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【一日一言】「尽くす余地」はあるのかないのか「愛の足りない証拠」(草稿)

●はじめに

二月二十日 「愛の足りない証拠」

自分はこれほどまでに尽くしているのに、先方はそれほどまでに思っていないとうらむことは人の癖で、これは親子、兄弟、夫妻の間でもあることだが、先方も恐らく同じように思っているのではないか。

人を愛してもその反響がないのは、自分の愛が足りない証拠だと知ること。

自分の心づくしに感じる者がいないからと結論づけることはあやまりで、これはまだ尽くす余地があるということを知らなければならない。

我が恩を 仇にて返す人あらば またその上に 慈悲をほどこせ

PHP研究所 『[新訳]一日一言 「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』
著者:新渡戸稲造 訳者:岬 龍一郎

新渡戸先生の愛の深さが窺われます。

●すれ違う

正直な所、「私はこんなに尽くしてるのに!」と思う事はありました。
でもそれは新渡戸先生にいわせれば「お互い様じゃないですか?」ということですね。

これはいわゆる「すれ違い」ということかなと。
お互いの「愛」が空回りしてしまうということもあるのかなぁと思います。

自分が良かれと思って尽くした「つもり」が予想だにしない伝わり方をしてしまい、「そんなつもりじゃなかったのに」となってしまった、というのは「あるある」かもしれないですね。

なるべく誤解のないように、何度も話し合うことが大事かなと思います。

●「興味をもつ」ということかと

「自分にとっても人にとっても嬉しいこと」をするのが望ましいのですが、なかなか容易ではないのは身を以て何度が思い知りました。

そこで思うことは、「相手を理解しようとすること」も愛なのかなと思った次第です。

ちょっと脇道に逸れてしまいますが、「愛」の対象というのは「恋愛対象」に限らず友達や家族、動物や植物、自然などなどへ向けられる気持ちも「愛」と言えるかと存じます。
いわゆる「フィリア」とか「アガペー」というものもございますからね。

●愛、執着、依存

ここで注意したいのは「愛」と「執着」を混同してしまわないことです。

この場合は「執着」というより「依存」と言った方がしっくりくるかもしれません。
もちろん人と人が支え合う、助け合う、というのは必要な事で、「人をムリヤリ遠ざける」というのが「執着しない」とはならない所に注意したいと思います。

「すべてはつながっている」というか、つきつめていくと「すべてはひとつ」なのでムリヤリ分断するのは「不自然」かと存じます。

●憎しみ、怒りについて

たとえば、「倫理観に欠ける振舞いをするその人」に対しての「憎しみ」の感情は、もしかしたら執着かもしれないですね。
その辺りの感情については「一考の価値がある」とは思います。

ちなみに仏教でいうところの「三毒(さんどく)」の一つ「瞋(じん)」は「怒り・憎しみ」の事です。

ちなみに三毒は「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」です。
簡単にいうと「煩悩の三大要素」みたいなものです。

拙記事【 ダンマパダ 228 】悪口陰口が辛い【お釈迦様からのメッセージ】(一部訂正)から

ただ、自分を「犠牲にしてまで」愛を注ぐのは「違うかな」と思ってはおります。
間違っても「許せない自分を憎む」なんてことはないようにしたい所です。

私は「無理しなくていい」と思ってるんですよ。

●私自身が忘れがちなこと

やや厳しい論調になるかもしれませんが、自分を戒めるつもりであえて述べさせて頂きます。
「自分に足りないものを埋めようとする」のは「愛」ではなく「依存」なんだと心がけたい所です。

私の「なか」に感じる「からっぽ」な感覚。
それを埋めようと欲する心の動きが「執着」ではないかと考える次第です。

ふと感じる「からっぽ」を許容できない気持ちは痛いほどわかるのですが、そもそも「私といういれもの」は「からっぽ」に感じるようで「満たされている」のが本来の状態です。

その「からっぽ」はいわゆる「幻想」で、本当は「満たされている」ということを「思い出す」とその「満たしているもの」は溢れ出し「与える」ことができる、といった所です。

●さいごに

なんだか抽象的な論調になってしまった感はありますが、要は「まずは自分から」ということと「理解を深めようとすること」は新渡戸先生の言から得られた「学び」としてここに記しておこうと思う次第です。

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