DIABOLOS 第1話

“あなた方は一度でも介護に携わったことがあるか?少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけでは無いことがわかるはずだ”

 溝呂木聖也の遺した言葉は社会に波紋を広げ、世論を大きく揺るがせることとなった。

“あなた方はなぜ、施設に足を運んだことすら無いのに、理想論をさも正論のように述べることができるのか?”

 この一連の出来事が契機となって介護現場の現状や、それに携わる人間達についての理解が大きく広まったことも否定はできないだろう。

“彼ら重度障害者が家族や周囲に与える苦しみ、そして使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきた”


 ただし溝呂木自身、安楽死や障害者殺しの実行者であるものの、彼はあくまで「重度の重複障害は生きる価値がない」という信念の元に行動しており、社会に対して破壊行為を行うことで自己主張を行っていたに過ぎなかったのである。

“氏名が公表されず遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えております”

 溝呂木聖也が世間で〝死神〟と呼ばれるようになった頃には、470名もの重複障害者を殺害した。手口は薬殺による安楽死であった。

“障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した時同様に裁かれるハズ。知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼らが人間ではないことを証明している”

 また重複の障害だけでなく、難治性の重度疾患患者、重度の精神障害を持つ障害者にも彼は手をかけたことがあると言われている。この連続殺人犯・溝呂木聖也に殺害された人間の多くは、彼が「重度の介護が必要であり、家族と同居していない」、「安楽死や尊厳死など人間の命に関する問題に対する関心が薄かった」、「介護現場の過酷さや施設内で起きた問題に関心を寄せていなかった」というような理由から、「社会に必要な存在ではない」とみなされたのである。

 彼が柘植基博警部によって逮捕された瞬間は、まさにその現場の報道関係者や、彼の事件を追っていた週刊誌記者などが詰めかけており、大事件発生に日本中に衝撃が駆け巡ったのである。この事件をキッカケに全国で「重度の重複障害者の必要性」や「安楽死問題」「介護問題」「日本の福祉の問題」についての社会的注目が高まった。この溝呂木聖也による事件は、日本の社会を根本的に変革させてしまうほどのインパクトを持って受け止められたのである。この一件以来、世間の人々にとって、重度障害者とその家族の問題が身近に感じられるものになりつつあり。福祉や安楽死の問題について考え始めた人もいたのであった……
 ただカオリは、胸が痛かった。彼女の中に溝呂木を想う感情は確かにあった。しかし、その溝呂木の「重すぎる過去」に向き合うことはあまりにも酷なことでもあったのだ。それでも彼女は決意するのであった、彼を止めると誓ったあの日から。

 一年前

 カオリの働く障害者福祉施設「海百合園」は、神奈川県で昭和52年から運営されてきた障害者施設だ。海百合園でカオリが担当していた障害者の名前は大熊清志郎といい、彼は重度の重複障害者であり脳性麻痺だった。大熊は交通事故をキッカケに脳の一部機能が失われており、言葉を話すことも理解することができなければ、文字を書くことも出来なくなった。だが……
「おはようございま~す、大熊さん」
「」
 彼はとても優しく穏やかな性格で、職員たちからもとても愛されていた。彼はよく大道芸を見たり、スポーツ番組を見るなどして楽しんでいた。カオリはそんな日々を過ごしながら彼の話し相手になることで、この海百合園内では数少ない笑顔を取り戻していたのだった……
「はい、じゃあ今日の仕事を始めましょうねー。さぁ大熊さんも早く起立しなさ~い 笑」
 カオリは慣れた手つきで行うと大熊を誘導しつつ、朝のラジオ体操を始めた。施設ではこれを含め、様々な活動を通じて障害者たちが介護予防に努める……というのが彼女なりの活動の一環だった。そしてこの日は朝から天気が良かったため、みんなで散歩に出掛けることになっていた。公園に到着後はそれぞれが思い思いに楽しんでいたが、そんな中でも彼女は彼に気を配っていた。今日も変わらず車椅子に乗って彼は微笑んでいた。ふと彼女は、彼が公園の遊具で遊ぶ子供達を横目で見守りながら、楽しそうに笑っていることに気が付いた。それは彼女が今まで見たことのないほど幸福そうな笑顔であった。
「ふふっ、大熊さんって子ども好きなんですね!」
「」
 すると大熊は少し驚いた表情を浮かべながらも、そっと頷いた。そんな彼の表情を見た瞬間、カオリは自分の胸中に再び強い想いがこみ上げるのを感じずにはいられなかった。彼女は、その想いをそっと胸にしまい込んだまま、大熊を連れて散歩コースを歩いた。ふと、目の前を見ると子ども連れの家族が仲良く歩いている。彼女はそんな家族達を目の端で捉えながら歩いていた時にある思いが頭の中によぎった。それは彼女の中にずっとあったある疑問なのだった。大熊さんの家族は、彼を施設に預けて以来、一度も彼に会いに来たことがない。家族も彼を受け入れようとしないし、彼にとっての“安らぎ”とはきっとなかったんだと思う。彼が今ここで見せる表情は自分にしか見せていないのかもしれない。
 カオリが仕事を終えて帰宅する。疲れ切った彼女は四畳半の狭い部屋に布団を持ち込んで、横になって考える。今日もコンビニ弁当を銭湯帰りに買う彼女。
「今月の給与は……」
 手にとった明細書には、15万の文字が
「……」
 ハーと溜め息混じりの息をつくと少しぬるくなったお茶を一気に飲む。それからタバコに火着け、換気扇の下まで移動し煙を吐き出す。
「明日も夜勤か……」
 と呟き再び溜め息と共に紫煙をくゆらせる。その苦々しげな表情からは生活の困窮と仕事の過酷さが滲みだしていた。
「はぁ……」
 彼女は、その小さな背中を丸めて項垂れるように座り込みつつタバコを吸いながらスマホを操作してはアプリでドラマを観るという日々をここ一週間繰り返していたのだ。彼女の心は病んでしまっていたのである……だがしかし、そんな時に限ってカオリの働く障害施設の電話が鳴るのだ。
「もしもし」
「すまない、急になんだがシフトチェンジだ! 今から夜勤に出てくれ」
「今からですか?」
「今日のシフトに穴が空いたんだ。すまない!」
 これもよくある話だ。労働条件が悪いから人手も足りず、介護職が慢性的な労働力不足になる一方、そのしわ寄せによって障害者福祉に携わる人たちへの負担が増える。
「了解、すぐに向かいます」
 カオリはまた溜め息をひとつ憑いて立ち上がる。ふと、窓に目をやると雨が降っているようだ。
「傘……」
 1時間後の彼女は、夜道を歩いていた。海百合園へと向かっている。夜の冷えに震えつつ彼女は歩みを進める。その視線の先には暗闇と小糠雨が降り注いでいた……
「お疲れさまでーす」
 彼女が施設の事務所に出勤した時、その部屋にいるのは彼女ただ一人だけだった。彼女は自分のシフト表を見て溜め息をつきつつロッカーの鍵を解除する……そして自分の仕事に取り掛かったその時である。
「?」
 なんだかいつもと園の様子が違って感じた。いつもだったら夜勤のスタッフが何人か待機しているハズだし。でも今日の職員の数は極端に少ない気がしたな……カオリはそう思いながら、いつもの仕事着の、ピンクのスウェットの上下に着替え夜勤室に向かうべく、事務所を出た……。彼女はいつものように大部屋のドアを開けるのだが、やはり中が異様に静かなことに気づく……
「……」
 なんとなく違和感を憶え、ロッカーを開いたそこには!?
「!?」
 カオリは驚きのあまり、声もでなかったのである。その彼女の視線の先にあったもは……夜勤スタッフが結束バンドで固定されていた上、口を猿轡で塞がれながら縛り憑けられていたのであった。
「だ、大丈夫ですか!!」
 慌てて駆け寄り猿轡をほどくと、男は酷く焦った様子で
「大熊さんが! 大熊さんが! ヤバい!!」
「!?」
 カオリはその言葉を聴くと、全身から血の気が引いたような感覚に襲われ
「大熊さん……」
 急ぎ足に大熊清志郎の部屋へ急いだ。
「大熊さん!!」
 彼女は夜の障害者施設を走る。緑色の非常灯に照らされた廊下を階段を、ひたすら走った。
「大熊さん!!」
 息を切らし、彼女は走る。そこは大部屋の、さらに奥の部屋。ここは元入所者だった方用で、プライバシー保護用に間仕切りもされているような場所だ。カオリは少し緊張した面持ちでドアノブに手をかける。中へ入るとそこには
「!?」
 暗い部屋の、窓は開いていた。窓からは冷たい小糠雨が漏れていて、風がカーテンをゆらゆらと揺らしている。カオリは、その暗い部屋のベッドの上に寝ている大熊清志郎の顔を覗き込んだ。しかし彼の瞳はどこか虚ろでガラス玉のような空っぽの眼をしている。
「大熊さん……」
 大熊を包んでいた薄いタオルケットの裾を握りしめるように彼女はただ、その場にじっと佇むほかなかった。
「?」
 彼女はふと、自分の背後に人の気配を感じた。
「……」
 暗い部屋の開かれた窓に眼をやると、そこには
「!?」
 雷に照らされて、男のシルエットがあった。男はこちらをジッと、黙って見つめていた。その雰囲気はまるで死神のようだったのである……男の着ている黒いロングコートに、もの哀し気に映る黒々としたシミがあったのだ、まるで血の涙のようにそれは、雨粒と混じり、地面に落ちていたのだった。だが彼の表情は何一つ変わらずにそこにあった。それは冷酷さと言うよりもむしろ生を感じるにはあまりにも残酷なまでに透明なもののように感じられるのだった……
「……」
 彼女が男の顔を確かめようとジッと暗闇に眼をこらすと
「!?」
 そこには
「溝呂木……くん?」
 懐かし過ぎる顔がそこにはあった。だが……あの頃と違って、酷く瘦せ細り血が通っていないかのように青冷め、生気がなかった。彼の身体を包むは、死の匂いだ……溝呂木は、ゆっくりとカオリに向かって歩み寄ってくる。カオリの心臓は大きくはね、彼の歩をスローモーションみたいに見ていた。とても動けなかったからだ。自分の目の前にいる男が恐い? いや確かに恐いんだ、だけどそうではなくって自分は彼を受け入れなければならないと思ってしまったからだった……彼と自分の間に横たわる年月の長さ故に離れてしまった距離と、溝呂木の抱えきれないほどの闇とが混ざり合ってそこにできた空白に引き寄せられているような感覚。もはや理性で何とかできないこの衝動のような感覚に身を委ねる他ないのだと思った……ああ。カオリは眼を閉じた。溝呂木聖也は、ゆっくりと歩み寄る。その、あまりにも懐かしい感触を彼は味わいながら……
「久しぶり、だね」
 そして彼がそう言った途端だった、カオリの心臓は大きく波打つとともに一気に涙が零れ落ちたのだった……
「オレを殺してオレを止めてみろ」
 ……それは彼の最初で最後のメッセージ、溝呂木聖也がカオリに残した最後の願いだった。彼女の頬に伝う涙は、まるで、呪いのように、彼女を縛ったのだ……そして彼女が眼を開けた時には、彼はもうそこにはいなかった。あの暗い表情のまま、闇に消えた。彼の存在も記憶も、きっとやがて消えるだろう、彼女はそう願わずにいられなかった。あまりに大きな闇を前に、それが呪いであり戒めでもあると知っていながらもなお……

                   つづく


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DIABOLOS

200円

津久井山百合事件、植松聖事件をモチーフに描いた大作ミステリー・サスペンス小説! 安楽死問題、日本の福祉の問題、重複障害者の社会における必要…

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