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【シベリア散歩(4)】ロシア極東におけるユダヤ人のピンチとチャンス


1. はじめに


こんにちは、前回は「ウラジオストクの日本人売春婦、からゆきさん」について紹介しました!良い反応をいただきとても嬉しいです!

さて、最近はイスラエルとイスラム教のハマスとの戦いが国際的な問題になっています。両勢力間の紛争の歴史は非常に古く、複雑であるため、簡単にまとめることができる性質のものではありません。そんな中、東アジアに住んでいる私たちの立場からすると、あまりにも遠いところの話なので、感情的に距離がある「他人の話」のように感じます。

ところで、ロシア極東にも多くのユダヤ人が移住していた事実をご存知でしょうか?

ニューヨークに来たロシアユダヤ人
(by 米国議会図書館-Library of Congress)
この写真は、正確にいつ撮影されたものか分かりにくい。
ただ、多くのロシア人がロシア革命後にヨーロッパ各地やアメリカに亡命したことから、1920年代初頭前後ではないかと推測される。 彼らはロシアでどんなことがあったのか、遠い海を越えてアメリカまで行くことになったのだろうか。

2. ロシア極東に来たユダヤ人


1914-1918年シベリアイルクーツクのユダヤ教会堂(シナゴーグ)
(by pastvu)
2015年シベリアイルクーツクのユダヤ教会堂(シナゴーグ)
(by wikimapia)
シベリアイルクーツクの位置
シベリアの真ん中に位置しています。

19世紀末のシベリアでは、反ユダヤ主義的な偏見はほとんどありませんでした。 なぜでしょうか? 第一に、シベリアは人口が少なく、比較的民族と民族が衝突したり競争することが少なかったと言えます。 第二に、シベリアのユダヤ人コミュニティは孤立しておらず、周辺住民と生活様式に大きな違いがありませんでした。 このため、ロシア極東はユダヤ人にとって西ヨーロッパに比べて比較的安全地帯でした。

1914年7月に第一次世界大戦が勃発しました。 当時のユダヤ人難民は約50万人に達し、その一部はシベリアに移住しました。

もちろん、ユダヤ人だけが極東に移住したわけではありません。 当時、多数の難民が発生し、ロシア極東の人口が爆発的に増加しました。 戦争勃発前のウラジオストクの人口は約10万人ほどでしたが、1920年には100万人まで増え、わずか5年で一都市の人口が10倍に増えたのです。

ロシアの敵対国であったドイツ・オーストリアの兵士のうち、捕虜としてシベリアに移送された人々の中には、かなりの数のユダヤ人がいたと言われています。

フランク・ロー ゼンブラット(1884-1927)
(by Berman Archive)

1917年、シベリアの極東都市人口の3-6パーセントをユダヤ人が占めていたそうです。アメリカユダヤ人救援組織(JOINT)とユダヤ人移民救援協会(HIAS)は、ユダヤ人難民、捕虜救援を目的としてシベリアに代表である「フランク・ロー ゼンブラット」を派遣しました。

3. 極東で起きた反ユダヤ主義


1914年7月の第一次世界大戦と1917年のロシア革命を経て、ロシア極東で反ユダヤ主義が広まりました。特に1919年7月、反革命派であるロシアの白系政府が「エカテリンブルク」から退却する際に、ユダヤ人約3000人が虐殺されたと言われています。

赤い丸が「エカテリンブルク」の位置
縦の点線はウラル山脈で、ヨーロッパロシアとシベリアロシアを分ける基準点となります。

なぜそうなったのでしょうか?

1917年のロシア革命後、反革命派であるロシアの白系政府内部で、ユダヤ人が共産主義勢力であるボルシェビキであるという認識が広まったからです。

もちろん、それだけでは不十分で、さらに火をつけたのは、ユダヤ人が世界を征服するという陰謀論である「シオン賢者の議定書」がロシアの白系政府に強い影響を与えたからです。

「シオン賢者の議定書」の原本と日本語翻訳書。
明らかな偽書です。
ホロコーストを引き起こし「最悪の偽書」と言われています。

ロシアの白系政府にとって、ロシア革命はドイツ人とユダヤ人などによってロシア外部からもたらされた「災い」のようなものでした。

問題は、このような認識がロシアの白系政府を通じて日本軍内部にも広がったということです。 当然のことですが、1918年のシベリア出兵を通じてロシア極東地域を支配していた日本軍内部で反ユダヤ主義的偽書が広がったことは、シベリアのユダヤ人の地位に不利に作用しました。

日本は反ユダヤ主義を利用してロシアで反米宣伝を強化しました。 実際、シベリアで発行されたいくつかの新聞が日本側の助成を受けて、反ユダヤ主義を宣伝していました。ユダヤ人は主に米軍の通訳として利用されていたという点で、彼らに対する世論の悪化は米軍に対する世論の悪化につながるものでした。 つまり、アメリカと同盟を結んでシベリアに出兵した日本軍でしたが、反ボリシェビキであることを除けば、この地域でそれぞれの政治的利益のための同床異夢だったのです。

メルクロフ(Spiridon Dionisevich Merkulov、1870 — 1957)
(by PrimaMedia)

1921年春、ウラジオストクで「メルクロフ」がクーデターを起こし、ロシアの白系新政府が樹立されました。メルクロフは、「シオン賢者の議定書」を日本に広めた張本人でもあります。ウラジオストクのユダヤ人社会は日本領事館にユダヤ人虐殺の保護を要請しましたが、拒否されました。 1921年ロシアの復活祭の頃、ロシア極右組織である「黒百人組(くろひゃくにんぐみ)」による虐殺扇動があり、ウラジオストクのユダヤ教会堂も攻撃されました。

1905年「トムスク」で黒百人組のユダヤ人攻撃
トムスクの位置

ロシア極東地域のユダヤ人はイギリスに保護を要請しましたが、拒否されました。 もともと、イギリスは1917年11月にパレスチナ地方にユダヤ人の国家樹立を約束した「ベルフォア宣言」を発表しました。 そのような外交的基調への期待の中でイギリスに助けを求めたのです。それだけイギリスはユダヤ人保護に積極的だったように見えますが、1920年1月のコルツァーク白系政府崩壊後は、ロシア極東地域のユダヤ人保護を拒否しました。 イギリスは1920年以降、シベリア問題から手を引こうとしたからです。

このように、西側で保護すると約束しても、東側で情勢がうまくいかないと放棄する場合もあります。外交宣言は、各地域の特殊性までカバーするディテールを保証するものではありませんね。

4. もう一人の「日本のシンドラー」


杉原千畝

杉原千畝に対する動画:「命を分けた一枚のビザ」

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ人難民を救った日本人として「杉原千畝」は広く知られています。しかし、杉原と同じく多くのユダヤ人難民を救ったもう一人の日本人がいたことをご存知でしょうか?

樋口季一郎(ひぐち きいちろう、1888-1970)
(by nippon.com)

その人物こそ、陸軍中将の「樋口季一郎」です。1937年12月、ハルビン特務機関長を務めていた樋口は第1回極東ユダヤ人大会に出席し、同盟国ドイツの反ユダヤ政策について「ユダヤ人追放に先立ち、彼らに土地を提供せよ」と批判しユダヤ人の拍手を浴びました。

1938年3月、ユダヤ人たちがナチスの迫害を逃れ、ソ連と満州国の国境であるシベリア鉄道のオトポル(Otpor)駅に避難しました。彼らは満州国で入国を拒否され、足止めされました。 当時、樋口は彼らに食料、衣類、医療サービスを提供する一方、満州国を経由して上海租界に行くことができるようにしました。

オトポル(Otpor)駅の位置
現在は「ザバイカリスク駅 」です。

樋口の行為はイスラエル政府から高く評価され、1966年に表彰されました。また、2008年にはイスラエルの「黄金の碑」に刻印されました。

面白いのは、杉原も樋口もロシア通だったということです。杉原はロシア語に精通した人物でした。樋口は1919年にウラジオストクに派遣され、ロシアに住むユダヤ人たちと交流していたため、強い絆が生まれました。

ウラジオストク時期の樋口季一郎
(by nippon.com)

もちろん人道的な目的だけではなかったでしょう。 歴史的に一人の人物の行動を見るとき、何事も一つの側面だけを見ることはできません。軍事官僚として情報を得るためにユダヤ人を活用したという説もあります。しかし、どちらにせよ、お互いに良い方向性を見出したという点が重要ではないでしょうか。その点で優れた軍官僚と評価できると思います。

5. ウラジオストクのユダヤ教会堂


2007年
(by CrownHeight.info)

では、現在の世界に見てみましょう。
比較的最近まで、ロシア極東では反ユダヤ主義は少数派ですが残っているようです。2007年のある記事によると、ウラジオストクのユダヤ教会堂(シナゴーグ)の壁にナチス文様が落書きされる事件が発生しました。反ユダヤ主義、いやマイノリティへの攻撃というのは時間が経った現在でもいつでも日常的に起こりうることではないでしょうか。

2014年ユダヤ教会堂の改修工事
(by vladnews.ru)

ウラジオストクのユダヤ人会堂はいつできたのでしょうか?1916年10月に建設が始まりました。正確な竣工日はわかりませんが、ロシア革命期に礼拝が行われたことからそれほど長くはかからなかったようです。

1932年末、ソ連当局はユダヤ教会堂を閉鎖しました。その後、建物は製菓工場、最初はクラブ、後に工場の店舗として使用されました。2013年秋に改装工事が始まり、2014年6月に完成しました。

現在、スッキリとしたウラジオストクのユダヤ教会堂
(by wikipedia.org)

6. 最後に


ここまで、ロシア極東におけるユダヤ人のピンチとチャンスについて、彼らがどのようにしてロシア極東までやって来たのか、そしてユダヤ人がどのような背景の中で反ユダヤ主義に直面したのか、さらに彼らを助けた日本人もいたことを紹介しました。 反ユダヤ主義は、ウラジオストクユダヤ教会堂の事例に見られるように、最近の問題でもあり、それを乗り越えていくユダヤ人社会も見ることができました。

皆さんに反ユダヤ主義を紹介しようと思ったきっかけは2023年10月現在、起きている「イスラエルとハマスの戦争」という国際情勢の中で、東アジアの私たちがどのように関係しているのかを探ってみようというものです。 そこで出た結論は、思ったよりも密接に関係しており、それほど遠い話ではないかもしれないということです。

もちろん、現在の視点で反ユダヤ主義というのは、中東の様々な国の立場から見ると、また違った話が展開されるでしょうが、まずはどちらにしても自分の見解を持つために、「近い今、そして近いここ」から少しずつ関心を広げていかなければならないと思います。

それでは、次の記事ではロシア極東にいた中国人の生活を簡単に紹介したいと思います!皆さん、また次回お会いしましょう。


デジタル歴史家
ソンさん

【参考】



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