目に涙がなければ魂に虹は見えない_試し読み

目に涙がなければ魂に虹は見えない 試し読み


この物語は、
人間を毛嫌いしている年老いたドラゴンと
奴隷として育てられた盲目の少年の
“奇跡の涙”をめぐるファンタジー小説です。


プロローグ「ドラゴン」
プロローグ「少年」
第一節
以上の三話分を

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目に涙がなければ魂に虹は見えない
著者・小野 大介


プロローグ「ドラゴン」

 昔々、一頭のドラゴンがいた。
 彼はとても強く、きわめて残忍。
 そしてなにより、誇り高きドラゴンであった……。


 

 いまから数百年も昔のことである。
 ドラゴンと人間が大きな戦争をした。
 悲劇の発端は、ドラゴンが流す涙にあった。

 “奇跡の涙”

 あらゆる傷を癒し、どんな難病も治す。それはまさに、奇跡と呼べる力を秘めていた。それを、人間は追い求めた。
 ドラゴンを狩り、捕らえ、拷問し、涙を搾取しようとした。
 だからこそ、戦争になった……。

 彼は、その戦争でもっとも勇壮なドラゴンだった。
 大きな二枚の翼を駆使して暴風を起こし、あらゆるものを根こそぎ吹き飛ばす。喉が焼けるのもかまわず灼熱の炎を噴き、いくつもの町を焦土に変えた。
 数多くの同胞を救ったが、それ以上に数多くの命も奪った。
 だが彼は、決して、英雄とは呼ばれなかった。
 結局は、人間を愛し、守り、人間のために戦って倒れたドラゴンが、英雄として崇められたのだ。
 それは彼の親友だった。
 この戦争がいかに無意味で不毛であったか、身をもって多くに伝えようとして、死んでいった……。
 親友の死は、彼が齎した。
 彼には理解できなかったのだ。人間を愛し、命まで捧げた親友のことが、どうしても理解できず、そして許せなかった。
 親友を葬ってから、彼はいっそう戦いに明け暮れた。
 ドラゴンを、単なる薬か道具としか思わない人間に、天罰にも等しい裁きを与えるため。ドラゴンの誇りを守り、骨身に沁みるまでの恐怖とともに、それを知らしめなければならなかった。
 百年……二百年……三百年……。
 彼はひたすら戦い続けた。人間が奇跡の涙を求めるかぎり、ずっと。
 いつの間にか仲間がどこにもいなくなり、独りきりになろうとも、ずっと……。

 そんなある日のことだった。
 高く、険しい山の頂を住処にしていた彼の前に、幼い少女が現れた。たった独りで。
 少女は言った。
「この命を差し上げます。ですから、どうか父のために、奇跡の涙をお譲り下さい!」
 少女はひざまずき、懇願した。
 ドラゴンは、そんな彼女の姿を、遥か高みから見下ろし、思った。
(馬鹿馬鹿しい……)
 やはり理解できない。
 奇跡の涙を求めて、これまで幾度となく人間はやってきた。いずれも、身のほどをわきまえずに戦いを挑み、屍の山に積まれる新たな骸となったのだ。
 この少女もまた、性懲りもなく、奇跡の涙をくれと言う。しかも、父親のために、自らの命を差し出すなどと口走っている。
(この人間の幼き娘は、頭がどうかしてしまったんじゃないか? 父親のために命を差し出す? 自分よりも長く生きてきた者の代わりに、まだろくに生きてもいない自らの命を捨てようというのか……? ……助かった父親はどう思う……喜ぶだろうか?それとも、娘を失って悲しむか? そうまでして……自分を犠牲にしてまで助けたい人の命とは、なんだ……?)
 ドラゴンが人間に思いをめぐらせたのは、これが初めてのことだった。
 彼が深く考え込んでいた間、少女は静かに返答を待っていた。が、いきなりその場にくずおれた。
 高き山ゆえ、頂上の空気はとても薄く、肺すら凍りつくほど冷たい。この極寒の地で、幼い少女の身体が耐えられるはずもなかった。
 少女のむきだしの顔や手足がみるみる色を失ってゆく。それを、彼は黙ってじっと見つめた。
 ここまで無事にたどり着けただけでも信じられない。あまりに無謀。愚かとしか言いようがない、と思った。
(……いままで私に戦いを挑んできた者たちも、この幼き娘のように、誰かのために命を捨てようとしたのか……?)
 ふと我に返ると、ドラゴンは自分でも気づかないうちに、少女の小さな身体を尻尾で抱えて、大空に羽ばたいていた。
 凍り始めていた少女の身体は、人間よりだいぶ高い彼の体温で溶けて温もりを取り戻し、死の淵から脱した。
 一直線に空を飛び、少女を家まで連れて行ってやった。家の前で地面にそっと下ろすと、別れ際に、大きな眼から一粒の涙を、ポトリ、と少女の小さな手の中に落とした。
 涙は空中で固まって結晶化し、彼女の両手には乗り切らないほどの大きな石となった。それは宝石のように美しい、無色透明な石だった。太陽の光を浴びて虹色に輝いているそれを見ながら、ドラゴンは少女に告げる。
「その中にある水を飲ませろ。そうすれば、おまえの父親は助かる」
 それだけを言い残し、ドラゴンは天空を目指して羽ばたいた。
 飛び去る影を見上げて、少女は喜びの涙を流しながら手を振り、何度も叫ぶ。
「ありがとう! ドラゴン様! ありがとう!」
 幼い人間は、石を、そのか細い腕でしっかりと抱いていた。

(……なぜだ、むしょうに腹が立つ……)

 翼を翻し、天高く舞い上がると、ドラゴンは遥か彼方へ飛んでいった。住処には帰らず、とにかく飛んで、飛んで、飛び続けた。ただただ、どこまでも……。
 飛んでいる間、彼は泣いていた。
 ポロポロ、ポロポロ、涙は止めどなく流れ落ちる。

 むしょうに腹が立つ。
 むしょうに悲しい。
 むしょうに淋しい。

 ドラゴンは、力のかぎり飛び続けた。何日も……何日も……何日も……。
 あてどなく、世界を何周もめぐる。
 風をきって飛ぶうちに、いつしか翼は疲れはて、ついに力尽きた。
 気がつくと、彼は地面に落ちていた。
 そこは大木ばかりの世界だった。樹海である。彼が不時着したのは、その奥の奥だ。
 巨体を有する彼でさえ驚き、思わず見上げてしまうほど大きな大きな木の根元にいた。その巨木は、山よりも高く、塔のように聳え立ち、天空に真っ直ぐ突き刺さっている。
 その光景を目の当たりにしたとき、彼は思い知った。
(自分はなんとちっぽけな存在だったのか……情けない……)

 ドラゴンは、なぜだかここが気に入った。
 空気は澄み、清潔な水がある。食べ物にも事欠かない。樹海は広大で険しく、あらゆる危険がそこかしこに潜んでいる。獣、鳥、植物、昆虫の他、見たこともない生き物がウジャウジャしているに違いない。
 ……もっとも、他ならぬ彼が、どんな生き物よりも一番強くて危険なのだが。
 彼は、ここを新たな住処に決めた。
(ここならば、人間に出会わなくて済む……煩わしく、理解の及ばぬあやつらに、もう悩まされることもないだろう……)
 決して襲われず、何者も傷つけず、ただ静かに暮らせて、やがて死がおとずれるそのときを、ここでならば待てる気がした。それが、この場所を選んだ理由のすべてだった。
 ドラゴンは巨木の根元に横たわると、まるで根付いたように動かなくなった。
 ずっと。じっと。
 空腹になったら尻尾を伸ばし、果実が生っている木の枝ごとむしり取って飢えをしのぐ。果実がなくなれば木を食らい、木もなくなれば、目についたそばから岩を食らった。それすらも食い尽くすと、生え変わるために抜け落ちた、鋼鉄にも等しい自分の鱗を、拾って食って腹を満たす。時々、ふらりと迷い込んでくる動物は、たまのごちそうとして遠慮なくいただいた。
 喉が渇くと、彼は尻尾だけを引きずって動かし、巨木の真下に湧き出ている池に浸して、先端にある毛を十分に濡らした。巨木の根から染み出しているこの水はすこぶる美味だった。樹液なのか、朝露なのか、どちらにしろまさに甘露なその水は、涸れることがない。それを口元に持ってきて、したたる水分を吸い、渇きを癒した。
 そうして、何年も……何十年も……何百年も……時を過ごした。
 知らぬ間に、生まれてから千年目となる朝を迎えていた。
 長年微動だにしなかったドラゴンの四肢は凝り固まって、まるで石か鉛のようになっている。身体には苔まで生えた。しばらく動かさなかった場所にそれは密集し、比較的よく動かしていた頭や首、尻尾には少ない。
 近頃あまり物を食わず、水ばかり飲んでいたためにすっかり痩せ細って、見るかげもなく老いていた。
 自分が千年もの歳月を生きてきたことに気づいていない。……いなかったが、命の灯火が尽きる日が、もう近いことはわかっていた。
「もうすぐだ……もうすぐ、死がやってくる。やっと死ねる……ようやく天寿をまっとうできる……」
 ドラゴンは、毎日そう呟いていた。

 そんなある日のことだ。ドラゴンの前に、一人の少年が現れた。
 人間を久しぶりに見て、思わず目を丸くした。
 死を前にして幻でも見ているのかと、正気を疑った。
 ここは樹海の奥も奥、人間がおいそれと近づける場所ではない。それなのに、いま目の前にいる少年は、一体全体どこからやってきたというのか。
 ドラゴンは言葉を失くし、近づいてくる少年に、ただ見入った。
 すると、あることに気づいた。
 少年は目を閉じたまま、両手を突き出し、周囲を探るようにして歩いている。
 ドラゴンは察した。この少年は盲目に違いない、と。
「み、水……水……」
 少年はおぼつかない足取りながら、少しずつ着実に、ドラゴンのほうへ前進する。どうやら、巨木の根元にある池を目指している様子。目が見えないはずなのに、なぜか迷いなく進んでゆく。
 かなりの時間を要したが、見事にたどり着いた。池のほとりにしゃがみ込み、なにかに取り憑かれたように、夢中で水をすくって飲んでいる。
 そんな少年の姿を見つめ、ドラゴンは思う。
(こいつは目が見えない。つまり、私の姿が見えてない。どうやら、私を……涙を求めてやってきたわけではないようだ。まだ子供ではないか。放っておけば、きっとすぐに死ぬだろう。そうすれば、煩わされることもない。自分がへたに動かなければいいのだ。干渉せず、勝手に死ぬのを待てばいい……。私のことを知れば、どうせ、いつぞやの人間どものように、こいつも涙を求めるに違いない……もうウンザリだ! 邪魔をするな、私は静かに死にたいのだ! ………………しかし――)
 ドラゴンは、少年のことを無視しようと思った。そう心に決めたはずだった。
 ……なのに、どうしても気になる。
 気になってたまらなくなり、だから、つい……本当につい、気まぐれに話しかけてしまった。

「――おい、小僧」


プロローグ「少年」

 少年がいた。
 彼は真っ暗な世界を彷徨っている。
 もうずっと長い間、闇の中に閉じ込められていた……。



 少年がいまより幼かった頃、祖国で戦争が起きた。それは国同士の諍いで、巻き添えを恐れた国民のほとんどが、安全な場所を求めて国外への脱出をはかった。
 彼やその両親もまた、生まれ育った我が家と国を捨てたのだ……。

 避難民が長い長い列をなし、国境を越えようとしたとき、待ち構えていた盗賊の一団が突如立ちはだかった。
 盗賊にしてみれば、これほどおいしい話はない。皆が皆、必死にかき集めた全財産を抱えて、おめおめと目の前にやってくるのだ。狙わずにいられようか。
 盗賊の急襲に遭い、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。
 我先にと他人を押しのけ、突き飛ばしてでも自分だけ助かろうとする者がいれば、どんなことがあっても財産だけは守ろうと、盗賊にはむかう者もいた。家族を守って応戦する者も、早々に命ごいして降伏する者もいた。隙を見て無事に逃げおおせた者もいれば、安全圏にたどり着けないまま、あえなく命を落とす者もいた。逃げる途中で盗賊に捕らえられた者もいた。少年は、その一人だった……。
 驚き、恐れ、混乱して本能のままに逃げまどう人々は、手のつけられない暴れ馬のようだった。怯える暴徒の群れという荒波が、いたいけな少年を両親から引き離してしまった。
 見知った大人とはぐれ、うずくまって震えていた幼い彼に手を差し伸べたのは、他でもない盗賊だった。無論、救いの手であるわけがない。若い女や子供は売り物になる。だから少年は、金もうけのために身柄を拘束されただけだった。
 大量の水や食料、金品などとともに、彼という人間の尊厳も、モノ同然に略奪されてしまったのだ……。

 盗賊は、捕らえた者たちを、ある人物にまとめて売りさばいた。
 奴隷商人である。
 売られた人々は、盗賊のアジトの外に停められていた馬車の荷台に押し込まれて、そのままどこかへ運ばれた。
 それから数日後――
 どことも知れない屋敷に連れて来られた彼らを待っていたものは、奴隷になったことを骨の髄から悟らされる恐ろしい洗礼だった。
 窓がなく、床、壁、天井と四方八方が冷たい石で囲まれた薄暗い地下室に、怒号と悲鳴が飛び交う。罵声をあびせるのは奴隷商人たち。金切り声を上げるのは、奴隷として連れて来られたうちの一人だ。他の者たちは部屋の隅にへばりつくように固まり、身を縮めて息をひそめ、震えながらそれを見ている。彼らの姿はまるで断末魔の小動物。たとえばネズミとかに似ていた。
 奴隷たちの目は、恐怖で大きく見開かれ、部屋の中央に注がれていた。そこには台座があり、一人の男が仰向けに寝かされている。男は木片に布を巻きつけたさるぐつわを嚙まされ、暴れる両手足を押さえつけられていた。
男はもがき、声が嗄れるほど叫ぶ。そして、目の前に立つ奴隷商人の手の先を、力のかぎり睨んでいる。
 奴隷商人が、突然口が裂けたかと思うほど口角を上げて、悪魔のように邪悪な笑みを浮かべ、片手を高々と上げた。手の先にあるそれは赤く燃えていて、ジリジリと音をたて、きな臭い白煙を上げている。奴隷の男の血走った目から、赤い涙が一滴こぼれた。そのとき、奴隷商人が男のほうへ足を踏み出した。
 一歩、二歩、三歩と、ゆっくり歩み寄る……歩み寄る……歩み寄る……。
 奴隷たちは顔を背けて目をつぶり、耳を塞いで息を殺す。
 次の瞬間、絶叫が上がった。
 同時に、なんとも嫌な臭いがたちこめる。肉を焼いて焦がしたような、饐えた忌まわしい臭い……。
 奴隷たちが恐る恐る顔を上げたとき、気を失ってぐったりした男が、奴隷商人たちによって台座から下ろされていた。地下室から引きずり出される男の両目は開いていたが、そこに瞳はなかった……。
 部屋の隅に固まる奴隷の中から、今度は女性が引っ張り出された。衣服を剝ぎとられて裸にされると、台座に無理やり乗せられ、うつ伏せで押さえつけられる。彼女は見目麗しい女性だった。だが、狂ったように泣きじゃくっているため、美貌は見る影もない。
 奴隷商人が、火かき棒のような鉄棒を握った。燃え盛る炉にそれを突っ込み、中ほどから先端にかけて赤くなるまでじっくり熱する。棒の先端には、丸とバツの形が組み合わさった模様のような細工がついている。
 奴隷商人は、やがて炎から棒を取り出し、台座に歩み寄ると、ためらいなくそれを女性の右の肩胛骨の下辺りに押しつけた。ジュウ、という音がして白煙が上がる。屠殺される家畜のような、苦しげな唸り声が漏れる。彼女は歯も折れんばかりにさるぐつわを嚙みしめて、必死に耐えている。
 奴隷商人はすぐに火かき棒を上げ、燃え盛っている炉に再び突っ込む。女性の白い背中には、丸とバツを合わせた模様が赤黒く刻まれ、みみず腫れのように浮き上がった。
 彼女もまたすぐに台座から下ろされる。気を失ってはいないが、自力で立つことはできず、乱暴に引きずられていく。
 また一人、台座に乗せられた……。

 焼き鏝と、焼き印。
 この二つの拷問は古来より、奴隷として連れて来られた者たちの避けられない洗礼とされる。
 焼き鏝は奴隷の目を潰すためのもので、焼き印は奴隷の証。
 どちらを授けられるかは、人によって異なる。焼き印は、主に見目麗しい女性など、目を焼いてしまうには惜しい者たちにほどこされる。大半の奴隷は、焼き鏝によって目を焼かれ、潰される。こうして塞がれた目は、二度と開くことはない……。
 焼き印はともかく、奴隷の目を焼くのはなぜか。それにはいくつか理由がある。

 一つ、視界を奪い、同時に自由を奪い、自分が奴隷なのだと自覚させるため。
 一つ、恐怖を与え、反抗心をそぐため。
 一つ、逃げようなどという気を起こさせないため。
 一つ、命じられた仕事だけに集中させるため。

 目を見えなくしてしまえば、手枷足枷、鎖などで奴隷を縛らずとも、みすみす逃がす心配がない。目が見えなくても、教え込んで訓練すれば仕事はできるから、さして支障はないのだ。

 大人の奴隷たちが順番に洗礼を受けていたとき、少年は別の部屋に押し込められていた。他に十数人ばかり子供がいたが、彼が一番幼い。
 どこからともなく聞こえてくる悲鳴に怯えていると、数人の大人がやってきて、一同に一杯の椀を差し出した。中には乳白色の液体が入っている。ミルクのようだが、それほど濃くはないように見えた。
 大人たちは、それを飲めと言った。だが、年かさの少年たちは反抗して、誰も素直に従おうとしない。
 彼も、飲もうとはしなかった。戸惑ったのだ。わけもわからぬまま見知らぬ場所に連れて来られて、とにかく不安だった。両親の姿はどこにもないし、怖いし、空腹で、喉も渇いたし、混乱して泣きたいだけだ。
 大人たちは苛立ち、声を荒らげて飲むようにと脅した。彼は手と頭を摑まれ、口をこじ開けられ、それを無理やり飲まされた。
 すると、身体に異変が起きた。
 震える。痺れる。立っていられなくなり、怖くなって何か言おうとしたが、ろれつが回らない。
 突然、目の前が真っ暗になった。
 そのときから、少年は闇の中を彷徨い始めた……。

 その後の数年間で、少年は奴隷として生きる術を叩き込まれた。
 幸か不幸か、幼かった彼への扱いは、他の奴隷に比べると幾分かマシであったろう。まだ幼かったがゆえに、何事にも決して逆らわず、素直に従ったから、不当な暴力を受けずに済んでいた。
 だが、彼は意外にも、最後まで売れ残った。幼く素直で、見た目も良かったのだが、だからこそ、奴隷商人が高値で売りつけようとしたのが災いして、誰も手を出さなかったのだ。いかに従順で可愛らしくとも、男の子では、女の十分の一ほどの価値もない。
 目を潰されずに済んだ見目麗しい女性たちは、連れて来られてまもなく売られた。彼以外の奴隷も、年齢の高い者や、この境遇に早く順応した者から売られていく。
 彼がようやく売れたのは、あれから数年が経ち、十歳になった年のことだった。彼を買ったのは、どこぞの国の豪商だ。見目麗しい女性たちと一揃いで、いわばオマケとして売られたのだが、もちろん奴隷商人が損をするほどの安値ではなかった。
 女性たちは、新しい主人とともに馬車へ乗せられた。少年だけは、後ろの荷台で他の荷物と一緒に運ばれた……。

 走り出して数時間が経った頃、馬車が急停止した。
「――金と荷物と女を寄こしなぁっ! ああ、ついでにそのタケェ服もだ!」
 馬車の行く手を盗賊団が塞ぎ、荒々しい声を上げている。
 少年は事情を察し、荷台で必死に身を潜めてガタガタ震えていた。
「――ああん? なんだこいつ?」
 ふいに、すぐそばで声がした。少年は、びくりとする。
 なんとも汗臭い、不潔な臭いが鼻を衝いた。
 荷台から略奪品を下ろそうとした盗賊に見つかったのだった。
「かしらぁ~! 荷台にガキが乗ってますぜぇ? 奴隷みたいだけど、こいつも連れて行くんですかい?」
 少年は誰かに手を掴まれて、引っ張り下ろされる。
 彼はそのままどこかへ連れて行かれると、強く顎を掴まれて、無理やり顔を上げさせられた。その指は骨ばっていて、長いギザギザの爪の先が肌に食い込んで痛かった。
「ああん? ……バーカッ! こいつ、男じゃねぇか! こんなもん、売れやしねぇよ。たとえ売れたってタカが知れてる。手数料のほうが高くついちまうぜ!」
「えっと、じゃあ、どうするんです? やっちまいますか?」
 少年の頰がチクリとした。盗賊の手下が短剣を抜き、鋭い切っ先を突きつけたのだ。
「ダメだ! 俺はな、女、子供は絶対に殺さねぇのが信条なんだ、何度も言っただろう!? そいつは捨てておきゃあいい。目が見えないんだろ、勝手に野たれ死ぬさ」
「へ~い」
 手下は素直に言い、ずっと掴んでいた少年の腕を離した。そのとき、つい力が余って突き飛ばしてしまい、少年はひっくり返って後ろの崖を転げ落ちていく。
「あっ、しまった! やっちまった!」
「この馬鹿っ!」
 かしらは拳で手下の頭をぶん殴った。
「ギャッ! いてぇ~っ!」
 手下は頭を押さえてうずくまる。
「チィッ! 俺の信条に反することをしやがって……!」
 かしらはひどく苛立ち、何度も舌打ちした。
「す、すんません……」
「ええい、胸糞悪い。もういい! さっさと連れて行け! ――おっと、そのオヤジは殺すなよ。そいつは大事な金づるなんだからな!」
「へっ、へい!」
 手下はすぐさま駆け出すと、衣服を剝がれて半裸の豪商の尻を派手に蹴飛ばし、女性たちの後を追わせた。
「ひぃい……!」
 蹴られたとき、豪商は情けない声を漏らした。豪商が尻を押さえてよろよろと歩き出す姿を略奪された女性たちは横目にうかがい、ほくそ笑んだ。
「ペッ! なんて冷たい目だよ……! ゾッとするぜ、ああ嫌なもん見ちまった……。いっそ、目を焼かれてなにも見えない奴のほうが幸せかもな。あんな汚らしいものを見なくて済むんだからよ……」
 かしらは地面にツバと悪態を吐き捨てると、少年が転がっていった崖の下を覗き込んで、大声を上げた。
「おーい、ガキィ! 死ぬんなら、飢えか、獣にでも襲われて死にな! ……それなら、俺が殺したことにはならねぇからよ」
 かしらはふいに声を落とす。
「……まあ、いまので死んでなくても、いずれ、おっ死んじまうことにはなるがな。なんせ、あっちは樹海なんだからよ」
 おもむろに目を上げた視線の先は、どこまでも続く広大な森。そこに生えているのは、いずれも樹齢千年をかるく超えそうな大木ばかりだ。だが、そのずっと向こうには、それらの大木が雑草かと思われるほどの巨木が一本、天空を貫く険しい尖塔のように突き出ている。その先端はいつでも雲に隠れていて、どんなに目を凝らしても見つけられない。うっそうとした森の奥にありながら、その威容には誰もが目をみはらずにはおれない巨木だった。
「――かしらぁ~! 来ないんですかい!?」
 ふいに、なんとも間の抜けた声がする。
「やかましい! 行くに決まってるだろうが!」
 盗賊のかしらは手下を追いかけて、ドタバタと去っていった。

 怒鳴り声や会話や物音を、崖の遥か下にいる少年は、その耳でしっかと聞いていた。
(……樹海?)
 少年は心の中で呟き、首をかしげてから、自分の身体の下にある何か弾力のあるものを触って確かめてみる。
 サラサラとした手触りがするが、見えないのでなんだかわからない。
 実をいうと、それは巨大な花だった。桃色の、丸い形をした花びらが五枚ついている。少年が崖から落ちたとき、ちょうど真下にその花はあり、それが落下の衝撃を吸収してくれたおかげで無事だったのだ。
 触ったり、弾力を確かめるために軽く揺れたり跳ねたりしていると、花びらが突然、ひとりでに閉じた。
 閉じ込められた少年は、急に辺りが狭くなって驚き、慌ててもがく。
 すると、尻の下からなにかが浸み出してくる。液体が、あっという間に辺りに満ちた。
「ガボッ、ゴボボッ!?」
 息ができない。このままだと溺れてしまう。彼は大量の泡を吐き出しながら、出口を探して必死に暴れた。
 そのとたん、すぼんでいた花が大きく膨らみ、中を満たしていた液体ごと、少年をぷっと吐き出した。
 突然の浮遊感に驚く間もなく、少年は宙を舞う。緩やかな放物線を描いて、べしゃりと地面に叩きつけられた。
「うぅ……!」
 少年は背中から勢いよく地面に落ちた。衝撃と痛みで呻きながら、彼は打った背中を押さえて上体を起こす。幸い、地面にはフサフサとした緑色の苔が絨毯のようにビッシリ生えていて、うまい具合に衝撃を吸収してくれた。とはいえ、痛いものは痛い。彼は、溜め息を吐いた。
 ずぶ濡れだし、なんだかベタベタしている。それに、
「臭い……」
 すごく臭うのだ。
 香水のような甘ったるく濃厚な匂いがする。いい匂いも、過ぎればもはや悪臭である。
 少年は臭いを嗅がぬように口だけで息をしながら、また一つ溜め息を吐くと、そこに手をついていったん四つん這いになり、立ち上がろうとした。――だが、手足がすべって突っ伏し、ぬめった地面に額をぶつけてしまった。
 少年は、とにかくこのヌメヌメから離れるべきだと思った。そろそろと這うようにして乾いた地面まで進むと、そこで改めて立ち上がる。
 大抵の人間ならば、まずここで辺りを見回すところだろう。だが、彼は目が見えない。よって、両手を突き出して左右に動かし、まるで泳ぐように辺りを探りながら歩き出した。ヨタヨタとしたおぼつかない足取りで一歩一歩慎重に進むため、その歩みは非常に遅い。
(ここは樹海……なんだから、木がたくさん生えているはず……)
 手先に気をとられるあまり、少年は地面から盛り上がっている根に気づかず、足を引っかけてつんのめってしまった。咄嗟に手をついて受け身をとることができずに、またもや顔から地面に突っ込んで倒れ、今度は鼻をぶつけた。
「痛ぅ……」
 眉間にしわを寄せ、鼻を押さえてうずくまり、じっと痛みに耐える。
 そんな彼に、上空から大きな影が迫っていた。
 それは羽音を響かせて少年の頭上に現れ、鋭いカギヅメで彼の背中をむんずと掴むと、空高く舞い上がった。
「なっ、えっ!?」
 少年は慌ててもがくが、目の見えない彼にはどうしようもない。
(鳥……かな?)
 手足で探っても地面がなく、浮遊感がある。風と、羽ばたく音も聞こえている。
 その鳥はきっと、とても大きい。自分を抱えて飛んでいるのだから。
(食べられるかも……でも、それだったらもう、ダメか……もしかして、ボクは雛のエサとか……?)
 もし、ここで落ちたら――。
 少年はぞっとして、暴れるのをやめた。
 鳥は森のずっと上を猛スピードで飛んでいく。もう少し飛べば巨木にたどり着くというところで急旋回し、頭から斜め下へ突っ込んでいくように高度を下げると、カギヅメを開いて少年を離した。
 空中で放り出され、天と地が逆さまになったのがわかったとき、初めて悲鳴を上げた。
(地面に叩きつけられる!)
 思わず目をつぶる。――と、身体がなにか柔らかく弾力あるものに当たって跳ねた。
(これって……さっきと同じの……?)
 少年は自分の下にあるものを触った。感触がそっくりなので、てっきり、同じものだと思ってしまった。
 確かに桃色の花だが、実はそれは微妙に違うものだった。色や大きさ、感触などはほぼ同じだが、花びらの数が五枚ではなく、四枚しかないのだ。
 彼が桃色の花の上でもぞもぞしていると、またも、開いていた四枚の花びらがひとりでに閉じた。彼はハッと気づいて、慌てて大きく息を吸って肺に空気をためた。
 案の定、尻の下から液体が染み出てくる。辺りに満ちていく液体に首まで浸かった彼は、両手で口を押さえて息を止め、次に起こることを予期して身構えた。
 息ができなくなって、じきに妙な浮遊感がして、地面に叩きつけられるはず。
 ……けれど、なにも起こらない。
(あれ……?)
 少年が不思議がっているとき、つぼみの口が少し開いて、釣り鐘のような形になった。中は琥珀色の液体で満たされていて、少年はそこでぷかぷか浮いている。
 彼は液体から首を出して息をつき、ひとまず安堵した。そこに、大きな羽音とともに先ほどの鳥が現れて、花のそばに降り立った。
巨大な鳥は、ちっぽけな少年を一瞬見下ろすと、その鋭くて長いクチバシでくわえ、つぼみの中からつまみ出して、ペッと捨ててしまった。
 またもや浮遊感。そして、地面にべしゃり……。
(や、やっぱり……)
 少年は顔を押さえて痛がっている。そのとき鳥は、クチバシをつぼみに刺し込んで、うまそうに液体を吸っていたのだが、もちろんそれは彼には見えていない。
(うぇ、甘い……)
 少し口の中に入ってしまった液体を、少年は急いで吐き出して、顔をしかめた。これは甘すぎるし、ひょっとしたら毒があるかもしれない。
 少年が花の蜜の、濃厚な甘さとベタベタに悩まされている間に、鳥はそれを余すところなく吸い尽くしてすぐに飛び立ち、大空の彼方へ飛び去っていった。
 鳥が遠ざかったのを音や気配で察し、戸惑う。
(なんだったの……?)
 鳥のお目当ては少年ではなくて、花の蜜だったのだが、彼にはそれがわからない。
 あの鳥は、花の蜜を主食とする種類のもので、その食事方法が独特だ。頭が良く、どうすれば蜜を得られるか知っており、独自の方法を使っているのだ。
 例の大きな花は二種類存在する。一つは花びらが五枚のもの。もう一つは花びらが四枚。この花はおしべとめしべが単体で存在し、前者がおしべで、後者がめしべなのだ。他の植物と同様に、雌雄が受粉することで子孫を残すのだが、それを先ほどの鳥が助けてやっている。
 鳥は花の蜜を得るために、誤っておしべに落ちて花粉にまみれた石や昆虫や動物を捕まえて、遠く離れためしべまで運んでやる。すると、めしべはおしべと同じように花の蜜を出して、受粉する。鳥はその際に出た花の蜜を、褒美としていただくというわけである。
 つまり少年は、おしべとめしべに花の蜜を出させ、受粉させるための大事な二役を担わされたのだ。鳥は、彼を利用するだけ利用し、蜜にありついて、飛び去っていったのだ。
 少年は呆然としながらも、鳥が自分を食べる気はなかったようだとわかって、ひと安心した。わけがわからないが、なにか考えたところで答えが見つかるはずもない。彼は思案をやめ、おもむろに立ち上がり、歩き出した。――が、花の蜜でぬめった地面に足を取られて、いつぞやのように地面に突っ伏す。またも這ってその場を離れたあと、また立ち上がり、手を伸ばして探り探り、恐る恐る進んだ。
 少し進むと木に当たり、それを避けてまた少し進むと、またまた木につき当たる。樹海なのだから、当然、周りは木ばかり。目が見えなくても、自分がいま、大木に囲まれていることは理解できた。地面から木の根が縦横無尽に突き出ていることも。
 光を失ったことで、五感――いや、視覚を除いた四感は研ぎ澄まされて、想像力も記憶力も逞しくなった。おかげで、一度聞いたり触ったり、気配を感じさえすれば、自分の周りがどうなっているのか、まさに手に取るようにわかる。
 奴隷だった頃、この能力は重宝した。部屋の間取りや、家具の配置、廊下の長さや、扉の位置など、誰かが故意に変えなければ、決して間違えはしなかった。……しかし、それは所詮、屋敷という狭い空間でのみ通用するもので、未知の広い世界に出されれば――しかも、数え切れないほど多くの木が生えた樹海では、ほとんど無力に等しかった。
 少年はいま、それを嫌というほど痛感している。
 身体中にまとわりついている甘い花の蜜のせいで嗅覚が麻痺していて、周辺から漂ってくる様々な匂いを嗅ぎ分けることもままならない。
 聴覚も役に立たない。屋敷と違って足音が反響せず、話し声もしないからだ。聞こえるのは風の音と、その風に吹かれて揺れる無数の葉っぱのこすれる音、虫の声と鳥のさえずりばかりだった。時には、得体の知れない生き物の遠吠えが聞こえる。
 もはや、五感はないに等しい。独自の方向感覚に従って進んでいたつもりだったのに、頭の中で思い描いていた地図が突然、ふっと消失してしまって、いまどこにいるのかさえわからない……。
(無理だよ、こんなの……わかるわけないよ……)
 目の前にある大木に触って寄りかかり、うなだれ、大きな溜め息を吐いた。
(ここで、死ぬのかなぁ……)

 ガサガサッ!

 ふいに音がして、少年はびくりと肩をすくめた。
 気配を感じる……なにかいる……徐々に近づいてくる……。
 首を振り、耳を澄まして辺りをうかがうと、大木に背中を押しつけて、ずりずりとその場にしゃがんだ。

 グルルッ!

 まただ。唸り声のようなそれは、さっきよりも近づいて、すぐそばから聞こえてくる。少年は震えながら、その身を固くこわばらせる。
 このとき、辺りには数頭の狼がいて、少年をぐるりと囲んでいた。
 少年は、危ない気配こそ感じていたが、それが狼だとは気づいていない。

 グガァウッ!

 一頭が威嚇するように吠えながら近づいてきて、しきりに鼻を鳴らし、少年の身体を嗅ぎまわる。
 少年の顔に、唸る狼の荒い息が触れる。
(も、もうダメだ……!)
 身体から力が抜け、少年はうずくまる。
 そのとき、少年に鼻を近づけていた狼が、急に、フンッ、とそれを鳴らしてそっぽを向き、仲間を従えていずこへと去っていった……。
(……?)
 すぐそばまで迫っていたなにものかが、なぜか遠ざかっていったことに気づき、困惑。
(また食べられずに済んだけど、どうして……?)
 疑問を抱きつつも、ホッと胸を撫でおろす。
とたんに力が抜けて、グッタリと大木に背中を押しつけ、震える唇を噛みしめた。やがて、うなだれて膝の間に顔を埋め、それきり動けない。
(もう、いやだ……!)
 腕を伸ばし、自分で自分を抱きしめる。
(お腹空いた……喉渇いた……もう……もういっそ、死んでしまいたい……でも、死にたくない……怖い……痛いのは嫌だ……苦しいのも嫌……嫌っ! やっぱり、生きたいよぉ……生きていたい……でも、なにも見えないのに、生きていたって……でも……でも……)
 しばらくの間、ずっとそうして震えていたが、いつの間にか眠ってしまった。
 何時間も。

 ……ピチョーン……。

(………………水? ――いまの、水の音だ!)
 少年は飛び起き、四つん這いになって息を殺し、耳を澄ませる。
 すると、

 ピチョーン……。

 また音がした。今度は前よりはっきり聞こえる。
 少年は音がしたほうへ這い進む。途中で立ち上がり、駆け出した。
 何度も根に足を取られて転び、大木にぶつかったが、諦めない。すぐに起き上がって、真っ暗な闇の中を小走りする。
 すると、ふいにどこにもぶつからなくなった。足を取られて転ばされることもない。
 不思議に思って速度を緩め、手を伸ばして辺りを探りながら歩く。
 ところが、手にはなにも当たらず、探ることができなかった。深い森の中だったいままでとは違う。おそらくはぽっかりと空いた場所に出たのだと、悟った。
 少年にとって、手探りできるもののない空間は、逆に恐ろしかった。
「み、水……水……」
 少年は恐怖を押し殺しまた一歩ずつ、音に向かって前進する。
 行く先には、池があった。目が見えないにもかかわらず、勘で、池のある方向や位置を正確に捉えていた。
 池のほとりに着くと、うずくまり、這うようにして辺りを探る。掌が池の畔を探し当て、指先が水面をかすった。
「水……!? 水だ、やっぱりあったんだ……!」
 つい興奮し、すっとんきょうな声を上げた。
 両手で池の水をすくい、鼻先にかかげて、まずは匂いを嗅ぐ。それから、少し口に含んで、舌の上で転がして味を確かめる。
(……うん、問題ない。これは飲める!)
 それから、夢中で水をすくい、口から喉の奥へ流し込み、ごくりと飲んだ。すぐにまた水をすくい、飲み込む。それを何度も何度も繰り返し、これ以上は一口も入らないと思うまで飲み続けた。それはもう、なにかに取り憑かれたように……。
「――ひぐっ、ふえええぇぇぇ~~……」
 飲み終えたとたん、情けない声を上げて泣き始めた。池のほとりにへたり込んで、おいおいと泣き続ける。
 なぜ泣くのだろう――?
 水が飲めて嬉しいから――?
 こんなに辛い目に遭ったせいで泣いているの――?
 泣くほど怖かったから――?
 それは自身にもわからない。泣いたって、この光を失った目からは、涙なんか一滴も流れるはずがないのに。泣いたところで、誰も助けに来てはくれない。まったく、なんの意味もないのに……。
 それなのに、どうしても、嗚咽を止めることができなかった。

 ギョロリとした大きな目が、泣きじゃくる少年をじっと見つめていた。彼が池を探して彷徨っていたときから、ずっと。
 一部始終を見届けていたその眼球は、少年の身長よりも若干大きい。
 それは一度だけ、ゆっくりとまばたきをした。
「――おい、小僧」
 しわがれた声が聞こえた。
 ふいに声が聞こえたものだから、少年はびくりとし、泣くのをやめた。
 辺りを見回し、気配を探り、息を呑み、一呼吸置いてから問い返す。
「……だ、誰!?」
 少年は、声がしたほうへ身体ごと向いた。その方向に巨大なドラゴンがいるとも知らずに。
 閉じ切った目の先に、ぎらりと光る二つの大きな目があった。
 少年とドラゴンは、奇しくも、真正面から目を合わせていた。

 ここから、ようやく物語が始まる。


第一節

「誰、だと……?」
 ドラゴンはいぶかしむように目を細めた。
「フッ、それは私のセリフだよ。おまえこそ誰だ? ここは私の縄張りだ。勝手に入ってきておいて、無礼な奴だな」
 ドラゴンは、少年を睨んだ。……だが、彼の目が見えないことを思い出し、目を逸らす。
「えっ、ご、ごめんなさい……」
 少年は、返事があったことにまず驚き、その厳格な口調にひるんで姿勢を正した。
「で、おまえは誰だ? 名乗れ」
「名前、ですか……? あうう……」
 少年は口ごもり、うつむく。
「どうした? なぜ答えん? ……得体の知れぬ者には教えられんか?」
 ドラゴンは凄んだ。
「い、いえ! そうじゃ、なくて……」
 少年は慌てて顔を上げたものの、またすぐにうつむく。
(どうしよう……)
 少年は眉根を寄せ、困った顔をしている。
「……それとも、答えたくとも答えられんか? たとえば、名乗る名前がないとか?」
 図星だった少年は黙ったまま頷いた。
「……そうか、おまえも名前を持たんのか」
 ドラゴンはポツリと言った。
「……おまえも? では、あなたも、なんですか……?」
 少年は顔を上げ、声のする方向を見つめてたずねる。
「ああ、私もだ。名前はない……で、名もなき小僧よ、おまえはどうして、こんなところにいるのだ?」
「あ、えーっと……その、盗賊に襲われて……それで、崖から落とされて……」
 ふいの問いに少年は少し慌て、思い出しながら答える。
「盗賊? 崖から落とされた……?」
「は、はい」
「……おまえ、ここがどこだかわかっているのか?」
「え? ……樹海、ですか?」
 少年は自信なさげに答える。
「そうだ、ここは樹海だ。しかも、もっとも奥に存在する巨木の根元なのだ。おまえのような子供がたやすくたどり着けるようなところではない。嘘をつくな……!」
 ドラゴンは語気を強めた。
「えっ、う、嘘じゃないです……!」
 少年はうろたえて、かぶりを大きく振った。
「ここには、おまえたち人間が恐れる危険な生き物がウジャウジャいる。おまえが独りでここまで無事にたどり着けたとは、到底思えん。どんな幸運の持ち主だ……貴様、この私を謀るつもりか? 侮れん奴だ。子供とはいえ、やはり人間は恐ろしい……」
 ドラゴンはぶつぶつ言う。
(なにを言っても無駄みたい……)
疑われているようだから、これ以上逆らわないほうがいいと思い、少年は口をつぐんだ。
(……あれ? そういえば、この人こそ、どうしてそんな危険なところにいるんだろう?)
 少年はふと疑問を抱いたが、感情が顔に出ぬよう努めた。そんな彼の様子を、ドラゴンはじっとうかがっている。
(なにを考えているのかわからん奴だ……こういうのが一番危険なんだ……)
 ドラゴンはいっそう警戒を強める。
「おい、おまえのその目はどうした?ずっと閉じているが、見えんのか?」
 すでにわかっていることだが、一応たずねてみる。
「あ、これは……はい、見えません。毒を、飲まされて……」
 少年は一度だけ、ゆっくり目を開けてみせる。薄くしか開かないまぶたの隙間から、うっすら覗けた彼の瞳には色がなかった。火を通した魚の目玉のように真っ白だった。
「……そうか、おまえは奴隷だったのだな。それで、名前がない……ん? だが、奴隷として生まれてきたわけではあるまい? なのに、なぜ、名前がないんだ?」
「多分、あったとは思いますが、憶えてません。小さかったので……」
「なるほど。そうか、奴隷の目を潰す習慣がまだあったのか……おまえのその目だが、まったく見えんのか?」
「はい」
「ならば、私の姿も見えておらんな?」
「はい」
「いまが昼なのか、夜なのか、それすらもわからんのだろう?」
「いまは……夜です」
 少年は腕を広げてなにかを確認すると、小さな声だが、はっきり断言した。
「わかるのか?」
 ドラゴンは目を少しだけ大きく見開いて上を向き、驚いた。
 漆黒の空には、数え切れないほどの星と、輝く三日月が確かにある。
「はい。太陽は温かいですから」
 少年は小さく頷き、微笑んだ。
「ほう……」
 ドラゴンは目を細め、それを弓なりに湾曲させる。笑っているようにも、訝しんでいるようにも見える。
「小僧、私はおまえと違って目が見える。だから、わからんのだが……おまえに、世界はどう見えている?」
 ドラゴンは抱いた疑問を素直にぶつけてみた。
「……真っ暗です。ずっと、真っ暗……」
 少年は、自分の目の前に広がる世界を見つめ、あるがままを答えた。
「真っ暗か……そうか、ふむ、それは……辛かろうな」
 ドラゴンは目をつぶって、視界が真っ暗という状況を想像してみた。……しかし、いま一つピンと来ず、とりあえず同情的なことでも言ってやればよいだろうと思った。
「ええ、まあ、最初のうちは……でも、もう慣れましたから」
 少年は謙遜する素振りを見せ、また微笑んだ。……けれど、
(わかりもしないくせに……)
 少年は心の中ではそう毒づいていた。
「慣れた、か……フフッ、言うではないか。――生意気な小僧だな!」
 ドラゴンはふっと鼻で笑うと、尻尾を振って鞭のようにしならせ、細長い先端を少年の胴体に巻きつけた。
「えっ!?」
 少年はなにが起きたのかと、咄嗟に触って確かめようとした。が、その前にドラゴンは彼の身体を持ち上げてしまった。
「あわっ!?」
 突然の浮遊感。胴体に巻きついている得体の知れないものに思わずしがみつく。それは硬くツヤツヤとした鱗らしきものに覆われていて、細長い。ふさふさとした長い直毛も生えているけれど、
(へ、蛇……!?)
 には見えないから、まさか尻尾だとは思わない。
 少年は抜け出そうともがくが、ビクともしない。
 ドラゴンは、無駄に暴れている彼ごと、尻尾を自分の口元へ運んだ。
「フフッ、久しぶりの獲物だ。近頃は近づく奴がいなくて、血肉に飢えていたところだ」
 ドラゴンは舌舐めずりをした。
「ち、血肉……!? えぇっ!?」
「無断で私の縄張りに入った罰だ。食らってやる!」
 ドラゴンは大きな口を開けた。大人の一人や二人ぐらいひと呑みにできそうな口の中には、少年の頭よりも大きくて太く尖った牙がずらりと並んでいる。
「ええっ!? ちょっ、あなたは、なんなんですか!?」
 どうしてこんなところに人間が、という疑問は確かに抱いていたが、まさか人間ではないとは。
「フフッ、人間だとでも思っていたのか? おまえたちの言葉を解するのが人間だけとは限らんぞ。浅はかだな、小僧。私は人間などという下等な生き物ではない。私は、おまえたちがドラゴンと呼ぶものだよ」
「ドラゴン!?」
(って、なに……?)
 残念ながら、少年はドラゴンという存在を知らない。だから、キョトンとした。
 人間以外に人間の言葉を理解する生き物がいることなど、思いもしなかった。
「どうれ、まずは味見を」
 ドラゴンは舌を伸ばし、少年の身体をひと舐めした。
 つま先から頭のてっぺんまで、べろ~~り、と。
「ひぃっ!」
 少年はハッキリと理解した。いま目の前にいるのは、自分よりも遥かに大きい生き物に違いない。
「ん……? なんだ、おまえ、妙に甘いな、クンクン。それにこの匂い……これは、花の蜜か?」
 ドラゴンは妙な甘ったるさを舌の上に感じ、目を細めながら、少年の匂いを嗅ぐ。
 少年の身体には、あれから乾いて飴のように固まった花の蜜が付着していた。
「ああ、なるほどな……だから、無事にここまでたどり着けたというわけか……」
 少年の身体についている花の蜜は、一部の鳥しか食さない。その理由は匂いにあった。もとい、臭いに……。
 濃縮された甘い香りが、悪臭となって体臭をかき消していたため、狼だけでなく樹海に生息する様々な生き物は少年を獲物と認識せず、興味を示さなかった。実は、彼が疲れて眠っていた間にも何度か獣と遭遇していた。襲われず、無事にここまでやってこられたのは、それが理由である。
(幸運な奴め……)
 ドラゴンは心の中で馬鹿にしたように呟く。だからといって、解放してやろうとは思わなかった。
「た、食べないでぇ……」
 少年は恐怖のあまり、身体も声も震えている。
「馬鹿を言うな。肉も久しいが、甘いものも久しいんだ!」
 半ば笑いながら言い、ドラゴンは、少年を口の中に放り込み、パクッと閉じてしまった。
「ひゃあっ!」
 少年はパニックになり、ドラゴンの口の中で素早く四つん這いになる。すると、身体の下にあった柔らかいものが動き出し、彼を持ち上げて天井に、上顎にぎゅっと押しつけ、強引にひっくり返す。そして今度は床に、下顎に押しつける。
「うーむ、味はまあまあだな。……ちとくどいがな」
 ドラゴンは舌を器用に動かし、少年をまるで飴玉のように転がす。
 二転三転の七転八倒。
 悲鳴を上げる余裕すらなく、彼は口の中を転げ回っている。
 とはいえ、抵抗はする。
(こっ、こんな死に方は嫌だ……!)
 少年は隙を見て舌を乗り越え、逃げ出した。なんと、自ら奥へ。
「あ、こら、逃げるな! そっちは喉だぞ! 馬鹿め、自ら呑まれようというのか!? おまえのようなものを嚙まずに呑んだら、消化不良を起こすだろうが!」
 少年を止めようと、ドラゴンは舌を動かした。それで喉の奥への侵入をせき止めるつもりだったが、慌てたせいで止めるどころか、彼のことを突き飛ばしてしまった。
「わっ!」
 少年が勢いよく前転したとき、投げ出された片方の足が、一番奥に生えていた太い牙の一本を、ガツンと蹴飛ばしてしまった。

 アギャアッ!?

 突然、ドラゴンが悲鳴を上げた。口を大きく開けたかと思えば、巨体をプルプルと震わせて、大きな目から大きな涙を一粒だけ、ポロリ、と流した。
 涙は地面に落ちて、パッと弾けた。だが、散ったはずの飛沫がまた一つに集まり、固まって結晶化する。それは宝石のように美しい石となって、月の光を浴びて青白く輝いた。
「あ、あああ……よ、よりにもよって……よもや、その歯を……」
 ドラゴンは呻く。
「……歯?」
 足がなにかに当たっていることに気づいて、少年がそっと除けると、
「ひぃっ!」
 ドラゴンがびくりと巨体を揺らした。
「……あの、歯が痛いんですか?」
 少年はまた四つん這いになる。
「あっ、ああ、虫歯なんだ……だから触るな! そいつには、ずっと前から苦しめられている……」
 ドラゴンの声が情けないものに。
「一番奥だから舌が届かず、尻尾も届かん……! 抜こうにも抜けず……そのくせ腐りもしない……! ああ、なんと忌々しい! おまえの何倍も忌々しいぞ!」
 ドラゴンはひどく苛立たしそうだった。
「一番、奥……」
 そう呟くと、少年は牙を手探りして伝いながら、ドラゴンの口の奥へ這っていく。
「なにを……? ハッ!?」
 少年がなにをしようとしているのか察して、ドラゴンは声を荒らげる。
「やめろ! 触るな!」
 舌を使って少年を止めようとするが、それよりも早く、彼は一番奥に生えている牙にたどり着き、ぴたりと触れた。
「ギャアッ!」
 ドラゴンの舌がピンと伸び、口から外へ飛び出した。
「あ、これ、ですか?」
 少年が太い牙をそっと撫でると、ドラゴンの巨体がびくりとする。
(これだな……)
「きっ、きききき、貴様ぁ……! まっ、まさか! それを使って、この私に苦痛を与えようというのか……!? お、おのれぇ……! ひっ、卑怯なぁ……!」
 少年は返事をせず、(しないよ、そんなこと……)と、呆れながら心の中で反論した。
「抜きましょうか?」
 少年はずばりとたずねた。
「……なに?」
「ですから、この虫歯、抜きましょうか? 辛いんでしょ?」
 少年が言いかえると、今度はドラゴンが黙り込んだ。返事を待っている彼も、黙る。
 お互い、しばしの沈黙。
「……なにを考えている、小僧」
 ドラゴンがおもむろに問う。
「え、いや、別に、なにも……」
「嘘をつけっ! なにか企みがあるはずだ! そうか! 私に恩を売り、涙を得ようという腹積もりであろう! そうであろう!?」
 ドラゴンの口の中で、少年は小首をかしげた。
「えーっと、よくわからないんですが、食べないと約束していただけるのでしたら、この虫歯、抜きますよ」
 少年はとりあえず答えた。
「なに……?」
(食べないだと……? こやつ、涙が目的ではないのか?)
「約束していただけませんか? ボク、まだ死にたくないんです……!」
 ドラゴンは黙って考える。
(まさか、涙のことを知らんのか……? いや、芝居かもしれん! 人間は平気で嘘をつく! 騙されんぞ! ……しかし)
 ドラゴンは葛藤しながら、無意識に唾液を飲んでしまった。それで舌が動き、その上に乗っている少年は大きく体勢を崩す。咄嗟に例の牙に摑まったものだから、雷に打たれたような凄まじい痛みの一撃に襲われた。
 ドラゴンは、もはや悲鳴も上げられずに硬直した。
(せ……背に腹は代えられん……)
 ついに屈した。……もとい、決断した。
「わっ、わかった……約束する! 食べん! 食べない! だから、その忌々しい虫歯をなんとかしてくれぇ……!」
 懇願。
「わかりました。我慢、して下さいね」
 少年は体勢を立て直す。
 ドラゴンは抜歯の痛みを予想して恐れ、力んで全身をこわばらせる。
「抜きますよ……!」
 少年は牙を両手でがっしり摑み、すぐさま身体を後ろへ反らし、力任せに引っ張った。するとそれは、スポンッ、と勢いよく抜けた。

 ゴチッ!

 少年は仰向けにひっくり返り、反対側にあった牙に頭をぶつけた。
 歯が抜けた瞬間、穴から、血とともにわずかな膿と、大量の臭気が一気に噴出したのだ。その勢いは凄まじく、抜けた歯もろとも、少年の身体がわずかに浮いた。これほど簡単に抜けるとはつゆにも思わず、それゆえ、受け身を一切とれなかった。
 奥歯の歯茎やその根元はパンパンに腫れ上がっていた。虫歯が悪化しすぎて膿とガスが溜まりに溜まっていたのだ。だからこそ、神経が極限まで過敏になり、撫でた程度で雷に等しい激痛が、ドラゴンの脳天に突き刺さっていたのだった。
 そんな歯が抜けた瞬間の痛さといったら……。
 ドラゴンは白目をむいて気を失った。長い舌が口から外に飛び出して、だらりと力なく垂れている。
「痛っ……。う、くさ……うっぷ」
 ドラゴンの口の中で、少年は頭を押さえて痛がり、手ですぐに鼻と口を覆った。辺りには軽い吐き気をもよおすほどの悪臭がたちこめている。
 まぶたの裏側に隠れてしまっていたドラゴンの両目が、ゆっくりと中央に戻ってきた。そして、一度だけ、パチリとまばたきをする。
「ぬう……?」
 目の焦点がぴたりと合ったとたん、垂れ下がっていた舌が口の中に引っ込んだ。正気に戻ったらしい。
「消えた……痛みが、消えた……! おお! ついに、ついに抜けおった! ずっと苦しめられていた虫歯が……!」
 溜まりに溜まっていた汚い血や膿やガスが抜けたことで、過敏になっていた神経への負担が一気に解消されたらしく、もう痛くない。ドラゴンの喜びは、声と目に現れていた。
「……良かったですね」
 少年は微笑み、先ほどぶつけて痛む頭を片手で押さえながら、空いたほうの手で抜けた虫歯を抱え、口の中から外へ転がり出た。
「いてっ」
 想像していたよりも高さがあり、少年は頭から地面に落ちた。その際、牙が手からこぼれて、横たわるドラゴンの眼下へ転がった。
「これがそうか……」
 ドラゴンは牙を恐る恐る眺めて、虫歯の度合を確かめた。
 それはひどいものだった……。
 怒りがこみ上げてきたので、尻尾で虫歯を樹海の彼方へと弾き飛ばすと、彼は満足げに、フンッ、と鼻を鳴らした。
「いてて……」
 再び頭を押さえながら身を起こした少年に、ドラゴンは視線を移す。
「よくやったぞ、小僧。褒めてやる」
「あ、じゃあ、食べないでもらえます、よね……?」
 少年は小さな声でたずねる。
「当然だ。私はドラゴンだぞ、約束は守る。嘘はつかん。おまえたち人間と違ってな」
「良かった……」
 少年はホッと胸を撫でおろした。
「そもそも、おまえ、まずそうだしな。痩せすぎで、小骨が歯に詰まりそうだ」
「はぁ……」
(まずいって……いまのは、喜んでいいことなのかな……?)
 少年は押し黙り、心の中で自問自答している。
 ドラゴンは、そんな少年を珍しそうに眺める。
(ふむ、いままで気づかなかったが、人間も役に立つのだな……使えるかもしれん)
 ドラゴンは声の調子を変えた。
「おい、小僧」
「はっ、はい……!」
 ふいに改まった声で呼びかけられ、少年は慌てた。
「私は、食べないとは約束したが、おまえを殺さないとは一言も言っていない。違うか?」
「え……」
「おまえは無断で私の縄張りに侵入した。その罪は死に値する。……だが、おまえの態度次第では殺さないでやってもいい。小僧、私のために働かぬか? ここで私の世話をしろ」
「え……!? おっ、お世話、ですか?」
「ああ、そうだ。世話だ。奴隷だったのだから、慣れておろう?」
「でっ、でも……」
「でも、とはなんだ? 死にたいのか? まあ、私がわざわざ手を下さんでも、おまえの命はもって数日だろうがな。水だけでいつまで生きられるか……周りには危険な生き物がウジャウジャ……飢えで死ぬか、食われて死ぬか……!」
 ドラゴンは口角を吊り上げ、にやりと笑う。牙が抜けたせいか、片側の歯並びの奥に隙間ができている。
「ウジャウジャ……」
 少年はブルブルとその身を震わせる。
「言っておくがな、おまえを樹海の外に連れ出してやろうという気は毛頭ない。おまえも、頼ろうなどと馬鹿なことを考えるなよ? ……そもそも、私はもう老いさらばえている。おまえには見えんだろうが、衰えが激しくて、ろくに動けんのだ……」
 ドラゴンは憂鬱そうに溜め息をひとつ。彼にとっては溜め息だが、少年にしてみれば、強風。それにあおられ、仰向けにひっくり返ってしまった。
「私の寿命は残りわずかだ。一年か、二年か……多分、そんなところだろう」
「そう、なんですか……?」
 少年は身体を起こした。
「なんだ、その顔は。同情でもしているのか? 生意気な……」
 ドラゴンは尻尾の長い毛が生えている先端で、少年の顔をさっと払った。
「わっぷ」
 少年はまた倒される。
「フッ、滑稽な奴だ」
 ドラゴンは鼻で笑い、しばし、尻尾の先で少年をおちょくった。
「私の世話をするなら、おまえに食べ物のある場所を教えてやる。なんだったら、もっと条件をつけてやろうか? ……そうだな、最期まで世話をやり遂げられたら、ひとつだけおまえの望みを叶えてやろう。樹海を出たいと言うなら、私の炎で木を焼き、外までの道を作ってやる。最後の力で空を飛び、外に連れ出してやってもよいぞ。それに……」
 そこで言葉を切り、ドラゴンは、眼下に転がる美しい石を見やる。
「……いや、なんでもない」
 ドラゴンは口ごもると、
「どうだ、私の世話をするか?」
 と、誤魔化すように問いかけた。
 少年は黙ってしばし考えてから、決断した。
「……わかりました。あなたのお世話をします」
 少年は立ち上がって背筋を伸ばすと、深々とお辞儀をした。奴隷として仕込まれた作法のひとつである。
「そうか」
 ドラゴンは満足そうな笑みを浮かべた。
「では、今日からよろしくな。私のため、しっかり働けよ」
 ドラゴンは尻尾を振るい、また少年の頭を、撫でるようにさっと払った。彼が驚くと、ドラゴンは目を細めて、意地悪そうな、しかし、なんだか嬉しそうな笑みを浮かべた。
 それはまるで、新しいおもちゃを手に入れた子供のような表情だった。


【第二節へつづく(※有料)】
https://note.mu/daisuke20111213/n/ne62c0e365c6b


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