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#97 自由と孤独と愛の最中で

 わたしは大学の時に、英米文学を専攻していた。

 今思うと、わたしの大学における花形? といえば、商学部や経済学部などでどちらかというと文学部は「君たちの研究は何に役立つのかな?」と疑問符を持たれて見られていた節がある(ちょっと自意識過剰かも)。

 さて、そのような若干アウェーな空気の中で、わたしはひたすら図書館に通い、それからここぞとばかりに勤勉学生ぶりを発揮していた。当時学んでいた英米文学はわたしとの相性がとても良く、特に研究の対象としていたのは比較的近代に近い文学だった。その最たる例が、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』という物語である。

 この作品は、オードリーヘップバーン主演で映画化もされている。実を言うと、小説の筋書きとは最後の部分が大きく異なり、映画に関してはどちらかというと恋愛映画に傾いている。もちろん小説は小説で面白いのだが、わたしは映画版も正直とても好きなのである。

 最後のシーンで主人公はついに思いの丈を、オードリーヘップバーン扮するホリーに告白する。

Horry, I’m loved with you──.

 降り頻る雨の中、ホリーと主人公はタクシーの中で二人並んで揺られている。突然狂ったようにホリーは飼っていたネコを手放すのだ。突然放り出されたネコは何が起こったのかわからず、にゃお、と心細げに鳴いた。当然だ、突然温かい室内から外へ放り出されたのだから。震えるネコに、ホリーはわざと自らの意識を外す。彼女は絶対に、ネコに対して名前をつけることをしなかった。

「わたしは、ネコと同じ名無しよ。
  誰のものでもない。
   ひとりぼっちなのよ」

 昔読んだ、夏目先生の『吾輩は猫である』の冒頭のシーンを思い出した。あのネコは、先生のもとで自由気ままに振る舞い、その最中で少しお茶目な先生を第三者の視点から面白く観察し、そして最後は悲しい死を遂げた。

「人は束縛できないわ」

「愛で包むだけだよ」

「猫と同じで私は、誰のものでもないわ」

 ホリーは自由であろうとした。彼女の自由奔放な振る舞いは周囲を戸惑わせ、翻弄した。彼女は常に自分の心に忠実であろうとしたのである。女性は秘密によって自らを着飾り、そして誘う。誰にも縛られたくない、というホリーの気持ちはわかる気がした。彼女の自由で、斜に構えない姿は男性を虜にするのだが、それでもわたしは彼女の姿を見て、一種の痛々しささえ覚えてしまう。

 ネコも、彼女と同じように何ものにも縛られることがなく、集団で行動することが少ない動物として知られている。きっとホリーの言葉は、名前のない=所在がないという意味でどこへでも飛び立てるんだよ、ということを意味していたのだと思う。

*

 ホリーの姿を見ていると、なぜかわたしはふっ、と村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくる緑を思い出す。ロマンチストでありながら、要所要所では現実主義的な側面が顔を出す。彼女も何かから逃げるかのように、自由を愛する女性のように思えた。

 それは彼女の過去が、あまり良くないものだったからかもしれない。父と母にうまく愛されず、学校にもうまく馴染むことができなかった。「十分じゃない」と「全然足りない」の中間くらい。愛情に飢えて、酸っぱさと甘さを織り交ぜた苺のショートケーキのようなものを求めていた。

「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」

『ノルウェイの森(上)』p.161 文庫版

 主人公であるワタナベを時には振り回しながらも、自分の中にある本性を悟られまいとして半ば自由に見せようとする彼女。ホリーの境遇にも通じるところがあって、愛に飢えているからこそ自由でありたいと願う。自分の弱い部分を見せようとするも、心の根幹の部分については全てを開けっぴろげにしようとしない。男たちは彼女たちの影を追って、しばらく経って自分たちが抜けられない沼にはまっていることに気がつく。

*

 わたし自身、最近ふと思うことがある。20代の頃、あまり結婚願望はなく、自由に気の赴くまま好きなことをしていた。有り余る原動力を元手にして、友人たちと様々な場所へ出掛けて、趣味に没頭して。そしてコロナ禍になり、友人たちとなかなか会うこともできずに孤独になって心が折れそうになった日のことを。

 ホリーのように自由を愛する女性は、それはそれで異性を惹きつけるものなのかもしれないけれど、反面人間関係に対しても頓着しないスタイルは、人と人との間における深い関係を結びつけることができない。自由を求めるあまり誰の心にも縛られないような生き方は、少しずつ、少しずつ人々の記憶の最中から失われていく。

 自由って、なんて甘美な響きを持っていて、それでいて茨の道なのだろう。自由になる、何かから解放されるということは、何かから解き放たれて縛られるものがなくなるということだ。でも一方で、もしかすると自分自身を縛っていたものが、自分の存在を固めるものであり、それが実は生きる道筋となっていたのかもしれない。

 何か、自分の思い通りにしようとすると、うまくいかないこともあるよね。誰かがそう、私の耳元で囁く。自由の権利を主張したいなら、それと同時にある程度の犠牲と、それから血と汗が滲むような、努力が必要なんだよ。

 同時にそれは、自分の中にある悩みだとか鬱屈した感情から解き放たれることかもしれない。どうしようもない空虚さを兼ね備えながらも、何もかも自分で選べる、自分で自由に時間を使える、選択できるという行動範囲の広がりに酔いしれ、同時に自分のことは全て自分でやらなければならないという責任にも付き纏われることになるのである。

*

 ホリーは映画では結局最後、雨の中を主人公と結ばれるという結末を迎えるのだが、一方で小説では最後主人公とは恋仲になりなどせず、単身アフリカで楽しそうに過ごしている写真を主人公にハガキでよこすのである。なんというか無邪気というか、誰にも縛られたくないという彼女の意思をそのまま反映したかのような小説の終わり方にも、私は好感を持てる。

 彼女のことを羨ましいと思いながらも、私には彼女のような生き方を真似ることができない。何もかも捨て去って、まるでともするとその日暮らしのような生き方。自由でありながらも、孤独。すべてを置いて出てしまうには、私には勇気も気力も、器量もないのだ。

 そして仮に彼女のように自由になる選択肢があったとしても、私はきっとそのどこかに逃げ道を残すだろう。そんなの、ずるいかもしれない。でもたとえ行動範囲は自由であっても、帰ってくる場所をきちんと取っておきたい。それが例えば、友人であってもいいし、恋人であっても良い。私自身が愛を持って接することができる人を大切に、温もりを持って関係性を繋げていく。それが、きっとこの先の生きる上でに道標になる気がしている。


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