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1995年頃の記憶

1995年、13歳の頃。
日本はハイテク化ブームとなり、パソコンではWindows95を始め、ファッション業界においてはエアマックス95などのハイテクスニーカーが一大ブームを巻き起こした。

そしてそのハイテクスニーカーはあらゆる種類の商品が飛ぶように売れ、店頭に並ぶ事は極めて珍しい程の現象が起こり、値段も高騰してプレミア価格で取引される程になった。

そして、ここからは都市伝説なのだが、各地で『エアマックス狩り』と言われるような、いわゆる恐喝行為が横暴したという噂も広まり、実際に街でハイテクスニーカーを履いている人を殆ど見かけなくなっていった。

自分は当時中学1年生で、江田島から広島市内の学習塾に通わせてもらっていた事もあって、普段から広島市内を徘徊する事が多かったのですが、当時に塾などで出会った友達からもよく、そういう噂話を聞かされていた。

思えば確かに広島市内はなんとなくではあるが、95年当時は所々で危険な香りがしていた気がする。

まぁ、かろうじて自分が恐喝をされた事はなかったが、江田島から通っていたのもあって、上下関係や街のルールなどは一切知らなかった。

今思えばとても恐ろしい事であるが、その頃から出会う人や先輩達にはかなり恵まれていたと、我ながらに思う。

そしてその当時、自分は実兄の影響もあって、お下がりの靴やアイテムを身につけている事が多かったと思うが、いわゆるオールドスケーター的なスタイルだったと思う。

タイトな古着のTシャツやチェックのネルシャツに、オーバーサイズのリーバイス501を履いて、スニーカーはvansのサルマンアガーやslip-onを履いていた。
当時あった古着屋さんのお店の香りでもあるが、お香インセンスは
『ゴネッシュno.8』、今でも好きな香りだ。

中坊のガキンチョがそんな出立ちで本通り商店街などをへっちゃらでウロウロしていたのを思い出したけど、フェリーの終便の関係で夜遊びができなかった事が、無傷でいられた理由かなと思う。

当時は塾で出会った広島市内に住む同級生との出会いが新鮮で、江田島の同級生には居ないタイプの人間が多かったというか、そういう自分と似た感性をもつ同級生との出会いが嬉しかった。

いかにも、江田島は未だにど田舎であることに間違いはないのだが、市内の高校に通う先輩も沢山いて、どちらかといえば実兄に近い人が殆どだが、とても可愛がってもらっていた。
そういう人たちの影響もかなり大きいと思うが、本当に先輩に恵まれていたと思う。

その頃は同時にスケーターブームでもあり、先輩はみんなスケボーにハマっていたと思う。
自分も下手くそなりにその現場に居合わせて、隠れてタバコを吸ったりしていた。

今でこそ、なんでもないことではあるが当時は広島市内でスケボーをすることは結構勇気がいる行為だったと記憶している。
何故ならば地元の先輩が市内の現場でスケボーを始める時には、周りのスケーターの方々に「滑ってもいいですか?」と、丁寧にお伺いを立てていたのを間近で見ていたからだ。

でも、その現場に居た人たちはとても優しくて、「滑りなよ!」と、見ず知らずの自分たちにも声をかけてくれるような人たちだった。

ただ、一方でよく言われていたのが、
「あの辺りはうろうろしないほうがいいよ!」
などと、いろいろな噂話を聞くようにもなっていった。

「なんで行かない方がいいの?」
って先輩に聞くと、その当時は想像もしなかったようないかついエピソードを幾つか聞かされたが、その一つが『エアマックス狩り』だ。

ちょうどチーマーが出始めた頃でしょうか、ハイテクスニーカーを履いてるやつを見つけたら、軒並み恐喝していくというぐらいの噂話は頻繁に聞くようになり、それをやる人たちの特徴なども明確になっていったのだが、全員スキンヘッドでタイトなジーパンにサスペンダー姿、ドクターマーチンのブーツを履いた人という噂も出てきた。

それを聞いてからは、できるだけその出立ちの人を見かけたら遠回りするくらいのことをしていたと思うが、今思えば実際にそのスキンヘッドにタイトなジーパンを履いた人たちがエアマックス狩りをやっていたかどうかというと、真相は不明である。

そして中三ぐらいになると、当時のクラブの話題も耳にするようになったのだが、それはまた改めて掘り返してみようと思う。

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