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ターニングポイント


 人生は出会いと経験の連続。良くも悪くもそれがやがて私たちを彼方の光へと導いてくれる。雨粒の一滴は海を目指して流れていく。海に辿り着き、大海原に溶け去るその時まで。

今振り返れば、あの時のことがその後の流れを決めるターニングポイントになったのだと思うことがある。それははじめてセラピーというものを経験した10代最後の夏のこと。


はかなく散った子供の夢


 18歳の時まで思い描いていた夢は、子供の時から抱いていたレーシングドライバー。高校生になってすぐにライセンスを取り、バイトで稼いだ金を貯めて、レーシングカートの中古ボディを手に入れた。エンジンは店先に転がっていたものをただで譲ってもらい、自分で分解整備して組み上げた。それをリヤカーに積み原付バイクで引っ張り、家から2時間かけてサーキットまで運んで練習した。直線では100キロを超える猛スピードに熱狂した。

 大人たちに交じって初めてレースに参加した。派手なヘルメットとレーシングスーツを身にまとい、かっこだけは一人前。しかしスタートからずっと最下位だった。
数周もしないうちにトップ集団がすぐ後ろに迫ってきた。その異次元のスピードに圧倒されて焦り、思い切りヘアピンカーブで曲がり切れずに大スピンしてしまった。トップ争いをしていた上位グループ全員が巻き込まれ、レースは大混乱に陥ってしまうことになる。
観客からもレースの関係者からも、そして当然トップ争いをしていたドライバーたちからも、冷たく突き刺さるような視線を浴びせられたのは言うまでもない。レースが終わらないうちに逃げるようにサーキットを後にした。

あまりにも情けなくて、申し訳なくて。
現実を直視する力もなく、ただ子供の甘い夢を見ていただけだった。
痛いほどそれを思い知らされる日となった。


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セラピーが突然やってきた

 夢がはかなく散って、さてこれから先一体どうしたものかと悩み始め、途方に暮れるようになった。学業か就職、それとも他にやりたいことがあるのか。

 混乱に拍車をかけたのが、高校生の頃から急に激しくなった親への反抗期。小さい頃からずっと父親の重くて暗い空気に包まれたような家庭に育った。母親はただそれに我慢するだけだった。
その頃になると家にいる間は両親と顔を合わせることも話すことも何もかもが嫌になっていた。夕食はたいてい夜遅くに一人で食べ、休日はなるべく家にいないように外に出た。

 嫌だったことは更にある。当時の高度経済成長真っ盛りの社会だった。
東京の朝の殺人的ラッシュアワーは常軌を逸していた。少し先の駅で降りようとドア付近に立っていたとしても、後から入ってきた怒涛の人の波に一気に中まで押し込まれ、前に座っている人の太ももの間に割って入り、ガラス窓に手と顔を当て、座っている人が手で体を支え、呼吸も苦しくなって、結局降りたい途中駅では降りられずに、終点までその格好で乗り続けなければならないという有様だった。
乗車率は300パーセントを超え、地獄絵図とまで言われていた。失神する女性と、窓ガラスの破損は日常茶飯事だった。

 また当時の日本では公害が深刻化していた。大気汚染、水質汚濁、自然破壊など、誰が見ても明らかなほど深刻だった。イタイイタイ病、水俣病、川崎病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、足尾鉱山鉱毒事件などの健康被害が全国各地で次から次へと表面化した。金を稼ぐためなら、人の健康などそっちのけ。何をやっても構わないという社会の風潮に絶望した。

 この先に幸福なんて待っているはずない。

 親に対する反抗心。大人社会に対する不信感。そこに将来の進路を選択しなければならないという時期が重なった。ますます気持ちは暗くなるばかりだった。
手当たり次第に本を読み漁った。宗教本山のような所に出かけて、修行の真似みたいなこともした。拳法の道場にも通った。船に乗って、一人旅にも行った。わかったようなふりはできても、しかし答えは出なかった。
とりあえず進学して心理学を学ぼう。それから先は保留。後で決めるしかない。そう考え、受験勉強をすることにした。 

 ところがそんな矢先セラピーが突然やってきた。初対面の義理の兄が家にやってきて、いきなり『原初からの叫び』という本を手渡してきたのが、最初の挨拶だった。
それはアメリカ人の臨床心理学アーサー・ヤノフ博士(1924-2017)の執筆による、真新しい出版されたばかりの訳本だった。
姉夫婦はその当時、若者たちが集まって山奥で共同生活をしながら自給自足をし、自由と自立を探求して生きていこうとする、当時の経済成長の日本社会とは完全に真逆の、とんでもなくぶっ飛んだ人たちだった。




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自分でやるしかない

 原初療法と呼ばれるそのセラピーによって、幼児期、特に7歳になるまでのトラウマを、激しい断末魔のような叫び声によって解放することができたとき、本来のありのままの自分自身を取り戻すことができる、というようなことが書かれてあった。

『原初療法は、その本質において弁証法的な一つのプロセスである。
そのプロセスにおいて、子供の時の要求を感じ取ることにより、神経症の人間は成熟し、自分の冷たさを感じ取った時に温かみのある人間となり、弱さを感じ取ることによって強い人間となり、過去を感じ取るときその人は全面的に現在に生きる人間となり、非現実の体系の死を感じるとき蘇生する。
それは神経症の裏返しの状態で、神経症にかかっている時、人間はおびえながらも勇敢な行動をし、ほとんど感ずることもなく大胆にふるまい、たえず無意識のうちに過去を現在に投影している。

アーサー・ヤノフ著 中山善之訳 『原初からの叫び』 講談社刊
(以下引用文は同著からの抜粋)


 本を4回も5回も読んだ。
ノートにまとめ、理論的なことはすべて頭に入れた。しかし日本では本が出版されたばかりで、どこかの施設で受けることはできない。 アメリカに行くしかないが、 お金もなければ英語もできなかった。
その断末魔の叫びが、麻薬患者の禁断症状に似ているとも書かれていた。下手をすれば気が狂うのではないかという恐怖もあった。
それでもやはりやってみたい。
本来のありのままの自分自身がどういうものなのか知りたい。この混乱した悪夢のような社会の中で、自分自身として生きる術が欲しい。悩んだ挙句、当時の親友Fに、ある休日の夕方、突然電話をかけた。
 「今から車で山の上へ行き、そこでセラピーを自分一人でやるから、横でただ見守っていて欲しい。」とだけ伝えた。
Fは何のことかよく分からないまま、ただ一言いいよ、と簡単にOKしてくれた。もし発狂したら、彼が家か病院まで送り届けてくれることだろう。


 セラピーのやり方はきわめて単純である。横になって《おとうさん! おかあさん! 》と叫び続ける。何回も何回も力の限り叫び続ける。繰り返し繰り返し叫び続けているうちに、やがて体の奥から激しい絶叫が解放される、ということになるらしい。 

原初療法が効果をあげるのは、これまでずっとさまざまな方法で無意識のうちに行動にうつしかえてきたものを、患者がついに感じ取る機会を与えるためである、と私は信じている。
そうした機会に恵まれるとその人間は、もはや、束縛された成人として行動する必要がなくなる。
彼はこれまで一度として許されることのなかった人間になれるし、けっして口にする気になれなかったことを言えるようになる。
神経症とは感情の否定であり、感じとることによって治る、と私はみなしている。



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カウントダウン


 遥か遠くに東京都心の煌めく夜景が見えた。東京郊外の奥多摩有料道路は当時夜間無料通行だったが、夜中にそこに来る人はめったにいないということを経験上よく知っていた。
 運転席のシートを倒し横になる。直前になって、もしかして気が変になったらどうしようという恐怖に再び襲われる。しかしここまで来たからにはもうやるしかない。Fにはおおよそのセラピーの流れを説明した。そして秒読みをしてくれと頼んだ。

 10からカウントダウンが始まった。
Fがゼロ!と言ったと同時に《おとうさん! おかあさん! 》と、思い切り叫び始めた。繰り返し、繰り返し、叫び続けた。

 数分たったころ、吐き気と手足のしびれに襲われ中断した。空腹のために何も吐き出さない。手足はしびれでじーんと硬直し、まったく動かなくなっている。
それが少しだけ収まってから、再び《おとうさん! おかあさん! 》と叫び始める。そして再び吐き気に襲われ中断。それを4,5回繰り返す。足の硬直は全身の硬直へと広がっていった。全身がコンクリートで固められたかのようにガチガチにこわばっていた。



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断末魔の叫び

 15分か20分ほど続けた頃だった。自分の体の内側で何かが急に変化したことに気づいた。自分で意識的に叫んでいたはずなのに、体が勝手に叫んでいるかのような奇妙な感覚。

 いったい何だろう、この感覚は?

 そう感じた途端《おとうさん! おかあさん! 》という声が、意識とは無関係にコントロールを失い、不随意的にどんどんボルテージを上げ始めた。

 そしてその数秒後。
これ以上の叫び声はもう出ないぞ。
そう思った次の瞬間、ついに火山が大爆発したかのごとく、腹の最深部あたりから猛烈に噴き出す大絶叫が炸裂した。

 断末魔の叫び。

 溢れ出る大絶叫。

 止まらない。

 コントロール不能。

 いつまで続くんだ。

 体がこわれていくのか。

 もうじき俺は狂って死ぬのか。



 
 叫び声は数十秒間続いた。それからゆっくりと、トーンダウンしていった。
腹の底にあったマグマが枯渇するまで噴き出した後に、今度はそれまで硬直して動かなかった棒のような体が、勝手にゆっくりと丸くなり始め、胎児のような姿勢にとって変わった。両腕を胸の前で縮め、両足が腹の前で丸まった。
 そしてまるで乳幼児そのものになったかのように、涙を流して泣き始めた。
エーン、エーン、エーン。。。
数分後、この泣き声もやっと静まっていった。


非現実の体系は、小さな時には必要なものであるが、のちにそれは私たちを締め上げ、ゆがめる。
それは休息や眠りにも、怖れと緊張を持ち込む。
防衛が取り払われた瞬間に叫び声をあげるのを防ぐために、現実の体系に鎮静剤を飲まさずにいられないのは、ほかならぬこの非現実の体系である。



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原初的欲求

 自分の体の中に凄まじいほどのエネルギーが押し込められていた。

 〈 優しくして! 抱きしめて! 微笑んで! 見つめて! 愛して!独りぼっちにしないで!オムツを替えて!おっぱいちょうだい!おもちゃちょうだい! 〉

 それは幼児が成長していくためには誰にとっても必要不可欠な、言葉以前、思考以前の原初的欲求だ。赤子は泣き叫ぶことで、親の愛と世話を得ることができる。しかし泣き叫んでもそれが満たされなくなった時、幼児の内側では変化が起こり始める。

 それは瞬間的に、悲しみ、怒り、憎しみ、苛立ち、絶望などの感情へと変化する。
しかし親から愛されていないという現実は、幼児にとっては耐え難いもの。そこで無意識のうちに、原初的欲求とそうした感情を、条件反射的に体の内部組織にぐっと飲み込んで、緊張という蓋をして、押し殺そうとするようになる。

 感情の抑圧が許容限度を超えた場合、死に至る幼児もいるという。
実際に親から虐待を受け続けた子供が死ぬという事件が最近後を絶たない。
それは暴力による肉体的損傷だけではなく、精神的ダメージによるケースが少なからずあるはずだと思う。親からすれば「これ位どうということはない」と思う接し方や躾が、幼い子供にとっては深刻なダメージを与えてしまう。

 無意識の領域で起こる、この感情と抑圧のプロセスは、その後の人生においてもパターン化していくベースとなる。年月と共に緊張と抑圧の度合いを強固なものにしていく。
満たされなかった原初的欲求は、代償を求めて、他人からの愛や評価を得ようとしたり、酒やドラッグでうやむやにしようとしたり、或いはパワハラや暴力によって、埋め合わせようとしたり、というような、ほぼすべての神経症のベースになる。

 原初からの叫びとは、満たされていない幼児期の原初的欲求の記憶と、ネガティヴな感情の、その両方の塊が、まるで核融合のように出会い、一気に爆発して解放された結果である。



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意識の一点

 静寂が訪れた。
どこまでも深い静けさだった。

 完全な無思考状態が続いた。
感情のさざ波もまったく立たなかった。
呼吸がとても深くゆったりとしていた。
体中の筋肉や関節、内臓、頭、ありとあらゆる緊張がすべて消えていた。
体重がなくなったかのように軽やかだった。

 ただ頭の中心で、意識の一点だけがセラピーの始まりから終わりに至るまで、ずっと冷静に自分自身の状態を克明に見守り続けていた。
自分自身のものだと思っていた思考、感情、身体感覚、それらは意識を取り囲む霞のように淡く儚いものになって、吹き飛んだ。

 ようやく体が動けるようになったなと感じた数分後、その劇的な変容にあふれる喜びが込み上げた。思わず車を飛び出し、暗闇の駐車場で笑いながら狂ったように踊りだしてしまった。

 それを見てFが慌てふためいて、助手席から猛然と飛び出してくる姿が見えた。
駐車場のすぐ横は、真っ暗闇の崖。
体を抑え込もうと手を伸ばしながら、必死に名前を叫んだ。

 「おいっ!hikariーっ !!!」

 「ありがとうF。大丈夫、セラピーは成功したよ。気は狂ってないよ。」

 Fはそれを聞いて、ものすごく安堵した微笑みを浮かべてくれた。



神経症に苦しんでいながら原初的な治療を受けることに、強い戸惑いや困難を感じている人に対しては、自分でない自分であろうとすることこそ難事であると私は一言いっておきたい。
もっともやさしいこと、それは自分らしくあることである。


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追記
 このセラピーの後、私は学業ではなく肉体労働を始めた。金を稼ぐようになって、親に毎月給料の一部を渡せるようになってから、反抗期も収まっていった。両親もまた自分の感情を抑圧して生きてきたことを理解することができた。負の連鎖が代々ずっと続いていたのだ。
このセラピーの経験は後にインドでのセラピーやボディワークを学ぶことへと繋がっていくことになる。このことはまた別の記事で書きたいと思う。








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