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帰蝶(#シロクマ文芸部)

「振り返るなど胸糞悪いわ」
 眼前の敵を槍で突き、背後で剣を振るう蘭丸に信長は吐き捨てる。

 天正十年六月二日の払暁。
 宿直とのいの蘭丸が火急を告げた。
「水色桔梗の旗印。明智殿の謀反にござりまする」
 本能寺は四囲に堀と土居をめぐらせた城塞寺院とはいえ、此度こたびは名物の茶器を愛でる茶会目的の上洛であり小姓数十名しか伴っておらぬ。かたや明智勢は中国攻めの援軍として一万三千余騎。信長は敗北を冷徹に悟った。
 火矢が赫い軌跡を幾筋も引いて瓦を衝き、まだ明けぬ闇夜を叩き起こす。
 信長は夜着のまま土塀に群がる兵に弓を引いては位置を変えるが、らちが明かぬ。織田軍の誇る鉄砲隊はおろか、火縄銃ひとつ携えてこなかったことに臍を噛む。三本目の弓弦が切れた。舌打ちをして槍に持ちかえる。
 闇に煌々と紅蓮のほむらが舌を這わせる。
 気の緩みか。
 駆けてきた。父を失ったあの日から、母にしいされかけたあの日から、駆けて、駆けて、駆け抜けた、疾風怒濤の日々であった。因習を蹴散らし、血縁をわらい、唾棄すべき旧悪を根こそぎ倒してきた。燎原の火の真央に屹立し、世の旧弊を哄笑してまいった。この乱世、針の穴ほどの気の緩みで身を滅ぼすと、誰も信じず行く手を阻むものを薙ぎ払い駆け抜けてきた。

「光秀は阿呆あほうじゃ」
 乱刃の中、誰にともなく呟く。血しぶきが襖に飛び床板をぬめらせる。 
「やつでは猿と狸には、到底、勝てぬ。さかしさばかり先走りおって、狡猾さも非情さもぬるい男よ。じゃが、そのぬるき実直さを生かす駒の置き場もあるものを、それが見えておらぬ阿呆じゃ」
 矢の風切り音が耳もとを掠める。 

 ――帰蝶よ、光秀は阿呆じゃが、わしはうつけじゃな。人の心をまた読みまちごうた。そなたに鼻で揶揄からかわれるわ。
 この世で唯ひとり心を許す妻へと、虚空に苦々しく語りかける。

「ほんに殿はいくつになっても村の悪餓鬼のままのうつけでありまするな」
 天下の鬼神と恐れられる信長を子のようにあしらうなど、帰蝶の他にはおらぬ。
「それほど人が信じられませぬか」
「ふん、人がどう考えようがしったこっちゃないわ。儂は儂の思うように進むまでよ」
「殿の瞳の中には、いまだに世の理不尽に歯を食いしばってむせび泣いている男児おのこの殿が見えまする」
「義母上様のくびきはいつまで経っても抜けませぬなあ」
 母の土田御前は次男の信行を愛するあまり信長の謀殺を計った。にもかかわらず、土田御前を手打ちにすることはなかった。母への屈折した思慕。義母上様に命を狙われたことが殿の人間不信の根源でありましょう。
「なれど、それでこそ愛しきわが殿でございまする」

「乱世に神も御仏みほとけもおらぬ。おると云うならば、民を救わぬ御仏などうつけじゃ。儂は神も仏も信じぬわ」
「まあ、それはお寂しいこと。では、何を信じておられまする」
「地獄の所業というがの。そもそもこの世が地獄じゃ。閻魔大王が統べる地獄のほうが余程ましであろう」
 叡山の焼き討ちで、信長は一段と悪名を高めていた。
「叡山の坊主共は武装して僧兵などとぬかしておった。*衆道と悪食の限りを尽くしてのう。腐った坊主共が衆生しゅじょうを救えるというか。ふん、儂が地獄に落ちるならば、諸共もろともにじゃ」
「まあ、また、そのような憎まれ口を」
 からからと笑う。帰蝶の柔らかな膝を枕にごろんと仰向けになる。
「殿、寝首を掻かれますぞ」
「そちにか」
わらわが蝮の娘であることをよもやお忘れでは」
 ちらりと胸元に懐剣がのぞく。
「聟殿の首を持ってまいれと、嫁に出されましたからなあ」
 瞳を細うして、くすりと笑う。
 一見、常軌を逸した信長の思考に追いつけるは、自らを蝮の娘と呼んで憚らない帰蝶のみであった。

「もはや、これまでか。蘭丸、介錯を頼むぞ」
 火の手の回りきらぬ奥の一室へと向かう。
 四方の襖をぴしゃりと閉めても、火勢で室の内は明るい。
 信長は扇を開くと、摺り足で幸若舞の一節を舞う。

 人間じんかん五十年、下天げてんのうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
 一度ひとたびしょうを享け、滅せぬもののあるべきか

「たかが五十年じゃ。振り返るいとまなどなかろう」
 ぱちりと扇を閉じて端座する。
「のう、蘭丸よ。人の生など一日いちじつの夢幻。振り返って何になろう。前に進むだけじゃ。おぬしも早う逃げよ」
「なれど、お館様の御首みしるしを光秀めが手に渡すのは口惜しうございます」
「ならば、儂の首に火をつけて庭にでも放り投げぃ。まなこを見開きて光秀の戦いぶりをとくと見て灰燼に帰すまでよ」
 脇差を逆手に握る
「変わる世を見たかったわい」
「よいか、決して振り返るな。生は前にしかないと心得よ」
 丹田に力を籠める。
「いざ、まいるぞ」
 
 蝶は後ろには飛ばない。ただひたすらに前を向き、己を生かす蜜を求めて舞うだけだ。
 白き蝶が一頭、ひらひらと業火の中をかすめ安土の方角へと飛んで行くのを、蘭丸は遠ざかる意識の中で見つめていた。

<了>

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帰蝶:濃姫とも呼ばれる信長の正室。斎藤道三の娘
衆道:いわゆる男色のこと

「本能寺の変」については、信長の遺骨が発見されていないことをはじめ、信長の正妻である帰蝶が帯同していたのかどうか、またそもそもこの時点まで帰蝶が存命であったかも含め、いまだ謎に包まれた部分も多く、諸説入り乱れている事柄については私の勝手な想像に基づいており、必ずしも正確ではない点をご了承ください。
いち創作小説としてお楽しみいただければ、幸いです。

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一度書いてみたかった時代小説風に挑戦してみました。
小牧部長様、いつもありがとうございます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。


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