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今宵、私はあべこべに酔う

いつからか、夕方、娘が小学校の宿題や学習プリントでの勉強を始めるのと同時に、私はキッチンに立ち夕飯の準備を始めるようになりました。

それは小学2年生の娘が勉強しているというのに、その傍らでゴロゴロしながら本を読んでいたり、はたまたギターを弾きながら調子っぱずれの歌を歌っている父親の姿というものが、なんとなく申し訳なく思えてきたからです。

この日も娘が漢字の学習プリントを始めるのと同時に、私はキッチンに立ち夕飯の準備を始めました。

娘はリビングにあるテーブルの上をちゃちゃっと片付けて、筆記用具とプリントを並べて準備万端です。

私もそれと同じようにまな板の上に食材を並べ、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールとお気に入りのグラスを取り出して、準備万端です。

娘が最初の問題に取り掛かるのと同時に私はビールの蓋をプシュっと開けて、それをお気に入りのグラスにトクトクと気持ちのよい音をたてながら注ぎ入れました。

そして娘が鉛筆を使って漢字の問題を順番に解いていくように、私はビールを使って心と体の緊張を順繰りにほどいていくのです。

「あー、うまい」

今日もビールが飲める幸せ、そして、今日もビールがうまいと感じられる幸せ。
ただそれだけのことで、今日という一日に感謝の気持ちを覚えることができる私は、非常に単純かつ安上がりな人間なのです。


さて、今日の献立はといいますと、挽き肉とあまりもの野菜を使ったペペロンチーノスパゲッティです。

今朝、妻が仕事に出かける前に、冷蔵庫に残っている挽肉と野菜室に入っている中途半端な野菜を使い切って欲しいと言ったからです。

そしてできることならそれを使ってパスタにして欲しいと、そう言われたので従順な私はそれに従うことにしたのです。


私は早速きざんだニンニクをオリーブで炒め始めます。するとたちまち香ばしい香りが立ちこめて来て、ビールはさらに美味しさを増していきます。

そこに挽肉と野菜をいれて塩胡椒で下味をつけたら、野菜の旨みをしっかりと引き出すように中火で炒めていきます。そして仕上げに白ワインで風味をつけたら準備完了。

あとは妻が帰ってきたらパスタを茹でて、フライパンで軽く和えたら完成です。


そこまでやってしまうと、私は一旦洗い物を片付けてから、漢字の勉強をしている娘の様子をチラリと覗いてみました。

すると娘は「録」という漢字を前にして、鉛筆を持つ手が完全に止まってしまっていました。

あーとか、うーとか唸りながらなんとか漢字を思い出そうとしているのですが、集中力も切れてしまっているようで、一向に思い出せそうな気配はありません。

ちなみに、娘がやっているこの学習プリントは非常によく出来ていて、途中で漢字がわからなくなってしまっても、裏面をしっかりと見返せばちゃんと答えが導き出せるような仕組みになっていました。

すると娘はそれを知ってか知らずか、もうお手上げだといった様子でプリントを両手で持ち、それを天井のライトに透かして裏面を見始めたのです。

私は悪戦苦闘しているそんな娘を横目に、冷蔵庫から二本目のビールを取り出してグラスに注ぎました。そして一本目よりもややゆっくりとしたペースでそれを飲み進めていきます。

「あー、やっぱり旨い」

時に二本目のビールというものは、予想に反してあまり美味しく感じられない事がしばしばありますが、この日のビールは抜群に美味しく感じられました。

私は再びビールが美味しく飲めることに感謝して、娘の方へ目をやりました。

すると先ほど苦戦していた「録」の字の解答欄には、見事にあべこべに書かれた「録」の文字が。

「ああ、透かして見た字をそのまま書いちゃったのね」

私は器用に書かれたあべこべの字を前にして、思わず頬が緩みました。

そしてそれと同時に、なんだか可笑しいような、愛しいような、少し悲しいような複雑な感情が込み上げてきて、私の顔は少しずつ赤みを帯びていくのでした。

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