【ダンマパダ 34】陸(おか)の魚 (草稿)
●はじめに
仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。
●ダンマパダの34
こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。
その第三章は「心」です。
章を通して読んでいくと、心というものは「捉えどころがなく忙しなく動き回るもの」としていることが窺えます。
●想像するだけでも苦しそうな「心」
ダンマパダ34のたとえがわかりやすかったので引用させていただきましたが、その様は想像するだけでも苦しみに悶えているかのようです。
「お魚さん可哀そう」と思わなくはないのですが、陸に打ち上げられてもがいている「魚」は他でもない私たちの心を指しています。
「可哀そう」といった他人(他魚?)事な感想で済ませられないといった所です。
●その「支配」からの解放
この一節で「悪魔」という言葉が出てきますが、ここでいう「悪魔の支配」とは「煩悩による生死流転の輪(前掲書から一部引用)」ということです。
「輪廻からの解脱」というのは、仏教における重大な関心事といっても良いかと存じます。
これは「苦しみのループからの解放」といってもいいかもしれません。
その「苦」は煩悩や執着から生じるとされています。
●逃げもしないが我慢もしない
陸でピチピチもがいている魚はそんな苦しみから逃れようと欲しているのですが、もがくほどにその苦しみは増していくようです。
だからこそ仏教では「どうしたらいいか」を説いている、ということになります。
欲すれば欲するほど渇きは増し、逃れようとすればするほどその恐怖は追いかけてくるかのようです。
ならば「欲しがりません逃げません」といった風情で「我慢する」といいのかと言えばそういうことでもなさそうです。
●「そんな余裕なんてない」とは思いますが…
この一節に沿う形で述べるのであれば、まずは「いま陸の上にいること」を「そのままに」みることが「煩悩による生死流転の輪」から抜け出す第一歩なんだと思います。
陸に打ち上げられた魚の末路は想像に難くないですし、そんな状況で「落ち着いていられる」はずもございません。
ですが、その「魚」は本当に「陸に打ち上げられている」のでしょうか?
呼吸もできず干からびるしかないような状況なのでしょうか?
●その苦しみは幻想かもしれないけど
もしからしたらそこは「乾いた陸の上」ではなく、そこで「もがき苦しむ魚」なんて「なかった」のかもしれませんよ。
とはいえ、最初から「私がいま苦しいのは幻想だ」とか「そんなものは認めない」と「いまの気持ち」を「全否定すればいい」というわけでもありません。
「苦しんでいる私はダメだ」とか「欲しがっちゃダメ」だとか、「煩悩まみれで執着してる私はダメダメ」などと自己否定しなくてもいいと思うんです。
むしろ、その「苦」や「煩悩」「執着」に「気づく」ということが大事で、それらと「向き合うこと」はもっと尊い姿勢かと存じます。
●陸は永遠に陸のままとは限らない
希望的観測といわれればそれまでかもしれませんがこんな話は如何でしょうか?
「魚」はそこが「陸の上」だと思っていましたが、実は潮の満ち引きであらわれた海岸で、ほどなくして降り注ぐ雨によってその渇きは癒され、やがて満潮となり「住居」へ戻れたその「魚」は飢えと渇きの苦しみから解放されました。
という話で締めようと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございます。 少しでもいい記事が書けるよう精進致します。 ※誤字・脱字等ございましたら、お手数ですがコメントにておしらせ頂けると幸いです。