音


著者
小野 大介


「みんな! もうすぐ七時よ! いい加減起きてきなさい!」

 台所にいる母親が大きな声を上げた。二階で寝ている夫や子供たちに届かせるためだ。

 朝食作りに勤しみながら皆が下りてくるのを待つが、どの部屋のドアも開く気配が無い。おかげで、玉ねぎを薄めに切る音や、鍋に張った水が沸騰を始めた音ばかりが強調して聞こえていた。

「まったくもう……」

 彼女は呆れ、ついに待つのをやめた。

「お姉ちゃん! 早く起きないと、お父さんが先にトイレ使っちゃうわよ!」

 もう一度声を張り上げると、すぐに二階のどこかのドアが開いて、古くなった床板のきしみが聞こえてきた。

「もう、お母さん! 私、朝はいらないっていってるじゃん!」

 きしみは階段へ移る。するとあくびが聞こえて、その後に声がした。

 女性の声だがまだ若く、とはいえ少女とは呼べない年頃のものだ。

「朝ごはんはちゃんと食べなさいっていつも言ってるでしょ。ダイエットをするなら、晩ごはんを減らしなさい」

 彼女はそう注意しつつ、切り終えた玉ねぎをまな板の端に寄せ、次に湯通しを済ませた油揚げを玉ねぎよりも細く切る。

「ダイエットとか違うし! 朝は食欲が無いだけ! 決めつけないでよ、うっざ……」

 娘の愚痴と軽い足音は、階段を下りた先にある玄関前の通路を奥に抜け、トイレにまで続いた。

「こら、そんな言葉使わないの! ――お父さん、起きてください! 遅刻しますよ!」

 彼女は次に、夫に呼びかけた。

 その間も手は止めず、油揚げを切り終えると沸騰していた鍋の火を弱め、粉末状の万能ダシを入れてかき混ぜる。

 するとまた、二階のどこかのドアが開いて、廊下がきしむ。娘とは違い、きしみも足取りも重くて鈍い。

 それが階段に移ったところで、初老の気配を感じさせる、痰の絡まった咳き込みが聞こえてきた。

「お父さん、トイレはお姉ちゃんが入ってますからね」

「んー」

 間の抜けた大きなあくびをし、ぽっこりお腹をかきながら、夫ものっそのっそと玄関前通路を奥に進む。

 娘が使用中のトイレの先には洗面所と風呂場がある。

 夫はその洗面所に向かっていたが、何故か途中で足を止め、トイレのドアをノックした。

「なにっ?」

 娘が鬱陶しそうな返事をすると、夫は無言のままに大きな屁を一発かました。

「もぉー! 最悪!」

 娘は怒声を上げ、ドアをガツンと蹴った。

「へっへっへっ、すまんすまん」

 満足気な笑みを残し、夫は洗面所に消えた。

「まったくもう、汚い……」

 そのやりとりを聞いていた彼女は、また呆れ、首を小さく左右に振った。

 それでもやはり手は動かし、すでに玉ねぎを鍋に入れ、蓋をして中火にかけていた。そして、隣のコンロに置いたフライパンでベーコンエッグを作り始めていた。

 一枚のベーコンに、目玉焼きを一個。それを四つと人数分。

「ハァ、まだ起きてこない……」

 彼女は溜め息をこぼし、毎日の油で変色した天井をチラリとうかがった。

「いい加減に起きなさい! 今日も遅刻したら、お母さん、本気で怒るからね!」

 起きる気配をまるで見せない息子に苛立ち、彼女は今までになく大きな声を、怒鳴り声を上げた。

 それからまたしばらく待つが、二階からはなにも聞こえず、娘が邪魔な父親を洗面所から追い出す声や音がするばかりだった。

 その間にも彼女は、出来たてのベーコンエッグを大皿に移し、居間の食卓へと運んでいた。

「ハァ、あの子はほんとにもう……」

 まだダメか。こうなれば直接起こしに行くしかない。そのためにもまずは火を弱めよう。

 そう思いながら台所に戻ったところ、二階からドアが開く音がした。それも強めに。

 するとまもなく、きしみも聞こえないほどの乱暴な足音がし、階段を下りてきた。

「一々うるさい……!」

 玄関前通路から、なんとも不機嫌な声が上がった。

 声変わりをしている最中の少年のもので、もちろん息子だ。

 息子は粗雑な足音を立てながら、洗面所へ移動した。

「なかなか起きてこないからでしょ、返事もしないし。遅刻さえしなければね、お母さんも一々うるさく言わないわよ」

 彼女は居間に顔を覗かせ、声を大にして言った。

「チィッ!」

 息子からの返事は無く、代わりに舌打ちが聞こえた。

「こら、舌打ちしないの! 返事は?」

「はいはい」

 すかさず注意すると、嫌そうな返事が聞こえてきた。

「まったくもう……あっ、お父さん! 新聞! また持って入ったでしょ!」

「おー」

 空返事はトイレから聞こえた。

「もう、汚いからやめてくださいっていつも言ってるでしょ!」

「すまんすまん」

「またそれ……そう思うならやめてくれればいいのに」

 彼女は台所に顔を戻すと、夫への不満をこぼしながら、ふきこぼれそうになっていた鍋の火を止め、蓋を開けて油揚げを入れ、味噌を溶き始めた。

「メシ、いらんから」

 味噌汁の味を見ていると、わざとらしく荒い足音が近づいてきて、そんな声がした。

「ダメよ、朝ごはんはちゃんと食べなさい、成長期なんだから」

「チィッ!」

「また舌打ち!」

「うるっせぇなぁ! ……もう成長しねぇよ」

 息子は悲しげにそう言い捨てると、どっかどっかと階段を駆け上がっていった。

「こらっ! いい加減にしとけよ!」

 するとまもなくトイレのドアが開き、夫が声を荒げた。

「うるせぇジジイ!」

 息子は応酬するように罵声をぶつけると、自室のドアを乱暴に閉めた。

「誰がジジイだ! せめてオッサンと言え! オッサンと!」

「あなた、そこじゃないでしょ。そこはどうでもいいから」

「えー、いやいや、どうでもよくはないだろうー」

 妻の投げやりなツッコミにテンションを下げながら、夫は居間に歩を進める。

「お父さん、トイレに持ち込んだ新聞を食卓に置かないでくださいね、汚いから」

 彼女はすかさず注意する、振り返りもせずに。

「は、はい……」

 夫はさらにテンションを下げ、しょんぼりとした返事をした。

「ハァ……あの子、あんな調子でこれから大丈夫なのかしら」

 彼女はため息をこぼしながら、夫の分の御飯と味噌汁をよそい、インスタントコーヒーを淹れたマグカップと一緒におぼんに乗せ、食卓へ運んだ。

 そのとき、居間に夫の姿は無かった。代わりに、一つだけテーブルから離された椅子があって、その上に雑に折りたたまれた新聞が置かれていた。

「反抗期だからなぁ」

 夫の声は、居間の奥の閉じられたふすまの向こうから聞こえた。

「俺もそうだったけど、この時期は誰でもああなるもんさ。あんな風に悪態をついていたって、内心は悪いことをしてるって自覚があるはず。心も大人になろうと成長しているところなんだ。今はしょうがないよ、見守ってやるのが一番だ」

「でも……」

 彼女は空いている席の前におぼんの上のものを起き、すぐに台所へ戻った。

「心配する気持ちはわかるよ。でも、今のあいつは構われるのがとにかく嫌なんだよ。近づこうとすればかえって離れてしまう。自分から近づいてくれるのを待っていてやればいいのさ。……まぁ、今さらだけど」

 彼女が台所に戻り、まな板や包丁などの使ったものを洗い始めたところ、夫がふすまを開けて戻ってきた。椅子を引いて、新聞をどけることなく座り、食卓の中央に置かれた箸立てから、自分の箸を取った。

「あっ! ちょっと待って、さっき手を洗いました?」

「え? あっ、すまんすまん」

 夫はハッとし、小走りで居間を出て、洗面所へ向かった。

「もう、汚い……!」

 彼女は大きなため息をつくと、手についた泡を急いで落とし、居間へ箸を取りに行った。嫌そうな顔をしながらすぐに戻って、その箸をシンクに捨てた。

「ちょっともう! 早く出てってよ!」

 そのとき、洗面所のほうから甲高い怒声が上がった。

「おう、すまんすまん。バスローブ取るか?」

「いいから出てけ!」

「おいおい、父親に対してその口の利き方は良くないぞー」

「もう! お母さん!」

「お父さん! いい加減にしてください!」

「はーいはい、すまんすまん、お父さんが悪うございました」

 悪びれるどころか拗ねている様子の夫は、またも大きな放屁を残して居間に戻ってきた。

「最悪! ほんと最悪! 最低!」

 娘はすぐに洗面所を飛び出して二階へ駆け上がると、そんな大声を上げて自室に閉じこもった。

「へっへっへっ、さすが水泳部、よく息が続くな」

「もう、お父さん、あれはあんまりですよ。息子のことはよくわかってるのに、娘のことはまるで理解してないんだから」

「いやいや、理解してないわけじゃないさ。でもさぁ、この時期はなにもしなくたって嫌われるんだから」

「そうですけど、わざわざ嫌われるようなことをしなくていいでしょうに」

「えー、嫌われるかー?」

「嫌われますよ、私だって嫌いになりますよ」

「はは、それは困る。君にだけは嫌われたくない。――じゃあ、いただきます」

 夫はまた、箸立てから箸を取った。

「うん、美味い! 君の味噌汁はやっぱり美味いなぁ」

「もう、毎日そう言うんだから」

「だって本当に美味いんだもん」

「はいはい」

 素っ気なく答える彼女だが、その顔には微笑みがあった。

「お着替え、出しておきましたからね」

「いつもの?」

「ええ、いつものだけど」

「ごめーん、今日は一番良いやつがいいな。思い出のやつ」

「え、思い出ってあれ?」

「うん、頼むよ」

「いいけど……」

 彼女は濡れた手をタオルで拭きながら、台所を後にした。まずは真向いの位置に設置されている時計を確認し、次にふすまがすっと閉じるのを目の端に捉えると、無人の居間を抜け、玄関前通路にある階段を上がって二階へ向かった。

「ほらー、もう四十五分よ、急ぎなさい」

 二階の廊下を進みつつ、一番手前にある部屋のドアをノックする。

「わかってるよ!」

 すぐに息子の語気の強い声が上がる。

「お姉ちゃんも急いで。せめて牛乳だけでも飲んでいきなさいね」

 彼女は次の部屋のドアもノックした。

「はーい」

 すぐに間延びした返事があった。

「返事はちゃんとなさい」

「はいってば! まったくもう……」

「それはこっちのセリフよ、まったくもう……」

 彼女はさらに奥へ進み、三つ目のドアのノブに手をかけた。

 そこは自分たちの寝室。

 左手にあるクローゼットの、フリータイプのドアについている金具に引っかけられていたスーツセットをまず外してから、ドアを左右一杯に開けた。

 クローゼットの中の、右側にかかっているいくつかのスーツセットの中から一着を抜き取り、いま持っているものと入れ替えた。

「ネクタイは……これには赤のストライプよね」

 ワイシャツやネクタイも別のものと交換し、ドアを閉め切ってから、また金具に引っかけた。

「思い出のスーツ……そっか、今日はこれで行くのね」

 紺に若干黒を混ぜたような色のスーツを眺め、そして撫でて、彼女は感慨に耽るような物言いをした。

 そのスーツは古いもので、どことなくくたびれている。

「先に言っておいてくれたら、ちゃんとアイロンをかけたのに……」

 手でしわを伸ばせないかと試すも、やはり駄目だった。

 諦めた彼女は、シーツなどが軽く乱れたベッドを直してから、寝室を後にした。

 出かける準備をしている音を聞きながら通路を進み、階段を、左右の手すりにしっかり掴まって、慎重に下りた。

「お父さん、思い出のスーツ、出しておきましたからね」

 居間に顔を覗かせるも、夫の姿は無かった。

「うん、ありがとう」

 声はトイレから聞こえた。

「お父さん、もうちょっとゆっくり食べないと、消化に悪いですよ」

 空いた食器を片付け、台所へ。

「すまんすまん。でも、いつも言ってるだろ、美味しいものは早く食べる主義だって」

 シンクに食器を置いたところで、トイレのほうから水の流れる音がし、ドアが開閉した。

 夫はその足で二階へ上がった。

 彼女はその気配に耳を傾けながら、娘のための牛乳を用意する。ついでに息子の分も。

 それらを食卓へ運ぶと、また台所へ戻って食器を洗い始めた。

 すると、二階のどこかのドアが開閉し、無遠慮な足音が下りてきた。

「牛乳だけでも飲んでいって、お願い」

 彼女は振り返ることなく言う。

「うん、わかった」

 息子は素直に従うと、ごくりごくりと喉を鳴らし、牛乳を一気に飲み干した。

「玄関にパンを置いてあるから、持っていって。お腹が空いたら食べなさい」

 彼女は、息子がどうせ朝食を食べないことを察していて、あらかじめ菓子パンを買って用意してあった。スティック状のパンで、中にチョコチップが練り込んである。

 息子はそれが好きだった。

「うん……」

 構われることが鬱陶しいのか、恥ずかしいのか、そのどちらとも取れる無愛想な返事をすると、息子は玄関に向かった。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます……母さん?」

「うん?」

「ごめんな、色々と……」

 息子は素早く靴を履き、床につま先を打ちつけながら玄関扉を開けた。そして今の一言を残し、足早に去っていった。

「……」

 ドアの閉まる音を聞いてから、彼女は動いた。無言のままに居間へ行き、空になったコップを取って、すぐにまた台所へ戻った。

 その矢先、また二階でドアの開く音がして、軽やかな足音が下りてきた。

「お姉ちゃん、牛乳」

「うん」

 息子に比べれば、娘の喉の音は小さく控えめだ。

「お姉ちゃん、あの子のこと、お願いね」

「……ハァー。うん、めんどくさいけど、ちゃんと見るよ。お姉ちゃんだもん」

「ごめんね」

 彼女は何故か悲しげに謝ると、そっと目を瞑った。

「……それは、こっちのセリフだし」

 すると、そんな声が耳元で囁いた。

 目を開けると、シンクに置いたコップが増えて二つになっていた。

「ところでさぁ、どっちかな?」

 背後から娘の声がした。

「なにが?」

 彼女は振り返ることなく、目の前のコップを取り、流水ですすいだ。

「弟か妹か」

「ああ。さぁ、まだわからないわよ」

「そっかぁ。弟はめんどくさいのがもういるし、妹がいいなぁ」

 娘は嬉しそうに言いながらその場を後にし、玄関へ向かった。

「じゃあ、行ってきます」

 娘もまた、床につま先を打ち付けながら玄関のドアを開ける。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

「だから、それはこっちのセリフだってば。お母さんも気をつけてね、ほんとに……」

 娘は心配そうな声を残し、去っていった。

「……うん、気をつけるよ」

 ドアが閉められ、足音が遠ざかり、そして途絶えるのを待ってから、彼女は返事をした。

「あ、なんだよー、皆もう行っちゃったのか」

 すると、狙い定めたかのように、タイミングよく二階のドアの開く音がして、夫の声がした。

 のっしのっしと、初老の足音が下りてくる。

「ちぇー、ちょっとぐらい待っててくれればいいのになー」

 足音は玄関に留まった。

「あれ、えーっと、一番良いのどこだー?」

 玄関のドアとは別の開閉音が、何度もする。

「あ、ごめんなさい、奥にしまってあるの」

 誕生日にプレゼントした靴を探しているのだと、彼女はすぐに察した。

「出しましょうか?」

「あー、いいよいいよ、自分で出すから」

「でも」

「いいってば」

「で、でも!」

「ダメだよ!」

「!」

「来ちゃダメだよ、絶対にダメだ! それだけは許さないよ」

「は、はい……」

 彼女は踏み出していた一歩を戻し、台所に留まった。

「……ごめんよ。本当にごめん」

 申し訳なさそうな声がして、靴を探す音や、ゆっくり丁寧に履く音がした。

 床につま先を打ち付ける音がしないままに、玄関のドアが開いた。

「行ってきます。あの子たちの面倒は任せてくれ。君は、その子のことを頼むよ」

「はい……」

「男の子か、女の子か、どっちだろうなぁ、楽しみだねぇ」

「はい……!」

「それじゃあね、お盆には帰ってくるから」

「はい、行ってらっしゃい……!」

 彼女がうわずった声を張り上げてまもなく、ドアは閉まり、革靴を履いた足音がゆっくりと遠ざかっていった。名残惜しいように、ゆっくりと。

 音が止むと、彼女は台所と居間を仕切る柱に寄りかかり、その場に崩れ落ちそうになる。だがなんとか堪え、壁やテーブルや椅子の背もたれと、各所に掴まりながら移動し、閉め切られたふすまを開けた。

 四畳の手狭な和室。

 その右手奥の角に置かれた、大きな仏壇の前には、座布団ではなく椅子が置かれていた。

 和室には似つかわしくないその椅子は、食卓で使われているものと同じものだ。

 彼女は、食卓の椅子が一つ減っていることにいま気づいた。父が置いてくれたのだと察し、目を潤ませる。

 あふれ出た涙を拭おうともせず、彼女はその椅子にそっと腰を下ろすと、目の前にある、三人分の写真立てと位牌を見つめた。

 息子に、娘に、夫の写真。

 彼女は震える手を伸ばしてライターを取り、蝋燭に火を点して、三本の線香をあげた。

「どうして? どうして、四十九日だけなの……? もっと長くてもいいじゃない……ずっと一緒に居てくれたって、いいじゃないの……音が聞こえるだけでもいいから……戻ってきてよ、ずっとそばにいて!」

 彼女はそう声を上げると、棒を取り、仏を呼ぶためにある金色のお鈴を、まるで怒りをぶつけるように、強めに打ち鳴らした。

 高く澄んだ音色が、美しくも儚いうねりが、異様なまでに静まり返った家中に響き渡る。だが、木霊にもならず、無残にも途絶えてしまった。

 帰らない家族に、酷な現実に、彼女は泣いた。

 泣きじゃくった。

 咽び泣いた。

 悲しそうに、寂しそうに、辛そうに。

 そんな彼女の胸の奥には、ある激しい欲求が芽生えていた。それはすでに言葉となり、形を成していて、彼女も理解をしていた。

 しかし、決して口に出してしまわぬよう、必死に押し留めていた。

 声にしてしまったが最後、それは現実のものとなり、容赦なく襲いかかってくる。

 そんな気がしてならなかったのだ。

「大丈夫……大丈夫……聞こえる、この子の音が聞こえるから、大丈夫……まだ、生きてゆける……大丈夫……」

 五か月、まだ目立たない程度のふくらみしかないお腹をそっと抱きしめて、彼女は耳を澄ました。

 小さな小さな生命の鼓動。

 誰の耳にも届かないその音を、母である彼女は、その心で確かに感じ取っていた。


【完】


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