見出し画像

特別じゃないから見つけられた幸せ

ずいぶん前、若さの名残りについて書いた。

若い頃よりふっくらしてしまった私。指輪がきつくてはめにくく、はめたらはめたで抜けにくくなってしまった。「年をとったら指輪が窮屈になるよ」なんて、昔から耳にタコができるほど聞いてきたのに、ジャストサイズの指輪を買ったからこうなる。

「私だけは指輪がきつくなんてならない」、そう信じられたのはきっと若さが持つ特権ゆえだと思う。なんとなく、若いときって自分だけは例外になるような気がしていた。

私の育てられ方の問題かもしれないけれど、自分が特別だと思ってしまい、妙に強気な時期があった。20代前半とか、それくらいの頃。自分だけはステレオタイプにはまらないだろうという、確信に近い思いを抱いていた。

結局、それは勘違いもいいところで、ある程度の年になるとステレオタイプの波が覆いかぶさってきた。手先はかさかさになるし、徹夜はできなくなるし、指輪だってすんなりとははめられなくなる。

仕事や恋愛でだって、自分が特別だと思っていたらそうでもなくて大撃沈する羽目になる。自分で強みや美徳だと捉えていた素養は、たいていの人が備えているものだと知ったこともある。

だから、私には失意に沈んだ時期がある。なーんだ、私なんて全然特別じゃない。むしろ、とくにいいところなんてない。あーあ。

たぶん誰にでもそういう時期があるんじゃないかなあ、と思う。自分のちっぽけさを思い知って落ち込む時期が。

でも、私の場合、そんな時期を経たからこそ、見つけられたものがある。

三十年来の友人たちはなにかあれば「元気だしなー? ちなみちゃんのいいところはねぇ……」と長々と語ってくれる。夫もときどき、「人にはできないこと、けっこうやってるやん」「優しいやん」とか、褒めてくれる。

こんな人たちがそばにいることに気づけたのは、私なんて特別じゃないという前提に立ったからだ。ごくごく普通の私を大事にしてくれる人たちの姿が浮かび上がった。

若い頃の無敵な心持ちや態度、それに伴う失敗なんかは「若気の至り」と呼ばれる。それはそれで今の私にとっては素晴らしくて眩しくて、とても尊く感じられる。

特別じゃない自分を知った日は悲しかった。けれど、まあまあ年を重ねたから今だからこそ見られる地平もある。それぞれの年齢で、それぞれのステージで、大切なものを得ていくのだ。

「毎日文章書くなんて、俺にはとてもできへんなあ。すごいことやで」と驚嘆しきりの夫を見て、ささやかな幸せを実感している最近である。

この記事が参加している募集

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?