配信みたいなもので、そういう文章もあっていいだろう。そんなふうに4月のたいしたことある日々の記録をしておこう。物事やイベントとしてはあれこれ書きたいこともあるけれど、それはまた今度。

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