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いのちや意識の「あわい」にあるものは——河合隼雄『中空構造日本の深層』、フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』など

拝啓

暦のうえではすでに秋。台風が通り過ぎたあとを「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」としみじみ味わう清少納言には共感できません。でも、野分のわきという表現は言い得て妙だと、9月が近づくたびに感じます。

こちらも、お返事が遅くなりました。毎年8月は仕事の都合で自分の精神活動がどうしても後まわしになってしまうのです。

それで、自分を取り戻すためにも、あなたとの往復書簡をすべて読み返してみました。すると多くの作品や批評をつうじて「魂とはなにか?」という問いにたゆたっていますね。そこであなたは、「魂」「たましい」を語る時にユング心理学の第一人者、河合隼雄氏は欠かせないひとりだといいます。

実は、私は河合隼雄の著書を一切読んだことがありませんでした。あなたが指摘したように、池田晶子『人生のほんとう』で河合隼雄・俊雄親子に触れていたのも気づいていましたし、昨年はNHKのカルチャーラジオで河合俊雄の 「こころと心理療法」という講演も聴きました。しかし、河合隼雄自身の著作は未経験だったのです。

それで早速、教えてくださった『中空構造日本の深層』のほか、『河合隼雄 物語とたましい』、小川洋子との対談集『生きるとは、自分の物語をつくること』を読んでみました。

(人間の生き方、人間の心について)いくら割り切って考えようとしても、割り切れずに残るものがある。どうせ大したことはないのだから、とそれを無視した途端に、それまでの割り切った考え方がいかに見事に構築されていたとしても、それは生命力を失ってゆく。割り切りを許さず、生命力の源泉ともいえるのだが、そのもの自体を直接に把握することができないもの、それを「たましい」と呼んでみてはどうだろう。

河合隼雄『物語とたましい』「河合隼雄 物語とたましい」p135

お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。

小川洋子、河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』p29

むむぅ。難しいですね。

実は前回、わたしがうまくまとめられなかった竹内整一『魂と無常』の、しかも3ページ目で、河合隼雄に触れられていたのです。

河合は、日本の古い昔話や神話を考察しながら、われわれは、死後世界や霊魂については知性や理性といったものでは捉えきれず、夢や物語としてしか語りえないものであることを強調している。それはなお、現代のわれわれにおいても同じであって、(中略)科学的・客観的な知性の限界をふまえないかぎり、「あの世」や霊魂の問題は問いきれないということである。

竹内整一『魂と無常』p8

ますます分からなくなりました(笑)。

「魂とはなにか」という問いを超えて、私がもっとも味わいながら読んだのが、「中空構造日本の深層」に収録されている『「うさぎ穴」の意味するもの』という児童文学論です。そこで紹介されているフィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』とハンス・ペーター・リヒター『あのころはフリードリヒがいた』もすぐに読んでみました。調べてみると、河合隼雄はさまざまな著書で、この2つの作品を絶賛しているようですね。

『トムは真夜中の庭で』は、弟が「はしか」にかかり、せっかくの夏休みを叔母の住むアパートに隔離させられた少年トムが、建物内にある大時計が真夜中に鳴らす13回の音をきっかけに、ヴィクトリア朝の世界に迷い込み、ハティという少女と交歓するファンタジー。

『あのころはフリードリヒがいた』は、幼なじみのユダヤ人少年フリードリヒがナチス政権下のドイツで遭遇する悲劇的な日々を、ドイツ人少年が淡々と描く物語です。

トムがハティの背中に両腕をまわし抱きしめて幸せな幕をとじる『トムは真夜中の庭で』と、結末でさえ、なぜここまでの仕打ちをフリードリヒは受けなければならないのかと憤りさえ覚える『あのころはフリードリヒがいた』。現在を生きるトムと過去を生きるハティ、ユダヤ人のフリードリヒとアーリア人の「ぼく」。

小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』も参考に読みました

2つの物事があると、共通点をさがすか、または差異をさがすか。そんな思考の働きがあります。しかし、割り切ったり、明確に区切ることで、見失ってしまうものがある。それを河合隼雄は「たましい」と呼んだのではなかったか。

「たましい」「魂」というと、どうしても丸くて何らかの塊のようなものものを思い浮かべてしまいますが、実際には手に取ることも、目で見ることもできません。でも、どこかに実在する感じがする。それは、人の生き方、人の心における「あわい」にある。「あわい」はもともと両者が働き合うという「合わふ」の名詞形です。「あわい」というのは、位置ではなく、関係性。

『トムは真夜中の庭で』と『あのころはフリードリヒがいた』を読んだら、「魂とはなにか」という問いは、あまり気にならなくなりました。定義づけするよりも、トムとハティの「あわい」にあるものは何か? 「ぼく」とフリードリヒの「あわい」に何を感じたか。いのちや意識の「あわい」に自分は何を見出すか。そこに関心が移ったのです。

孫引きとなってしまいますが、竹内整一『魂と無常』で、河合隼雄の言葉が引かれています。

たましいがあるというのは、あらゆる明確な区分を前提とする考えに、待ったをかけることである。……近代はものごとを割り切って考えることによって、随分と生活の便利さを獲得するようになった。しかし、その分だけ「関係の喪失」に悩まなければならなくなった。あらゆるところで、人間関係の希薄化を嘆く声がきこえてくる。それはすなわち、たましいの喪失である。

河合隼雄『物語と現実』

自分の忙しさに、心を亡くしていました。往復書簡とは、まさに「あわい」のいとなみ。それを欠いてしまうのは、「関係の喪失」であり、たましいの喪失ですね。

好みでは、ユング心理学というより、児童文学論のほうが、河合隼雄に近づいていける感触を抱きました。自分を取り戻すうえで、あなたにとって欠かせない河合隼雄という存在を教えてくださり、ありがとうございました。もう少し、著書を読み進めてみます。

9月になれば多少、気持ちにも余裕ができますので、またお手紙が書けると思います。そのころは、野分が負の印象を与える言葉にならないことを願います。

敬具

既視の海


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