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【5通目】小説が先か、映画が先か——ジョルジュ・シムノン『仕立て屋の恋』【書評】

拝啓

昨晩は今年最後の満月でした。ご覧になりましたか? ただ正直にいえば、満月よりも、ちょいと欠けた居待月のほうが、私の好みです。まだか、まだかと東の夜空にのぼるのを待ち焦がれる切なさでしょうか。

さて、あなたが映画も好きだと知り、一度たずねてみたいと思っていたことがあります。それは、映画と原作小説、どちらを先に観るか、読むか、というものです。それを考えさせられたのが今回のフランス小説であるジョルジュ・シムノンの『仕立て屋の恋』です。フランスにおける初版は1933年。でも約90年前とは思えない心理サスペンスです。

パリの中心に近い工事現場で、1人の女性が殺された。真っ先に疑われたのは、近所でも変わり者として知られるイール氏。警察の追及をのらりくらりとかわすイール氏は、夜な夜なアパートの自室から正面にある若い女性の部屋をのぞき見していた。部屋をのぞかれていたアリスはその事実を知るも、とくに通報しようともせず、むしろ自らイール氏に近づいていく。イール氏のほのかな恋心を知ったアリスは、それを利用して、ある企てを実行する、という物語です。

シムノンといえばメグレ警視シリーズ。でも、実は1冊も読んだことがないのです。他方、あくまでもミステリーではなく、登場人物の心理と人間模様を描いたシムノンの「本格小説」「運命の小説」と呼ばれる作品群が好きなのです。『仕立て屋の恋』も、殺人事件こそ起こりますが、犯人はすぐに明らかになり、謎解きの要素はありません。シムノンらしく、人間の弱さや情けなさが乾いた文体で描かれています。

そして『仕立て屋の恋』はフランスの名匠パトリス・ルコントによって1989年に映画化されています。もちろんシムノンの原作を生かしているものの、小説の読後感と、映画観賞後の感想はまったく異なります。

原作は結末でも、イール氏の変人ぶりが強調されていますが、ほんとうに怖いのは、彼を取り巻く名もなき人々、群衆なのだと感じます。

それに対して映画では、エキセントリックなイール氏の秘めた純情さ、純愛が結末にそっと花を咲かせてくれる、そんな気がするのです。

そして冒頭の問いにもどりましょう。先に読む、または観るなら、小説か、映画か。

私は映画⇒小説という主義です。いい映画だったなあ、そうか、原作もあるのなら読んでみよう、といった流れです。はじめから映画と原作が両方とも存在しているのが分かれば、やはり映画を先に観るようにしています。

実は1通目の『イギリス人の患者』と、2通目の『日の名残り』は、あなたへの手紙を書いてから、それぞれ映画も観てみました。『イングリッシュ・ペイシェント』は砂漠好きにはたまらない映像美が魅力ですが、原作では多層的な意味をもつヘロドトス『歴史』について、映画ではあまり上手に描かれていません。映画『日の名残り』の結末で、スティーブンスが夕陽に向かって涙を流さないのも、原作を知っているからこそ興ざめでした。いずれの作品も、映画⇒小説という流れがふさわしいだろうと感じます。

しかし、今回の『仕立て屋の恋』は、小説⇒映画の流れのほうが、むしろいいのではないかと感じました。息苦しくなるような原作の心理描写もシムノンらしくていいのですが、映画はイール氏の愛を強調し、まわりくどい逸話を潔く削ぎ落としているのです。原作と映画は、まったく違う物語だといっても過言ではありません。いずれも味わい深く楽しめました。

原作の小説と映画がセットで楽しめる、一粒で二度おいしいと感じる、あなたのおすすめを和洋問わずぜひ教えてください。

待つことを厭わないイール氏も、なかなか夜空に現れず、ようやく出てきたとしても、ちょっと欠けている、そんな居待月が好きなはずです。

既視の海

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