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【知られざるアーティストの記憶】第32話 あなたの呼び方を変えようと考えていた

Illustration by 宮﨑英麻

 全編収納マガジン
前回

一度きりの思い出

あなたとの思い出は
どれもが
一度きりだった

あの山へ登ったのも
あの川へお揃いのサンダルで
足を浸したのも
桜の下でお弁当を食べたのも
2台の自転車で連れ立って
出掛けたのも
通院以外の用事で
私の車で遊びに出掛けたのも
あのカフェでお茶をしたのも
一緒に外食をしたのも

どれも一度きりの思い出
リピートはなかった

こんな小さな幸せを
いくつもいくつも
重ねたかったよ

あなたがいた
一度きりの思い出の跡を
私は涙で辿っている

あなたは一度でよかったんだね
きっとあなたの魂にとっては

あなたは身軽な人だから
一度ずつの思い出を持って
笑いながら
むこうへ行ってしまった

鷺行美

知られざるアーティストの記憶
第6章 プラトニックな日々


 第32話 あなたの呼び方を変えようと考えていた

マリは京都から帰還するわが子を出迎えるという母親としての感動を味わいながらも、片隅では彼がそろそろ帰ってくる頃じゃないかと思いながら過ごしていた。彼が退院したのは長男の帰宅の翌日である2021年8月16日であったが、マリが再会したのは2日後の18日であった。

マリが夕方の気功を終えて、彼の家の前をゆっくりゆっくり通り過ぎ、ふと左後方を振り向くと、彼が大きな公園から坂を登ってくるところだった。マリが気功をするプールのある児童公園ではなく、彼の家の向かい側に広がる大きな公園から彼が現れたのは、この時が唯一であった。彼はマリと目が合うとさっと左手を挙げた。

「どうしているかなと思ってた。」
彼はいつもの無表情でそう言った。無表情ながら、見つめる目の奥で微笑んでいた。マリとの再会を待ち焦がれたような言葉に、マリは天にも昇る心地がした。

翌8月19日、朝の気功のあとにまた会った。スマホを持たない彼とは、次に会う約束も、必ず会えるという確証も何もなく、マリが通りがかったときに居れば会えるというだけのことであったが、彼は持ち前の直観力と注意力で二人が会うことをコントロールしていたのかもしれない。以前に一度、入院前に一目会いたくて、
「〇月〇日の午前中に来てもいいですか?」
と尋ねたことがあったが、
「私がいるときにはいつでも来てください。」
との返答で、会う日程の約束はできないようであった。この日、彼はマリに本を貸してくれると言って、彼の部屋に上がらせた。

これらの本を貸してくれることは、以前から予告されていた。一冊は『聖書(旧約聖書)』。もう一冊は竹村和子編『“ポスト”フェミニズム』。そしてもう一冊は小沢直宏著『深層心理の構築』。この3冊は、彼がマリと話す中で、マリがもう一つ身に付けたほうがいいと感じたらしい分野のものだった。

彼はキリスト教徒でもなんでもなかったが、体系化された人生哲学を学ぶテキストとして、『聖書』という書物には一読の価値があると考えているようだった。フェミニズムに関しては、マリは前出の西洋美術史の大家である故若桑みどり氏から講義の中で、おじさんへの愛に溢れたブラックユーモアとともにその基本的精神を叩き込まれたので、むしろ過度で攻撃的な論調のものは食わず嫌いしてきた経緯があった。かえって、結婚後に出会った野口整体の奥谷まゆみ氏や『オニババ化する女たち』の三砂ちづる氏などの主張する、女と男は全く別の生き物であり、同じになる必要がなく、実は女のほうが生物学的にも精神的にも遥かに強いという視座のほうに強く惹かれたし、彼もまた、「女には子宮があるからね」というセリフでその認識を心得ていることがすでに確かめられていた。彼が『“ポスト”フェミニズム』でマリに何を学んでほしかったのか、マリは改めて謙虚に学んでみようと思った。三冊目の『深層心理の構築』は、ヒトが猿からの進化の中で、伴侶愛や異性愛をどのように構築してきたかを説く、かなり学術的な本だった。彼は直接は言わなかったが、この本の目次を見てマリは、この選書がマリの恋愛観や家族観に対する彼からの問いかけであることがわかった。そしてこの本の理論は、彼が家族について考える上での、そして彼が家族、とりわけ母親に対して向けてきた愛情の形の根底に少なからず影響を及ぼしているのだろう。

そういえば、3クール目の入院前に本棚の一区画分をごっそり貸してくれたバンド・デシネの雑誌や本は、
「1か月後に私が退院したら必ず返してください。」
と言っていたので、すべて読み終えてはいなかったが返そうとすると、
「別にあなたが持っていてくれていいんですよ。この本はもう手に入らない物だから、そう言っただけです。」
と言うので、マリが持ったままだった。彼はもともとこれらの本が入っていたスペースに、CDを聴くためのレコード・CDプレーヤーをはめ込んでいた。

この日の朝、彼の部屋で彼は
「あなたの呼び方を変えようと、入院中に考えていた。」
と唐突に言った(註)。その言葉は、ふわっとまるで美しい詩の一篇ようにマリの耳に届いた。呼び方を変える、ということは、彼にとってマリとの関係性を変えるということに他ならないではないか。はっきりとした言葉ではないが、「キミのことを受け入れる、つき合おう」という意思を表す言葉の中で、これ以上美しくスマートな言葉を、マリは聞いたことがなかった。

マリは彼への退院祝いを用意していた。パティシエをしている、マリのパリ時代の友人に、「卵黄抜き」の特注でガトーショコラを焼いてもらい、彼の退院に合わせて送ってもらった。この日の昼間、彼にガトーショコラを届けたとき、
「私のことを何て呼んでくれるんですか?」
とマリはキラキラした眼差しを彼に向けて訊いた。返答する代わりに彼は、視線を宙に泳がせてから、
「だって、あなたには家族がいるじゃない。」
と言った。この時の彼の言葉はとても断片的だった。
「プラトニックで……。」
と、彼は確かに口走った。その言葉は、まるで宇宙空間に発せられたかのように二人の間に浮かび、彼がぼうっと視線を漂わせるその空間は、音も空気もない宇宙空間のように感じられた。

(註):彼がこのセリフを言ったのは、マリのノートによると正確には2021年8月19日でした。「鷺 行美 自己紹介に代えて」の記述に合わせて、8月18日に言ったことにしようかとも考えましたが、本編では可能な限り正確に記しておきたいと、正しい日時を記しました。

つづく


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