見出し画像

「語り口」を、書く

ある日のこと。何気なくラジオを聴いていたら、ある英米文学の翻訳者が出演していた。彼女が翻訳する作品なら、まず間違いない。その一方で、エッセイの名手としても人気がある。タイトルからして、思わず笑みがこぼれてしまうような単行本もある。

翻訳するときに苦心していること。若い頃、翻訳の師匠にアドバイスしてもらい、いまも忠実に守っていること。お互いにファンだと公言するパーソナリティと軽妙なやり取りをしたあとで、自らエッセイの一篇を朗読するという。自宅で一人、誰も見ていないのに身を正し、胸を大いに膨らませて、耳を傾けた。

んんっ? なにか違う。

朗読している作品は、たしかに単行本で読んでいる。可笑しくって可笑しくって、くすくす肩をふるわせていたら、周りから奇妙な目で見られたほど。それなのに、ラジオで聴くと、何だか違う。はっきりいえば、おもしろくない。どうしてだろう。

その違いは、語り口にあると思う。

エッセイは、もともとフランス語のessaiから来た。試論という意味もあるが、随想録と訳したほうがいい。想いにしたがって書くのだから、わが国ではエッセイと随筆は同じものだといわれている。

日々のくすっと笑ってしまうエピソード。出来事から世相を読み解くような時評めいたもの。何について書くか、どのように書くか、誰に対して書くかなど、定義がないのがエッセイであり、随筆なのだろう。

ラジオに出演していたその翻訳家の書いたエッセイは、たしかに面白い。ただ、面白いのはエピソード。物事に対する見方や考え方が、ちょっと人と変わっていて、普通はこんなことをやらないよなぁ、思いつかないよなぁと読み進む。

ただ、たとえ発想が突き抜けていても、日々の暮らしと寄り添って綴る限り、どうしても書き言葉としての説明や描写になってしまう。軽妙な会話も、実際に話したのをそのまま録音し、文字に書き起こしたような言葉遣いや息遣いではない。随筆としては面白い。でも、朗読のように実際に発声するとなると違ってくる。親しい人に、あのさ、こんなことがあったんだよと語るような面白さは薄まってしまうのだろう。

その一方で、朗読しても違和感のない、筆者の息遣いが感じられる文章やエッセイもある。古くは里見とん。巨匠・小津安二郎が映画化した小説『秋日和』は、登場人物が入れ替わりながら、一人称で語っていく言葉の一つひとつが瑞々みずみずしい。

最近では、翻訳家の柴田元幸がいい。実際にステージで自分の翻訳作品を朗読している。かつてはラジオで自分のエッセイも語って聞かせていた。お気に入りは、自伝的な短編小説『ケンブリッジ・サーカス』。朗読の技術も優れているのだろう。だが、ここだけの話だよと声をかけられ、湯気の立つマグカップを両手で包みこみ、ゆったり耳を傾けてしまうような、自然な語り口のある文章なのだ。

文章は、こころに思い浮かんだことを、一気に書きなぐってもいい。そのほうが文章に勢いが生まれる。車輪が前に転がっていくような、推進力のある文章になる。

ただし、推敲の時に、実際に声に出して読んでみる。黙読ではなく、自分が書いた文章を声に出して、その声を自分で聞いてみるのだ。この一文はちょっと長いよなぁ。この部分はなくて大丈夫だろう。もう少したたみかけてみようか。そんな発見が文章を磨く。そうして書いた文章は、きっと自分だけの語り口を持っている。

この記事が参加している募集

noteの書き方

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。