胎児に意識はあるのか?

面白い議題をいただいたので、少し、あくまで個人的に、考察してみたい。

ただ単に、「胎児に意識はあるのか?」という言葉を投げかけられると、
それを考えるためには、「では、そのあなたの言う『意識』『意識がある』とはどういうことですか?」というところをはっきりさせる必要が生じてくる。

物事、疑問などを提起するとき、その提起者自身が自分の使っている言葉の意味をそもそもどこまでしっかり自覚できているか、これがわからなければ、相手の応え方は変わってくる。
必ず、提起者自身の心の内側には、その議題を提起した「目的(理由)」がある。
その理由や目的意識が曖昧であれば、応える側もどんな応えでも(無数に)できてしまう。

しかし、ここでは私的な考察であるので。

では、「意識」とは何か。

「意識」とは、一般的な意味合いとしては、
要するに「知覚をしている状態」であると、大抵の説明を見るとされている。
では、(ここで言っている)「知覚」とは何か。五感を脳(心・自覚)として感じている状態である。
更には、「意識」とは、「自分が自分であると感じることができている状態」であると説明してあるところすらある。
こう考えるとまた変わってくる。
ちなみに催眠療法においては、顕在意識の概念の説明として、「自分が自分であると感じていることができている状態領域」としている。つまり、「意識」とは、「顕在意識」を指すこととなる。ちなみに「潜在意識」の方はそもそも「自覚」できない領域であるため、観察することがまず自分にも他者にも不可能である。が、そもそも「顕在意識・潜在意識」という言葉・概念自体が「顕在意識」のものなのだ。「領域」という概念も然り。こういう「言葉」で区別をしないと、顕在意識は理解することができないからである。
しかし、「潜在意識」には、そんな領域だとか空間だとか時間というものすらない。「ある」「ない」という顕在意識の概念すらも超えているのだ。
せめて催眠療法の考え方における言い方では、「潜在意識」は宇宙の根源的源にも繋がっているという説明をされることもある。が、これすらも、「顕在意識」に理解できるように「言語化」することで区切ったものである。

私たちが言語で議論する限りそれは「顕在意識」であるので、その「顕在意識」が「潜在意識」を指定し検索し観察するようなことは、そもそも不可能なのである。大きな古井戸の一番上に積み上げられている石ひとつが、その場にいながらにして井戸全部の石の数を…いやそれどころか世界中の空気の容積(いや、これにしても数値化されるような概念の次元だ)全部見て数えたがっているようなものである。
そして……「顕在意識」とは、まさにそういう性質のあるものである。

だから、この時点で言ってしまうと、「胎児に意識が”あるかないか”」と言っている時点で、「顕在意識」の扱いにするしかない、ということになる。

ここからやっと初めて、検証を始めることができるわけだ。

では、ある意味また戻るようではあるが、「顕在意識(胎児にあるかないかと議論しているもの)」とは何か。

「自分が自分であると自覚している感覚」であるならば、これは恐らく、難しいのではないか。「ない」という”言い方”になりそうだ。(そもそもこういう議論に”ある””ない”と応える時点で、顕在意識による局所的・両極思考というルールを敷くことになり、その上での議論は本質ではない。あくまで”言い方”となる、に過ぎないのである。)
ただ、これはなぜかというと。
先程から言っているように、「顕在意識」というものは、両極(何らかの比較対象)がなければ、物事を認識することができない(では「物事」「認識」の定義は、という話になってくるが、そうすると延々記事が終わらなくなるのでここでは割愛させていただきたい。そしてその時点でもこの議論は非常に材料不足の薄っぺらいものになる。何事においても物事を「知る」「検証する」とは、そういうことである)。
つまり、そもそも「自分」というものを自覚するとき、「他者」を認識せねば、自分を認識することはできないと考える。

心理学という学問における研究を引用させてもらうと、発達心理学においては(恐らく脳科学や医療においてもそうだろうか)、ヒトは新生児の状態では、そもそも五感の「感覚器」自体は揃っていたとしても、「知覚」することはできない。(と、されている。つまり、「観察」できる、「行動科学」とにおいては、という意味である。)
だから、胎児で母親の中にいてまだ直には観察不可能な状態だけでなく、生まれてからもしばらくは、「知覚」できていないのである。

例えば、私は最近自分自身の問題で「眼球使用困難症」について記しているが、「目」も五感のひとつである、つまり「眼球」は感覚器のひとつであるわけだ。
しかし、ヒトは「眼球」を持っていたところで、物を「見る」ことはできない。感覚が感覚として働き出すのは、至極大雑把に言っても、眼球の網膜に入って来た光波(更に粗く「画像」と言っても良い)によって刺激を受けたことによる「網膜の状態変化」が次の(その情報を視神経に伝えるための信号に翻訳変換する)細胞に伝えられ、そこからの信号が視神経に伝わり、視神経を形成する膨大な数の神経細胞が伝言ゲームに伝言ゲームを重ね、ようやく脳に辿り着き、そこから脳のあらゆる領域(画像処理・連想・言語・記憶・運動などなど)を駆使しすべてが見事に連携されて、初めて「見る」という現象がヒトの内部に起こるわけである。

しかも、それが、赤ん坊が「見た」とわかるのは、その上で更に、その赤ん坊の身体に反応(行動)が現れてから初めて、である。

心療眼科医の若倉雅登医師が、ご著書『心療眼科医が教えるーその目の不調は脳が原因』の中で、ご自身の孫娘の写真でわかりやすく説明されているが、新生児の目の前に若倉医師が立って、その子は最初は目を開けていても何の反応もしない。が、日が経つうちに、だんだん、若倉医師が笑顔で近づくと、孫娘さんの表情に反応が起こる。
この時点で、初めて孫娘さんは「目が見えた」という状態だ。
しかしこれでもまだ、反応を示したり示さなかったりを繰り返す段階であろう。脳の膨大な神経回路が、繋がったり、繋がらなかったり、接触や稼働状態が完全ではないのだ。
そして、更に月日が経つと、若倉医師が笑顔で近づくと、孫娘さんも「笑顔」になったりする。
そうすると、初めて、脳において、「自分と別の存在が近づいてきた」ことが認知されたと考えられる(しかしそれも言語ではなく、体感、つまり意識よりも身体反射というレベルであると言える。意識と反射についても、後述したい)。更に笑顔になれば、「危険ではない(判断・記憶)」「模倣する(模倣)」「前にも見たことがある(記憶)」などの領域も働き出したと言えるかもしれない。
更に「じいじー」などとでも発するようになれば(注:若倉先生のご著書には呼び名は書いていない、あくまで例えばの話である)、脳の言語を司る領域も活発化してきて、回路が繋がるようになってきたということになろう。

ここまで来て、初めて「知覚」(表情が変わるところあたりから)、「認知」(表情が適切なものに変わるところから)なのである。

少し別角度の話をしたい。
これまた私自身の話だが、私は非常に幼い頃、解離性同一性障害を発症したと思われる。解離性障害とは、外界に起こった刺激に耐えられないような事象があったとき、つまり当時の段階での本人の「脳での処理能力」を超える事態が起こったとき、この体験を「なかったこと」として「切り離してしまう」現象だ。ちなみに解離現象は、動物には当たり前に備わっている現象であり、哺乳類だけでなく鳥などにもある。
この辺りの説明もこの記事では割愛するが、要するに解離というのは、ヒトが「その場を生き抜く」ために起こるものである。
この話を私はカウンセラーとしていたとき、「その時に解離という手段を"選んだ”わけで…」などと発したとき、カウンセラーさん、「はい…ま、”意識”で選んだ、というよりは、反射なんですよね。脳がそうすべき、その手段をとるべきと判断というのか、反射なんですよね」という会話をしたことがあった。
確かに赤ん坊であれば、「言語」的に(つまり「意識」的に)は、「あ、ここは解離した方がよさそうだ、そう判断しよう、そうして生き抜くことを択ぼう!」などと考えるわけはないので、そういう意味では「反射」という言葉の方が近いかもしれない。
「判断」という言葉を使ってしまっても、「意識」のように聞こえてしまうわけである。
どこまでが反射か、どこからが意識(言語)的な判断・選択か、というところも、それこそ「言語」的な区分はできないものである。


さて、話を戻すと、胎児は、まあこれも腹の中で大きくなってきて母親に外側からでも感じられるようになってきてから、の話ではあるのだが、腹の中から母親の腹の内側を蹴ったり、腹を外側からなでられるのに反応するかのような動きが起こることがある。
ただ、だからといってこれに「意識があるからか」という言語的議論は、上記の理由から不毛であろう。
結局、「意識」とは何か、という定義すら、できないものなのである。

愛を感じているかもしれない。しかし、「感じる」というのは、「知覚」というような意味合いではないかもしれない。何せ、赤ん坊の中では「連携」は不完全なのだ。「情報処理」自体を、していないのだ。
(そして、一応補足しておくと、別記事でも書いているが、ヒトが「外界を感じる」「知覚」というのは、「感覚器に外界の刺激が入って起こる”自分の身体の状態変化”を情報処理すること」である。)

また、これまた念のため補足しておくと、
科学的医学的に言われる意味での「意識」はないかもしれない
しかし、それと「受けた刺激や刺激を受けたという体験が赤子の未発達の細胞や神経細胞に蓄積されているかどうか」は、別の話である。
しかしこれも、「記憶」という言語レベルの話ではない(「記憶」という単語で表現されるもの自体、脳のシステムの話なので)。

もう一つ、私的な例ばかりで恐縮だが、私自身の体験の話を挙げたい。
私はどうやら先天性脳性麻痺の影響か解離の影響かわからないが、記憶装置の確立(発達)が遅かったのではないかと思う。
中学時代頃まで、記憶がほとんどないのだ。ちなみにその「記憶」というのは、言語的記憶、エピソード的記憶のことである。しかしだからといって「静止画」があるかというと、私の場合視覚機能が弱かったため、それもない。しかし、不思議なことに、小学校の頃、送迎をされていたとき車の中のクッションの冷たさや柔らかさ、小学校に近づいた時の給食室から外に漂ってくる何やら強烈なにおい、小学校の前の桜並木の匂い、同じく小学校の頃らしいがフランスに旅行をした際の石畳の砂利道と階段(ピエロのおもちゃをパタンパタンと転がして遊んでいた)や太陽の光を浴びていた感覚、などは、断片的に覚えている。(脳で想起し意識化する度に形は変えてしまっているかもしれないが。)
そして、そのフランスで、ひとりの手回しオルガンを回しながらシャンソンを歌う、そしてかなりすばらしい、音楽家(大道芸人)と出会っている。
他、やはり同じ小学生時代と思われるが、音楽家の母親と共に、日本でも一流の金のフルート奏者が家に何度も来ては、1回2時間ずつくらい合わせをしていた時期があるらしい。そしてこの時、幼い私をなでたり抱っこしたりしてくれていた(そして恐らく同じ部屋の特等席でずっとその一流同士のマスタークラスのような合わせを聴いていた!)らしい。
私には、これを言語的な記憶やエピソード記憶としてはまるで思い出すことができない。そして、これは体感でも思い出すことができていない(もしかしたら気付いていないだけで、身体には現れているのかもわからないが)。
しかし、私は顕在意識では学生時代からフルートは苦手で嫌いですらあったのに、なぜだかずっと縁を持ってきた。ここ3年程では、急激な開花も見られる。シャンソンにしてもなぜだかずっと深い憧れや独特のなつかしさがあるものだ。
シャンソンにせよフルートにせよ、この時の「体験」は、かなり明らかに「今」に影響していると思わざるを得ない。
しかし、だからと言って、これを「身体の細胞」が「記憶」「感情」「感覚」を保有する、という言い方は早計がある。
「記憶」「感情」「感覚(知覚)」は、脳の「意識(自覚)」を介することによって起こるシステムの「名前」であるからだ。

この頃、私はこの「体験」「刺激」を「意識化」していたかというと、これはわからない。私はこの頃ですら、「意識(顕在意識・自我)」はまだかなり弱かったのではないかと考えられる。
意識や言語化がはっきりしていたなら、もう少しエピソード化して記憶しているだろう。

それでも、その時の「刺激」「体験」は、成長後の今に作用している。

では、「刺激」とはなにか、「体験」とはなにか、先程表現したような「愛を感じているかもしれない」この「感じる」とはどういう意味か、「反射(反射で身体が判断・選択する)」とは何か……これらの定義の議論に走ることはできるかもしれない。
しかし、これはもはや言語化できるレベルの話ではない。
これを言語化しようとすれば、「言語の上での話」に変換してしまうこととなる。

身体が判断・選択して反射する、というような言い方をしてしまった時点で、「顕在意識」は、「顕在意識的解釈」つまりそこに「意識が介在する」という解釈しかできなくなるからだ。

「意識が介在する」という前提(になってしまう)において、「意識があるかないか」議論は、まるで不毛なのである。

少し話が飛ぶが、アラビア圏のハディース(預言者ムハンマドの言行録)…だった気がするが、こんなことを言われている。
「議論をしてはならない。」
議論というものは、不毛なものなのである。
なぜなら、いわば今回記事にしてきたように、議論を吹っ掛ける時点で、その議題には「吹っ掛けた当人の心理的問題(プログラム)」が現れるだけで、その人の「議論を吹っ掛ける目的(理由)」があるに過ぎないからである。
そして、その議題に使われている言葉の定義は、明確化されることができない。(もちろん、わざわざルールを設ける形で明確化させて、その上でディスカッションすることはできるが、これは本質に近づくものではなく、時間を浪費するだけである。下手をすれば「心理ゲーム」になる。)
もっと簡単に言ってしまうと、議論というのは必ず何らかの「(本質とはかけ離れた)個人的ルール」に基づいてやるものであるので、それに気付かず(外側から客観的な自覚ができずに)やってしまうと、ただ人間(顕在意識)が自分はわかっている知っているかのようなつもりになってしまう。議論は傲慢を育てるだけである、と。
だから、もしやるならば(それでも”もし”やるならば、(笑))、その「当人の目的(理由)」を焦点に問答法にするくらいしかないわけだ。それは、本人が気付きを得るため、という目的である。
つまり、何かの解決になるためのカウンセリングや自己開示は、「そのため」だけならば良いかもしれないが、「真実」を探る「議論」は不毛である。そして同時に、これはああでもないこうでもないと、その件についてのみ論議するのも、答えのない迷路をぐるぐるするだけなので、不毛である。

科学(行動科学)・顕在意識においては、観察不能なもの、手の届かない領域はたくさんある。
しかしながら、ヒトの顕在意識というものは、言語化できないもの(言語表現することができない・名前をつけて概念になっていない限り)は、知覚・認識すること自体ができない。
そして、その手の届かない領域や、(顕在意識化)言語化することが不能な領域を、哲学においては(せめてぎりぎり知覚できるように総称として)「神の領域」と名付けられているのだ。

そして、世界の科学者や宗教者などなどを含め、識者(これも定義によるかもしれないが)というような人たちは、識者であればあるほど、「神の領域」を大きく深く知り(いや、自分たちは何も知らない知ることもできないということを知る…ということすらできない、を”さとり”)、そして信頼と敬意を持ち、恐らくハディースの言葉通り、「議論の不毛さ」を身に沁みている。
我々のような凡人にはついつい、科学や科学者とはどこまでも神の領域に進出し突き止め狭め続けているのかのようなイメージを持ってしまいがちだが、実は真逆なのである。知れば知るほど、いかに、我々の知ることのできる(しかもメタファー・我々の言語というひたすら一面的な実質とかけ離れた翻訳のしかたで)ことは「大宇宙の中の地球の中の大海原の一角の砂浜の砂一粒」よりも小さいか、ということ。そしてあらゆる知識が増えているというつもりになればなるほど、如何にその砂粒より小さいかもっともっと小さいかをどんどん身につまされるというわけだ。
「分かる」「判る」「解る」とは、分ける、判断(切り分ける)、分解する、ということに過ぎない。バベルの塔を高くすればするほど、我々の「認識」というものは細かく細かく分解されるだけで、全体を知ることも、本質に届くこともできないのである。なぜなら、「本質」「全体」の「中」に我々は守られて在るだけなのだから。

地球の中(地上)にいながらにして、銀河系の中で地球自体が公転や自転をしていることを、実感として知ることはできないのである。
「天使の羽根は大きすぎて人間には見えない」「宇宙には壮大な音楽(ハーモニー)が鳴っている」などという表現もあるが、そもそもヒト(顕在意識)の認知を超えたものを証明することは顕在意識には不可能である上、これらの表現すらも、「大きすぎて見えない(見る)」だとか「壮大な音楽(聴く)」だとか、ヒトの五感で捉えることができるものかのように「変換・翻訳」された表現に過ぎない。そしてこれ自体の意味をさとらねば話は進まないのだが、ヒト(五感しかなく五感の世界に生きており五感しか知らない)には、そもそもそれすら理解できない。例えば先天的に視覚を持たない者に、目で見えるとはどういうことかと知らない次元の感覚をいくら説明されたところで、”理解・証明”できるわけはないのである。

そして、最後に、この記事において言語化したことすべてにおいても、現代日本の文化・流行・科学的・哲学的・つまり今の時代の顕在意識のルール傾向のベースの上で、つまり非常に狭義のルール(角度)の中で、展開したものに過ぎないということは、記しておかねばならないことであろう。



追記として…。
催眠療法では「胎児の記憶や前世の記憶が存在する」だとか言っているじゃないか、と言われるかもしれない。
これは、「顕在意識にわかりやすいための顕在意識用の例え表現」なのだということをお伝えしたい。
催眠療法においては、あらゆる「概念」を用いて(つまりいわば潜在意識側に敢えて顕在意識にわかるようなルールに協力してもらって)、いろいろな「記憶」「感情」「感覚」を引き出すことをする。
ただし、これは、暗示療法であろうが年齢退行・前世療法などなどのパーツセラピーであろうが、身体の細胞と直接話すというルールを使うソマティックヒーリングのようなものであろうが、
もし、「ただただ、呼び出す」というだけのことを行えば、おかしなことになる。何やら不毛なものとなったり、逆効果となるほどに危険、また、記憶や感情感覚を「勝手に作り出す」ことをしてしまいかねない。
必ず、セラピストは「目的」をはっきりと片時も忘れず認識している必要があり、そこに「向かっていく」必要がある。
なぜなら、潜在意識が出してくれるのは、あくまで”顕在意識が思っている(言語定義している)ような”「記憶」「感情」「感覚」を出してくるわけではなく(ちなみに「出てくる」という、そこには顕在意識による変換が常に介在する)、あくまで「顕在意識が<今の問題を解消・解決・向上>させるための気付きを得るために、<今の顕在意識にとって必要な形>で出してくれる、情報・データ・メタファー(隠喩・暗喩)」なのである。つまり、そのために出てくるものは「そのために使わなければ」ならない。
現在、日本においては専門家と思われている催眠療法士や心理療法士であっても、ほとんどが、「潜在意識からの情報をただ出す」ということしかしていない(できていない)実態がある。下手をすると、セラピスト側が「目的」をいつの間にか見失って、目的の指示なし(もしくは潜在意識にちゃんと”指示として伝わるような指示”なし)に潜在意識から出てくる情報・データの中にクライアントとともに漂ってしまっている(そしてセラピスト自身もそれに気付いていない)ことすらある。
そして、「ああ、過去にはこんなことがあったんですねぇ」「前世はこうだったんですか、ああだったんですね」というような、「顕在意識さん特有のあるなし論」に傾いてしまう。すると、「今」の問題を解消するために無尽蔵の宇宙から取り寄せてメタファー化(いわば言語の顕在意識に知覚できるよう物語化)してくれた膨大なデータが、必要なために使われない・逆にクライアントへの強い衝撃(新たなトラウマ)・書き換え・持て余してしまい普段の日常でも余分な処理しきれない情報量となってしまう。
どうしてそうなるのか。ヒプノセラピースクールの資格取得トレーニングにおいて、そもそもそれを教えないのだ。催眠技法だけ教えて、「ただ出してくる」方法しか知らないまま卒業させてしまう。
これは、ただの催眠体験どころではなく、水面下で新たな疾患を作り出す温床である。(しかもそれにクライアント自身もセラピスト自身も気付かないのだから恐ろしい話だ)
(そして…ついでに、だから心理療法は効果が大きい割に危険や疑いが大きく、無責任と言われいつまでも保険適用領域にならない…)
潜在意識は、実は、まずちゃんとしたカウンセリングをすれば、ではあるが、催眠下で情報(メタファー)を引き出したときに、必ずそのメタファーの取扱説明書とともに、セラピストに対して出してきてくれる。
しかし、この「取扱説明書」の受け取り方と読み方を、催眠療法のスクールでは教えないのだ。
(ちなみにこれは、催眠療法資格発行の2大協会のある米国でもどうやら教えない。だから、米国においては、催眠療法の資格所持のみでは、簡単な暗示療法までしか行ってはならないことになっている。)

もし、潜在意識に興味のあるかた、潜在意識へのアプローチをする心理療法や対人支援を目指すかたには、ぜひこれは、頭の片隅に知っておいていただきたい。
また、私は、潜在意識へのアプローチを、大枠の誘導技法だけではなく潜在意識が材料とともに出してくれる「取扱説明書」の受け取り方と読み方もお伝えし、本当に「心理療法」として活かすことのできる学びを可能とする学習所(心・身・魂の療術研究所)を開設しています。
「学びたいかたが学びたいことを学びたい角度から学びたいだけ」そして
「まずは自分自身を第一のクライアントに」
ヒトの(心と身体の)原理原則を知るところから。
もしご興味のあるかたは、最初は無料で個別相談として私とお話していただくことができますので、ぜひお気軽にお試しください。

※ちなみに姉妹記事として紹介。もう大分以前ではありますが、「前世とは何か、前世があるのかないのか」というところに関して触れた記事があります。
催眠療法士全員がそう言っているかというとやはり「言語表現的には」異なる部分がどうしてもある、私論に踏み入ってしまう部分がありますので、文責をとる意味で有料記事としております。そのため、ご興味のあるかたは直接お話かけいただいたほうが、更に発展したお話もしやすいかもしれません。あらゆる領域においてあらゆる角度からアプローチしながらあらゆる話に花を咲かせるコミュニティも主宰しております。


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