見出し画像

《多様性》を諦めることはできない

前回の記事にて、多くの思想(宗教、思想、哲学、その他の個々人による思考など)について、それらをすべてまとめ上げ「偶像的全体」を構築することは、「不可能」であることを不可視化することによってのみ可能である、と結論付けました。

画像1

多くの人々の「思想」、ひいては多様な文化的背景を持った人間群を一緒くたにできる場所というのは、どのように努力してまとめ上げようとしても、結局のところ、それが「可能」である様にみえて、ほとんどの「不可能」が不可視化されているだけに過ぎないのではないか。《無》で均されていたり、《個人が不在》であったりすることによって。


「無で均された地平」には、直線的「思想」や「欲望」しか存在することができない。「無」が意味するところは、「無」という意味の不在によっても語られる。「無」の状態については、どこまで解釈しても、その「解釈装置」から逃れることはできない。要するに、「解釈装置」が無い地平には、「偶像的全体」は存在しうる。また、その「解釈装置」が〈無いという事実〉は、恣意的に、または別の「解釈装置」によって不可視化される、ということである。これにより、「無に均された地平」が構築され、その地平には、「偶像的全体」が存在している(と錯覚する)。

また、その「偶像的全体」は、ある〈規定性を保持した解釈装置〉であるとも言えるかもしれない。実は、この不可視化された「解釈装置」による規定性のある事柄こそが、人類による恣意的な、または偶然的な信仰対象となっているのだ。その信仰心とは、当本人からをも「信仰心」自体を奪い去っている。とある特定の「解釈装置」、または「規定性のある事柄」の信仰を、自分の内に局在させているはずである(と思い込んでいる)のに、それに関して改めて思考したり発見したりすることは決してない。〈その特定の〉信仰心は、「信仰心」自体を貪り腐食させながら、人の心の内部から奪いとる性質がある。私自身の本来あるべき(なのかもしれない)「信仰心」自体を、〈その特定の〉信仰心によって不可視化されているのである。しかし、とある信仰心を語る際に注意すべきなのは、ある特定の信仰心を持った個人による「言語環境」を無視して、それを語るべきではないという部分である。なので、信仰心(=「解釈装置」=「偶像的全体」)は、語りつくし解体することが不可能である。統一的世界像は、決してそれ自体の存在に耐えることができない。

また、「個人が不在(個人が不可視化されている)」であることによる「偶像的全体」の存在可能性については、現在の「多様化ブーム」によっても、説明がある程度可能であるように思う。「多様化」がある程度受容されるということは、「多様になり得る存在」が増殖している結果である。それは、「無に均された平面」における、《不可視化された「解釈装置」の不在性》による功利作用とはならない。不可視化されている「解釈装置」は、ただ単に不可視化されていることによる認知困難性が事実としてあるだけで、たしかに存在はしているからである。ようするに、「多様化ブーム」という現象自体は、《不可視化された「解釈装置」の不在》が存在しなければ、その存在自体に耐えることはできない。ならば、裏で縦横無尽に全ての事実をコントロールする《不可視化された「解釈装置」》が存在しているのであるから、個々人が発するすべての事物に対し、常に疑義を呈さなくてはならないのである。しかし、ある意味では《「解釈装置」は不在である》と、人々は「なんとなく」または「確信をもちながら」無意識的/規範的に思考するのであるのだから、恐らく、そのような疑義をもちながら「私個人」の実存自体を問い質す者は、ほとんど皆無であろう。この《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在が成立するということは、疑義を呈する者がふっと表出してきたとしても、その存在がその〈疑義自体〉を徹底的に消滅させる。そして、それは何ゆえの帰結なのだろう。

つまり、安易な「多様化」とは、一種の「諦め」である。どのような存在にもなり得る個人自体が「多様化」の端緒である、としてそのまま受け止めさえすれば、即座に《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在によって、その思想がとことん肯定されるのである。それは、自己の存在をニヒリスティックに、またはフェティッシュに捉え直すことに繋がっていく。前者の場合、「解釈装置」の存在を《殺す》ことであり、「個人の不在(個人の不可視化)」という現象に加担することで、《不可視化された「解釈装置」の不在性》に対する根拠の言説を強化することになる。また後者の場合、どこまで行っても「フェチ」の領域を脱することはできず、同様に《不可視化された「解釈装置」の不在性》の存在を強化し加速させる作用がある。これはつまり、「偶像的全体」の成就不可能性を示す根拠であり、それは「諦め」であり、かつ「多様化」を、それっぽいものであると肯定する材料にもなりうるのだ。

これにより、固有性のある私個人を明瞭にする「認識装置」の存在の可視化を、諦めてしまうかもしれない。しかし、この「諦め」は、開き直りに近い。「思想」や「欲望」といった「偶像的全体」を志向することもなく、それがほとんど不可能であることが分かれば、「私個人」が一体何であるのかを思考するようになる。しかし、結局は「認識装置」の相対化が止めど無く行われて何が何だか分からなくなることで、それすらも断念してしまうことに繋がりうる。自己の存在をニヒリスティックに捉え直し、更に、そのような存在であると規範し規定することで、〈私の実存〉は落ち着くことになる。

しかしながら、「多様化」を「諦め」として肯定する行為こそ、ニヒリスティックであり、フェティッシュな思想であるかもしれない。

個々人の「多様化」は、個々人の〈特徴的なアイデンティティの希求〉へと向かう。つまり、「私とはだれか」「世界とは何か」と問うことは、とある全体性を志向しているということだ。統一的な答えを得たくて、彷徨っている。しかしながら、その彷徨いの中で《偶像的全体》にたどり着くことは決して無い。なぜならば、「私とはだれか」「世界とは何か」という《多様に回答が存在しうるしかない問い》に、統一的な何かを志向する私自身の存在が、そのようにさせているからだ。個人の不在性における「多様性」に基づいた思想や「解釈装置」によって、私自身や世界全体における〈原理的なもの〉ついて考えさせるきっかけになるのだが、それは実に多様であるという実感のもとで投げ掛けれらない限り、ニヒリスティックに、またはフェティッシュに存在するしかなくなる。どう考えたって、ここには「矛盾」しか生まれない。この思想のもとに存在する「多様性」とは、実に貧弱な多様性である。「無で均された地平」において「(不在の)私」によって思考される、「私とはなにか」という問い(あるいは思想)について熟考することというのは、何ら実質的な回答を生むことは無いのではないか。

だからといって、「多様化」を諦める行為について《も》、何ら実質的な回答を生むことは無い。「多様性」を諦める行為が拡大解釈され、それが「解釈装置」となってしまえば、それ自体が虚偽の《偶像的全体》になり得てしまう。ここには、「解釈のパラドックス」が存在している。《偶像的全体》の志向が「解釈装置」によって為されるように進むべきであるのに、その《偶像的全体》の本質的構築の不可能性に直面することによって、そのような結果としての「解釈」が広範に行き渡り、二次の《偶像的全体》の「解釈装置」が確固たる「機械」として、多くの人々の内心に規則正しく配置されることになる。ここでいう、二次の《偶像的全体》とは、全人類による無限とも言える相対化によって生み出された、オリジナルが不在の「解釈装置」のことである。

何かを「解釈」しないと、所在不明の「解釈」があちこちで産み落とされ、それがカオスに独り歩きするしかなくなる。しかし、その「解釈」を解釈する「解釈装置」が、本質的なものであるのか、それとも《不可視化されて不在である》ように存在するものであるのか、それを判断するのは至難の業であり、ほとんど不可能なのではないだろうか。

けれども、このような構造から目をそらすこと自体が、不本意な「解釈」を解釈する「解釈装置」を拡大させることに繋がるのであれば、それは阻止しなければならない。


次こそは、以上の内容をこの本と絡めて考えてみたい。次こそは。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?