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【知られざるアーティストの記憶】第61話 弟との面会

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第8章 弟の入院

 第61話 弟との面会

マサちゃんが転院したO病院は、当時の感染症対策体制下にあっても入院患者との面会が全面禁止ではなく、医師の許可が下りれば月一度の面会予約を取ることができた。そのことを知るやマリは、
「すぐに医師の許可をもらって予約をしようよ。可能な限りマサさんに会いに行ってあげたらいいよね。」
と彼に意気込んだが、彼の反応は予想に反して芳しくはなかった。
「マサさんに会うのは怖いんだよ。」
と彼は正直に言うのだった。
「そうなのか……。でも、きっと、あなたが会いに行くことが一番嬉しいだろうし、回復のためにも大事なことだよね?」
「そうだな。ほんとうは今の様子も知りたいしな。」
彼はしぶしぶ重い腰を上げて病院に電話をした。

O病院はマリの家から三男の保育園に通う道のりをさらに伸ばした先にあった。そればかりか、この年の夏に習い始めたアフリカンダンスとガーナ太鼓のクラスが共にO病院の隣にある市民センターを会場にしていたため、月に数回は訪れる行動圏内でもあったのだ。しかし、このエリアは市内の中心部や鉄道の駅からは遠く離れており、自転車で生活をする彼などはよほどの用事がない限り訪れないであろう地域であった。車での最短ルートはかなりのアップダウンを含む約12、3分で、自転車で行かれなくもないがかなり骨が折れるだろう。マリは初めから彼と一緒に車で行くことを想定したし、彼もまた素直にそれに従った。

彼がO病院に面会の予約を入れたのは、2021年11月25日であった。

マリはその直前の太鼓の練習の帰り道に、カーブした先の赤信号で止まろうとした際、ふいに脇の藪から飛び出してきた2匹のアナグマをよけきれずに跳ねた。車体が細いアナグマの体にカツンと当たったとき、アナグマはきゃいんという悲鳴をあたりに響かせてから、その場を立ち去った。マリはハンドルを切りはしたが、前後にも車があり、大きくはよけられなかった。生まれて初めて動物を跳ねてしまった小さな鋭い感触が体に残り、マリは半日ぐらい苛まれた。帰り着くと一目散に、彼にこのことを知らせた。大きく見開かれたマリの目を見て話を聴いていた彼は、とても悲しそうな顔をして、黙って軽く手を合わせた。

数日後、O病院に向かうときも、ここがアナグマを跳ねた場所だと伝えると、彼はまた助手席で手を合わせた。

さいかちの芽吹き


面会の受付をする本館と、マサちゃんが入院している入院棟は別棟であった。彼は受付を済ませると、
「トイレに行かない?私はトイレに行ってくる。」
とエントランスの脇にあったトイレに入った。マリはその時には尿意がなかったので待っていた。

入院棟のマサちゃんが入院している6階に着くと、マサちゃんはリハビリに出かけているとのことで、戻ってくるまで待たされることになった。
「それなら私、やっぱりトイレに行こうかな。」
とマリが言うと、
「え?トイレ行きたいの?」
と彼は少し「まいった」という顔でニヤリとしながら、ナースステーションに聞きに行った。

「こちらをお使いください。」
と看護師さんが案内するのは、3階にある患者さんのフリールームのような広い部屋の一角をアコーディオンカーテンで仕切ってあるトイレだった。それは見るからに、あらゆる体調の患者さんに対応した特別なトイレであった。マリはそこで、別に緊急でもなかった用を足しながら、入院棟には面会者が気軽に使えるトイレはないこと、だから彼は本館にいる間にトイレを済ませないかと声をかけてくれたのだということに思い至った。

彼だってマリと同様に、この病院に来るのはマサちゃんの転院に付き添ったとき以来のはずであるのに、なぜそんなに勝手を知っているのだろうか。マリは彼という保護者に付き添われた子どもになったような惨めさを感じながら、彼のところに戻った。彼はもう、マサちゃんとの面会に向けて意識を集中し、顔面に緊張を漂わせて無口になっていた。
「だからさっきトイレに行かないかと聞いたのに。」
という、この場合のマリが言われても当然である言葉を、彼は一切口にしなかった。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・11


面会ルームに、車椅子を押されてマサちゃんが現れた。目線がしっかりとしている。洋服と靴には、食べこぼしたような食べ物が少しこびりついていた。
「マサさん、イクミだよ。」
マサちゃんは、兄のことはもちろん、マリが誰なのかもちゃんとわかっている様子だった。体調についての質問への受け答えも、まずます嚙み合っている。とにかく、食事がまずい、早く家に帰りたい、ということを何度も繰り返した。マリは、マサちゃんの誕生日のことや、家のすぐ近くに新しいパン屋さんができたことをマサちゃんに伝えた。マサちゃんとは一度、市内のパン屋さんの話で盛り上がったことがあったのだ。

彼はポケットから一枚の写真を取り出した。マサちゃんのかつての恋人の写真であった。マリは、彼がその写真をマサちゃんに見せると言い出したとき、そんな残酷なフラれかたをした元恋人のことをなぜ思い出させたりするのかと疑問を投げかけた。彼は、マサちゃんの記憶を刺激するためだと言った。

「この人は誰だかわかる?」
「Kさんでしょ?今さらどうしろというの?」
マサちゃんは苦しそうに顔を歪めた。マリが思った通り、マサちゃんはちゃんとKさんのことを覚えていた。

主治医からは特に進展のない話しかなかった。
「早く退院して、家でおいしいものを食べようね。」
とマサちゃんに言い残し、病棟を後にした。
(またすぐに予約を入れて、1ヶ月後に来るからね。)
とこのときのマリは心に思っていた。
「マサさんは、この間に比べるとだいぶ意識がはっきりしていたな。」
彼は帰りの車の中でそうつぶやいた。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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