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【ダンマパダ 97】 (過剰に)信ずることなく (草稿)

●はじめに

仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。

●ダンマパダの97

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。

岩波文庫 『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元[訳] より

こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。
その第七章は「真人(※)」というタイトルです。

※ 真人:
尊敬さるべき人、拝まるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。

前掲書籍より一部引用

いわゆる「悟りの境地」について、それから「悟りに達した人」つまりお釈迦様のような人物について、その在り方について述べられています。

●信ずることなく

これは「軽々しく信じ込んだりするな」という意味があります。
そして、「信仰を捨てよ」という意味合いもあるそうです。

お釈迦様はかつてゴータマ・シッダールタというひとりの人間として生きていました。

その当時(約2500年前)のインドではバラモン教やジャイナ教などいくつかの宗教があり、従来のそれらとは違う「独自の法(ダンマ)」を説いたのが彼でした。

●「シッダールタさん」について簡単に述べます

元々シッダールタ自身が既存の宗教を学んでいて、そういった学識にも長けた人物だったらしいです。

ちなみにスッタニパーダ(仏教の経典)を読んでいると、イケメンでマッチョだったみたいなことが記述されています(真偽は確かめるべくもございませんが)。

しかもシャーキャ族の王子様だったので、いわゆる「セレブ」でした。
文献や資料をそのまま信じるならば、彼は悟らなかったとしてもすごい人物だったことになります。

●「はっきりしない」スタンスではありますが

実際彼がどうだったかはさておき、その教えは当時から現在にいたるまで多くの方々に救いの手をさしのべたのは事実です。
その功績自体を疑う余地はありません。

ですが、彼が当時既存の宗教を「軽々しく信じることなく」自ら納得がいくまで「道」にはげみ「悟り」に至った経緯を考えると、「特定のなにか」を疑うことなく信じる(というか依存する)こともないのかなと思うのです。

私は「宗教」や「信仰」そのものを全否定することもしませんし、それで「健全に幸せな人生」を過ごされているのならそれでいいのかなと思ったりもします。

●あえて強く言ってるのかな?

この一節を簡単に(乱暴に)解釈させていただくとしたら、「執着するな」ということになるのかなと思います。
それが色濃くあらわれている一節じゃないかなと。

個人的に疑義を唱えたくなるのは「欲求を捨て去った」というような表現です。
これだと、まるで欲求は「悪」と断じている印象を持ってしまいます。

おそらくですが、人間という生物そのものが「欲求を捨てなさい」くらい強い論調で説かないと「欲求の沼にはまって沈み込んでしまう」から「そういう表現」をしてきたんじゃないかと推察する次第です。

●「0で1」もしくは「0でもなく1でもない」

「欲求」に対して「忌避する」というのもまた執着じゃないかと思うのです。
「否定も肯定もしない」もしくは「否定も肯定もする」在り方が「執着しない」ということだと思っているのですが如何でしょうか?

「0でも1でもなく、かといって0.5じゃなきゃダメということでもない在り方もしくは0と1が同時に成立するような在り方」

「執着しないこと」らしきものを言語化するとしたらこんなイメージです。
とはいえ、本来は「言葉で説明すること」も非常に困難(というかムリ)だと思っております。

●考察も実践も大事にしたい

もし言語化できたとしても「実践」できていなければそれは「意味がない」とも思っております。

いわゆる「悟らない悟り」をその生涯で実践し続けた一休宗純のような在り方もいいんじゃないかなと、最近は思ったりもします。

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