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現実に変わった夢の後先

 幼い頃は、宇宙飛行士になりたかった。

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 きっと誰しもなりたかった職業やこの人になりたいと憧れていた人がいたことだろう。その夢に向かって奮闘した人もいるだろうが、歳を重ねるにつれて、自分の能力と現実を思い知り、志半ばで幼い頃に夢や希望を諦めてしまった人も少なくないと思う。

 先日に引き続き、古典映画を改めて鑑賞するといった活動を続けている。

 今回観たのは、ウッディ・アレン監督の『カイロの紫のバラ(原題:The Purple Rose of Cairo)』。ウッディ・アレン監督は恐ろしくたくさんの作品を世に送り出しているが、その中でも5本の指に入るくらい好きな作品。

■ あらすじ

 ニュージャージーで働くウエイトレスのセシリアは、あまり容量が良い方ではなく、仕事場でも家でも叱責を受ける毎日。そして夫からは、時々暴力を受けることもある。
 
 そんな彼女が現実世界から逃げ出す場として日がな通っているのが、映画館。あるとき、職場で度重なるミスをしてクビになってしまう。意気消沈していつものように映画館へ足を運ぶと、なんと登場人物の一人であるトムが映画のスクリーンからすり抜けてセシリアの元へ近づいてくるではないか。そこから虚構の人物であるトムと、セシリアの交流が始まる。

■ 虚構の世界にて展開される、虚構と現実

 今回舞台設定が、1930年代となっている。その頃はまだ映画は発展途上で、モノクロ映画が主流だった。そのおかげで、「モノクロ=虚構」、そして「カラー=現実」という線引きがされていて非常にわかりやすい構成となっている。

 そのままトムが虚構の世界を引きずった形で、おもちゃの金をレストランで出したり、キスシーンをするとそのまま場面がフェードアウトするんだと言ったりする場面があって、思わずクスリと笑ってしまった。

 あと、私的にはスクリーンの中に取り残された役者たちと、現実世界における人々のそれぞれの狼狽ぶりがなかなかユーモアたっぷりに描かれていて、好き。

■ 価値観の違いによって生まれる溝

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 セシリアにとっては神様といえばキリスト教のイエス・キリストを指し、スクリーンからと飛び出したトムにとっては神様とは脚本家を指す。こんなところでも、立場の違いによる価値観の違いというものが浮き彫りになってくる。

 これは、お金持ちとそれほど裕福ではない家庭に生まれた人の間に生まれる価値観の違いにも、どこかよく似ている気がする。

 そしてセシリアとトムの仲を阻むのが、トムを実際に演じたハーマンの存在。現実世界に存在するハーマンは、もともとトムを劇場に戻すためにニュージャージーを訪れた。ところが、セシリアと一緒に行動することで、彼女に対して恋心を抱くようになる。

 ここで現実世界に生きるハーマンと虚構世界に生きるトムとの間で、セシリアは板挟みになってしまう。そして最終的に彼女が選んだ選択肢を含めて、本作品には考えさせられるものがあった。

■ 終わりに

 冒頭で人は誰しも夢見た時があったであろうという話をしたが、同じように誰しも物語の主人公になれたら、と思った時があったのではなかろうか。

 本作では、スクリーンを飛び出したトムとセシリアは物語の主人公だった。二人は、お互いの思いを吐露して急速に距離を縮めていく。ところが、二人の間には埋めようのない立場の違いが生じてくる。

 セシリアの置かれている立場、感情の機微、そうしたものがユーモアたっぷりに描かれていて、かつ最終的な結末含めてどこかスッキリした映画だった。虚構世界を描いている割には、やけに現実的。

 何事も、もしかしたら夢は夢のままで終わった方が幸せなのかもしれない。

 夢を抱きながら生きていくことで、生活にハリが出る。一方、長年抱いた夢が叶うことにより、もしかしたら辛い現実と向き合わなければならないかもしれない。後者に至っては、心の拠り所をどこに持っていけば良いのか。


 ちなみにこの設定、どこかで観たことがあるなと思って記憶を探ったら、そういえば綾瀬はるか主演の『今夜、ロマンス劇場で』という作品も似たような設定だったことを思い出した。話の展開としてはだいぶ異なるが、まあ作品のあり方としてはこれはこれでありなのかも。


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