見出し画像

『渡り鳥の記憶・東日本大震災を超えて』

 大震災前年の秋、福島県双葉郡大熊町の海岸から宮城、岩手、青森、日本海側の秋田、新潟まで、雪がちらつくまえに旅にでかけてみた。この旅の目的は、江戸時代後期、奥州の剣術家、北辰一刀流の創始者:千葉周作の生地をたずね歩き、土地の剣道場に直に触れ、日本人の精神文化というものをより深く知っておく必要にせまられ、とっさに思い立った旅だった。千葉周作の出生は2説あり、宮城県栗原市、岩手県陸前高田市、近代の研究では宮城県気仙沼市が有力視されている。旅というものは、驚きと変貌の連続がつねにつきまとう。稀に迷路に迷い込むことさえある。その後の自身の人生にも、意外な道筋をさずけてくれる。後に、この経験が筆者にとって重要な旅のテーマのひとつとなることは、このときはとうぜん知らない。土地で出逢った小さな剣士たちの笑顔、その風景、聞きなれない方言や風土、すべてが新鮮で清らかな気分になる。手荷物には数冊の本をしのばせておいた。作家・童門冬二・藤沢周平。ざっと読みかえすほどでしかないが、見知らぬ土地での読書も思考の角度をかえてくれる。

画像1

( 作家・童門冬二 氏、ときどき夕食をご一緒する。一流ほど歴史を学ぶものだよ )

 旅の途中に見る海岸線は見事なまでに美しい景色だった。夏も終わり、秋の微風がそろそろ肌に突きさす季節にさしかかっている。港や町も人であふれ、住宅や雑居ビル、商店街がびっしりと下駄をそろえるようにならんでいる。東北も都会となんらかわりなく整備され、その発展はめざましい。幕末から明治へ、昭和初期、東北は文明の恩恵を受ける事なく陸の孤島だった。集落をつなぐ道さえない。途絶された僻地、冬は豪雪にさえぎられ、夏は鬱蒼と生い茂る密林にはばまれ、絶望的なまでの大自然にかこまれていた。現在でも少々わき道にそれれば、その大自然は姿を変える事なく残されている。東北の四季は厳しいがゆえに、繊細なまでに美しい。脂ぎった南国の気だるさがない。気仙沼、南三陸町、港町は学校帰りの生徒たち、ランドセルの色がゆらゆらと現れ、家々と消えてゆく。しばらくもすれば日が暮れる。その時刻を知らせる海鳥が鳴き、海岸から山々へと飛んでゆく。夕刻ともなれば、酔いどれる人々の声がちらほらと聞こえてくる。どの港町にもあるかわらぬ光景だ。ながい陽影が夕焼けに吸いこまれてゆく。時間がゆっくりと流れ、夜を待たずに星々が瞬きだす。柴みをふくんだ濃い青空は、やがて黒い藍色となって夜になる。晴れた日の透き通った夜空も、東北地方の名物のひとつだろう。三陸で出逢った老人と一献まじえる機会があった、もと漁師というだけあって酒は豪快に呑む。盛り上がった肩の筋肉も衰えていない。中学校まで剣道を好み、そして漁師になった。お孫さんはまだ幼く、絵が得意だと自慢する。今夜のために見せたいものがある、といって懐から封書を取り出した。「ほれっ、いいおどごだべっ」中学時代の老人の写真で剣道の道着姿だった。よほど大切に持ち歩いていたのか、モノクロ写真の一部が黄色に変色しているだけで保存状態はいい。面を持ち、竹刀を腰にそえ、とても凛々しい。少年期、老人は仙台市で育った。中学卒業後に三陸の叔父を頼って漁師になった。他の写真に映った同級生たちは、進学した者もいれば都会に集団就職し、粗密様々に散って行った。"それっきり会うことはなかった"もどって来るの者はわずかでしかない。渡り鳥のようだ。 老人の頬がやや高揚した。話題をふってきた。奥州、東北人にとって千葉周作は伊達政宗についで誇りだ。なにせ千葉周作は現代の剣道の基礎を築いた剣術家だ。宮本武蔵のように神格化した剣術を好まなかった。実戦型を重視した。わかりやすく言えば、宮本武蔵は勝つための剣術を芸術化した。芸術家は一代限り、弟子を持たない。千葉周作は勝つために剣術を技術化し、伝授した技術職人だった。芸術には空想が入る、空想は伝授できない、技術に空想は入らない、技と鍛錬である。千葉道場は現代も受け継がれている。密度の濃い話しになってきた。武芸者でもない素朴な老人とこんな会話ができるとは、率直に感動した。人の中にも人はいるものだ。

(南三陸町、震災後の防災対策庁舎)

 町の居酒屋は木造建ての小ぢんまりとした空間だった。店構えを見ただけでその古さがわかる。杯をかさねるうちに、ギシっときしむ音がした。微妙に建物が揺れた。(んっ、地震か?) 店の女将がチラッと天井に眼を向けたあと、無表情で魚をさばいている。このぐらいの揺れはたまにある。地元の人々もさほど気にならない。「むかしは大きいのがあったけど」ぽつりと女将の声が聞こえた。その声にかぶせてみた。「記録で読んだ事があります。凄い被害だったようで」むかしの爺さん婆さんはよくそんな話しをして伝えていた。「今はね〜、知ってる人はみんな誰もいなくなったからね〜。防波堤がなかった時代だからね〜」ああ〜、あれか〜。東北は災害の多い地域でもある。公に残っている史実のほかにも頻繁にあった時代がある。ただし、土地の村民が記したというだけで調査はされていない。郷土資料館の職員に聞いた話しだが、忍者の忍法帖にも災害の記録が残っていると言う。東北の歴史には暗さがつきまとう。途絶された地域の上に貧乏くじさえ引かされた。幕末の京都守護職がそうだろう。戊辰戦争では騙し討ちにあい、賊軍になり、西南戦争ではうまく駆り出され前線にまで立った。結果、残ったものは卑屈と謙虚さが入り混じった習慣だと言う人もいる。先の世代の年寄りは薩長という言葉を使った。土地の人々と接してみれば、過去にあった災害や戦は遠いむかしの出来事で、その爪痕や痕迹などまるで感じさせない明るさもある。過去の古い歴史の史書の1ページに封印されたような印象さえある。これは旅で感じたほんの一幕にすぎない。「ほれ、くえっ、くえっ、食わっしょ〜」老人が手のひらでパタパタとすすめてくる。三陸の鮑はとくに美味かった。夜もふけてきた。宿への帰り道、夜空の星の多さに驚いた。北西の空に北斗七星がくっきりと見える。この星座は仏教にいう、摩利支天菩薩とならぶ妙見菩薩、北辰妙見、勝利、勝負の神として信仰されている。北辰一刀流はここからきている。

 海岸線に漁船の明かりが点々と見える。海に浮いた星座のようだ。ふと思い出したが、これより114年前の1896年(明治29年) 6月15日午後7時32分、M8.2-8.5、日本国内で最大級の大地震、大津波が発生した。東北地方を襲った巨大地震は海岸線一帯と集落のすべてを壊滅させ、死者は2万2千人を超えた。明治三陸地震である。こんな夜ふけそんな地震がやってきたら、考えただけでもぞっとする。翌朝はおそい朝食になってしまい、宿の女将に手間をかけてしまった。”お気になさらずとも、旅の方は気ままがいいんですよ”手土産にと言って、和紙に馬の印が押された御守りをくれた。馬は縁起がいい。気仙沼の早馬神社である。鎌倉鶴岡八幡宮と縁が深い。源頼朝の死後、この世を憂いだ一族が鎌倉を離れ蝦夷千島を目指して旅立ち、その途中にたどり着いたこの場所を開拓した。当初は早馬大権現と言った。明治初期の神仏分離令によって神社と改められた。奥州は、新天地に夢をもとめて旅立つ人々も多い。旅はその時代背景によって目的が異なる。残党として放浪する者、自己逃避に走る者、様々だろう。筆者はつねにひとつしかない。”自己の探究心の開拓である” そこに明確な目標が加わればさらに良い。岩手リアス式海岸を降り、岩礁と海を遠望した。荒々しく美しい光景には息を呑む。弘前では藩政時代から続く武器や農具、その伝統技術を受け継いだ職人にも会う事ができた。蔵から油紙に包んだナタを見せてくれた。200年前の物だと言う。一瞬、めまいがした。おっそろしいほどに美しい刃文だった。北国にはまだまだ知られざる宝が眠っている。日本海側を駆け足で上った。新潟から群馬県桐生市へ、国武館道場に到着した。この道場の歴史は古い。ここに鬼才といわれた名剣士が出入りした。森 寅雄・段位八段、曽祖父は森 要蔵といい、江戸桶町北辰一刀流千葉道場四天王の1人で、塾頭は坂本龍馬である。叔父は野間清治、現在の講談社の創業者である。寅雄は昭和9年二十歳そこそこでアメリカへ旅立った。日本脱出とも言える。異国の地で遭遇したフェンシングが彼の人生を変えた。たった半年たらずで素質を開花させ、地区選手権で優勝、全米選手権で準優勝。60年ローマ五輪ではアメリカ代表監督まで務める。(69年没54歳) 2013年国際フェンシング連盟日本人初の殿堂入りとなる。

  海外から日本という国をふり返るとき、無意識に窮屈な印象をもってしまう。良し悪しは別として、島国、村社会という閉鎖的な風土が精神のどこかに依存している。しかし、いざ事が起きれば地雷原を疾走するような勢い、団結力をもっている。これも稀な日本気質といえる。45日間の短い旅を終え、意外に日本を知らない事を実感した。資料整理ひとつにしても、解釈の角度が妙に変化した。今後の取材活動の軌道修正を考える起点ともなった。

 年が明けて2011年3月11日14時46分、日本の大地が激しく揺らいだ。M9.0、未曾有の巨大地震の発生である。この日、関東は朝から晴天だった。震災発生から一時間後、晴天だった関東の空に異変があった。黒い雲が覆い、霧状になって舞い降り、夕焼けに染まった赤黒い雲が屏風のように広がった。この日から、人々の意識のすべてが一転する。

 震災現場は混乱している。専用無線さえつながらなかった。三陸の老人はどうしているだろう、小さな剣士たちは。現場に向かうしか手がない。それも困難なことだが、交通ルートの確認を急いだ。夜、気仙沼の海が燃えているという。海岸はどうなっている、不明、内陸の被害は、不明、翌日12日、被害の詳細が徐々に明らかになる。旅先で見た美しい風景ほ泥沼と化している。15時36分、福島県大熊町第一原発1号機水素爆発。災害に拍車がかかる。被災地はさらに混乱に陥った。

画像3

( 南三陸町、防災対策庁舎付近:震災の夏、津波の後に残された体操着のズボン )

画像4

( 南三陸町、震災の夏、津波で流された瓦礫の中から見つかったアルバム )

画像5

(南三陸町、震災後の夏、防災対策庁舎)

画像6

( 福島県富岡町の国道沿い、立ち入り禁止。2012.12.25 )

画像7

( 警戒区域、福島県大熊町の白鳥。 20〜32 μSv/h. 2012.12.25 )

 白鳥は毎年やってくる。町の人々の楽しみな季節でもある。写真配信後すぐ、町民の方からのコメントがあった。「鳥っこだぢ、ごめんしてな〜、ごめんしてな〜」察するに、餌をあたえ、面倒を見てきた方なのだろう。

画像8

( 警戒区域、福島県大熊町・栽培漁業協会。32~45μSv/h. 2013.4.11 )

画像9

( 警戒区域、福島県大熊町 住宅の二階窓から撮影。29〜32μSv/h. 2013.4.11 )

 災害は不意をついてやってくる。なぜいま、誰もが思ったに違いない。識者は過去の周期的な発生をデーター化して論ずる。もっともな事だろう。ふと、気づいた事があったが、古い時代から現代まで、世界規模で時の政変を調べてみた。”政変と天変地異”には深い関係があるのではないか、ほんの一例であるが1991年6月3日、雲仙普賢岳噴火火砕流、自民党・海部俊樹11月〜12月宮澤喜一 内閣、海外の政変では11月にベルリンの壁崩壊、12月にソビエト崩壊、94年旧日本新党・細川護熙 内閣〜95年旧社会党・村山富市 内閣、95年1月17日に阪神淡路大震災が発生、09〜10年自民党惨敗〜旧民主党・鳩山由紀夫 内閣〜菅直人 内閣、11年3月11日、東日本大震災発生。野田佳彦 内閣も短命に終わる。

 三陸で出逢った老人は、旅人となって去って逝った。あの晩の思い出が、いまも余韻として残っている。北天の夜空は、いまも美しい。北斗七星がくっきりと見える。もしかしたら、老人は、あの星のあたりで、こちらを覗いているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?