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できるもできないもすべて、

ひとつめ。

素敵だなと思っていた人と、今度こそ友だちになれた。知人からレベルアップした。ふとその人が口にする言葉に心が動くことが何度もあった。それは新しい驚きの種類ではなく、私が大切にしているものと共鳴する動きだったから、どうしても仲良くなりたいと思っていた。

やっていること、好きなこと、自分のこと、誰かのこと。交互に話していたつもりが、気がつくと混色していた。私たち、そっくりな部分をたくさん持っている。めいっぱいの言葉で説明しなくてもなにを言いたいのかわかる。そしてそこに幾度も頷く。こんな話ができる相手をずっとほしいと思ってたの。そうだよね、なかなか見つけられないよね。嬉しがって、労わって、よく笑った夜だった。

ちょうど先日、『ハーフオブイット』という映画を観ていた。プラトンの言葉を引用した、「人間は自分の片割れを必死に探している」という語りから始まる。物語がその後どう紡がれていくかはここでは書かないけれど、自分を補完するためではなく「私は私でいいのだ」と思える相手こそ、私にとっての片割れだと思った。似通っていて、もしくは違っていて、けれど手をぎゅっと繋いでうんうん頷きたくなるような対話ができる相手がいると、人生は晴れが多くなる。そんな気がしている。


ふたつめ。

歯車が噛み合う日と噛み合わない日がある。あの子と私のこと。

ただやさしくとうとうと話ができる夜があるのに、求めるものに溺れてしまい上手くその場を過ごせない夜も同じくらいある。寄り添いたいし、傷つけたくないし、励ましたい。その気持ちの根っこはずっと変わらないけれど、お互いその瞬間に発している波長があり、体調があり、過去があり、現在がある。持っている歯車の回り方が時によって違う。噛み合えば、私たちはずいぶん遠くまで行ける。そうでないときには、意図せずがっかりして、悲しくなって、動揺する。

ほしい答えをあげるだけが関わりではない。自分を犠牲にしてしまうと続かない。だからそういう意味で、私は間違っていない。自分に言い聞かせる帰り道が何回あっただろう。私も悲しい。そしてあの子も悲しいだろう。巨大な鉄の玉が胸の中で揺れる、大きな遠心力で。


全部ひっくるめて日常で、生きてるなあという感想にしかならない。向き合えば喜びがあり、心は跳ねて、また別の場所でぺしゃんこになる。勢いよく流れた水は澄み切ったまま私を綺麗にするけれど、堰き止められた途端澱む。でもそのまま濁り続けるということもない。

できるときがあればできないときがある。得意も苦手も好きも嫌いも楽しいも苦しいもずっとある。それが私であなたなのだからそれでいいじゃないかと、ただただぜんぶを許していたい。何を言いたいのかわかる?ありのままを享受したい、それだけのことだよ。

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眠れない夜に

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