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更級日記 藤原定家筆(国宝) 研究員さんギャラリートーク@皇居三の丸尚蔵館 とても詳しい解説聞いて解像度200%

書跡担当の研究員さんから展示品の見どころなど詳しいお話を聞いてきました。ギャラリートーク後、個別に質問されてい方が多数いてマニアックで深い情報をさらに知ることができるという。特に知りたかった藤原定家の更級日記写本の解像度が上がり過ぎて大興奮の機会。今回のイベントは三の丸尚蔵館会館30年以来初めての試みとのこと



ギャラリートーク概要

皇居三の丸尚蔵館 開館記念展
皇室のみやび―受け継ぐ美―
第3期「近世の御所を飾った品々」
会期 
令和6年(2024)3月12日(火)~5月12日(日)

第3期は京都御所・桂宮家といった
皇室関連の組織に伝来したものを中心に展示

ギャラリートーク 書跡パートの回
開催日:3月20日(水・祝)開催 
説明:高梨真行氏(三の丸尚蔵館主任研究官)
場所:展示室内の展示物近くで開催

この書跡類 3点 について高梨さんから詳細な説明あり
雲紙本和漢朗詠集  伝 藤原行成 /平安時代 (11世紀)
更級日記 藤原定家 /鎌倉時代 (13世紀)
古歌屏風 八条宮智仁親王 /桃山時代(16~17世紀)

以下、更級日記(写本)の説明部分について記載

更級日記【第3期】の会期内でページ替えあり
前期 3/12-4/7 展示 源氏物語に胸キュンしている場面
 後期 4/9-5/12 展示  どんなページになるのか?!

更級日記 (国宝)藤原定家筆 写本

更級日記の展示ケース
想像よりも現物は小さかった
サイズは16.4×14.5㎝
国宝 更級日記(写本)藤原定家筆
京都御所に伝来
鎌倉時代の公家かつ歌人 藤原定家が自ら写したもの

画像は前期 3/12-4/7 展示のもの
 後期 4/9-5/12 展示は別のページに変わる
説明)『更級日記』を貴族で歌人の藤原定家が書写した古写本です。奥書には、定家所持本の紛失により再度書写した旨があり、本紙には出典等を注記した「勘物(注記のこと)」が残りま す。後水尾上皇の仙洞御所に伝来し、後西天皇の御遺物にも 含まれており、禁裏街所伝来の品と考えられます。
右ページ拡大
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そもそも更級日記とは

平安時代中流貴族の一女性の回想記。菅原孝標の娘(1008~?)著。13歳頃から53歳頃まで,『源氏物語』が書かれて評判になった少女時代から,夫に先立たれた晩年までの記
※作者原本は残っていない

ColBase説明より



高梨研究員の解説

この更級日記の写本はいつ頃書かれたものか

鎌倉時代前期、藤原定家の晩年70代くらいのものと思われる。いつ書いた写本かは明確ではないが、定家の日記「明月記」に72歳くらいの頃に更級日記を入手したと書いているので、すぐ写したかどうかは分からないが、書いた時期を推測する参考にはなる 


教科書で習った更級日記 一番の大元はこの藤原定家の写本

平安文学は写し写され、いろんな更級日記がある中、この藤原定家の書いた更級日記は祖本と呼ばれるもの。これが元になって今流布しているものに繋がる。これが無いと教科書で更級日記を読むことができなかった
「定家先生 書き残してくれてありがとう」という存在


定家の独特の字 奥深い背景

字が上手いかどうかは皆さんの判断におまかせ、
本人は明月記という日記に「自分の筆は鬼のごとし」と下手だと自分で思っている。ただし本人が言うようにただ下手なだけではない背景が

◼️書物を写すことを使命として取り組む定家

藤原定家とその子孫による書物を残す取り組み
定家は歌の研究とともに古典籍(平安時代などの古い書物)を未来に繋げようということを継続的に取り組んでいた。本人だけでなく子供や孫、弟子も含めて御子左家みこひだりという家では古典籍を残していこうという取り組みを続けていた

定家がこの独特の字の書き方をしている深い理由
コピー機が無い時代 字の写し間違いがおきる
人間が写すしかない時代に人の字を写すということは、
活字でも間違えるのにくずされた字を写すのは当然間違えてしまう

間違った言葉で「写し間違いのまま」伝わる懸念
(当時の基本的な書き方の)連綿れんめんと繋げて書く字は見た目が美しいし、書く方も楽ではあるが、どこが切れめかを読みとれない人には内容が分からず、写し間違える。たくさんの量の典籍(書物)を写す必要があり、正確かつ早く書き写さなければいけなかったので、定家は間違いの無いよう一字一字分かりやすくあえて書いた。


本人の言葉を借りると
 《上手くはないけれど機能美に特化した字

そういった背景をもとに藤原定家の字を見ると、
◎定家は努力家でものすごいストイックなお公家さんだと分かる
◎正しい典籍、正しい文化を伝えなければという
ある意味の使命感を持っている


◼️書物を残すために…出世が不可欠

定家は努力家でストイックなクリーンなイメージ、一方で出世欲旺盛だった
自己推薦状(申文もうしぶみ)で、自分がなぜこの官職なのか早く出世させて欲しいということを長々書いている。昇進意欲は普通のお公家さんより高い

好意的に考えると、ある程度の地位にいかないと立場も財力も持てない。奥籍(書物)を写していく活動、和歌を発展させるということを考えると出世は必要な不可欠だったのでは

(今回の展示にはない )申文もうしぶみ 藤原定家筆
鎌倉時代・建2年(1202)重要文化財
東京国立博物館 特集展示 藤原定家-明月記とその書-で展示

定家が左近衛少将から中将への転任を願って提出した文書。宮中における20年の経歴を述べて昇進を訴えており、その結果、建仁2年 10月に宿願を果たしました。定家は当時41歳、後鳥羽院の歌壇で頭角をあらわした頃であり、筆跡にも定家の個性が発揮
(部分)後半に向かい出世への昂る思い 勢いを増す筆
(部分)実は鳥の可愛らしい表装に囲まれているギャップ



字から浮かび上がる定家の人間像をふまえて鑑賞を!

清濁両面ある人物で、きわめて人間くさいお公家さんだった。その人間性が垣間見られる字であると思われる

美しいかどうかは見る人に委ねられるが、定家の気持ちを汲み取って見ていただけるとありがたい
 

展示されている更級日記 女の子が源氏物語に胸キュンしているオモシロシーン

源氏物語は平安時代の中~後期以降女性の教養として取り入れられていた。開かれているページは更級日記の作者の菅原孝標の娘が源氏物語を読んで盛り上がっているシーン

今で言うところの
“平安時代の女の子が源氏物語を読んで胸キュン”している場面
面白いところなので紹介とのこと
左ページ 中央に “ひかるの源氏の” と確認できる


 
 
 

どんな素材や形で作られているのか

形状

綴葉装てっちょうそうという、紙を折りたたんで2つ折りしたものを10枚くらいにしてそれをひとくくりにしたものを連ねていった平安時代以降に見られる冊子のスタイル。真ん中で閉じられていて、その閉じ紐が見えるように展示している。紐は平安時代のものではなく新しいものを交換しながら伝わってきたもの
綴葉装という古いスタイルが綺麗に残っている状態

使用されている紙

雁皮紙がんぴしという高級紙
 岩山に自生している雁皮という木からできていて
 その木を入手するのは大変
・厚手の雁皮紙を使っているので丈夫で高級で
 丁寧につくらているものだと分かる
・色は若干、たまご色(鳥の子色とも言う)
・触るとぱりぱりと固い感じ 
・雁皮は光沢があって綺麗
・表面が平なので筆が滑らかに書ける 墨を吸わない素材
※人に見せるための良いものには紙の原料としては雁皮を使うか、こうぞ三椏みつまたの混合の紙を使用するとのこと
 
古典籍を未来に残すべきものは だいたい雁皮紙を使用
  
 
 

表紙

更級日記と書かれている。表紙は少し厚手の紙  
表紙の字も定家が書いたもの

ColBaseより
(参考)今回の展示では見られない表紙
 (定家の字の特徴がよく出ている)


 
 
 

更級日記(写本)藤原定家筆の伝来とは

江戸時代前期には禁裏御所きんりごしょ(天皇の御所)や仙洞御所せんとうごしょ(退位した天皇(上皇)のための御所)に伝わっていたということは確実に記録として残る
・後水野上皇が持っていた記録
江戸時代、禅宗のお坊さん鳳林承章ほうりんじょうしょうが後水尾上皇の時代に仙洞御所に行った時に床の間に飾ってあったと隔莫記かくめいきという日記に書いている。おそらくこの更級日記のことを指している

・後西天皇が持っていた記録
後水尾上皇のあとの後西天皇が亡くなった時に
御遺物ごゆいもつ(形見の品)として“更級日記一帖“と記載がある


大切にされてきた定家の更級日記(写本)

見た目もひじょうに綺麗に残っているのであまり使っていなかったと思われる。お坊さんが来た時もチラ見せ程度では。使っていると痛むはずが変色もほとんど見られない。ひじょうに大切にされてきたことが分かる
 
 

実は人に貸して無くされ定家が再度書き写したもの

藤原定家自身が自分の持っている更級日記の写本を人に貸したところ無くされてしまい、無くした人が写したものを貸してもらったところ間違いだらけでこれはダメだと、間違い箇所に定家が訂正などをしながら書写したものが、今残る更級日記(写本)。定家自身も写してはいるが、その前の段階で誤写している可能性もあるので、定家は奥書に「もっとちゃんとした本があるのであれば、それでもう一回照合した方が良い」と書いている
 
元々定家が持っていて無くされた更級日記の写本は、人が写した写本なのか、定家が写した写本なのかは明月記に書いてないため不明

(藤原定家自筆奥書)先年伝え得る此の草子、件の本、人のため借 失わせらる。仍って件の本書写す人の本を以 って更にこれを書留む。伝々の間、字の誤り基だ多し。不審の事等朱を付す。若し証本を 得れば、これを見合わすべし。時代を見合わせんがため、旧記等勘え付す。

(図録の説明より)末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付けるように、書写文の傍らには定家による「勘物」と呼ばれる注記や朱点などが確認できます。

※定家は源氏物語の写本を作る際も、複数の本を取り寄せて見比べて照合し不審の事…というコメントを残しているようにストイックに正しく伝える努力をしている


 
  
 
 

定家筆(定家が書いたもの)と評価する背景

奥書(写本の終わりに、筆者の名・由来などを書き付けたもの)から信ぴょう性がある。基本的には定家が書いているものをひたすら見比べて「定家のものである」と評価している。同様に国宝となっている冷泉家の拾遺愚草の字を参考にしている。※字を真似ようとすると不自然なところが出てくるので本人のものでないと分かるが、あえて騙そうとして書いていて見分けるのが難しいものもあるという

更級日記(国宝)藤原定家筆 三の丸尚蔵館所蔵

↓確かに似ている筆跡
(参考)拾遺愚草(国宝) 藤原定家筆 冷泉家時雨亭文庫所蔵
※今回の展示対象以外
定家が西行の死を嘆く気持ちを書いているところ
こちらの西行展の記事に詳細内容記載


 
 
 
 


実はバラバラになり綴じ直しされたもの

冊子の糸は切れやすいので、糸はせずに保管していてばらばらになることがよくある。この更級日記もばらばらになり、並び順が正しくないがそのまま並べ替えていない

 バラバラになった後に綴じられた赤い紐が見える

<バラバラのまま中身を並べ替えない背景>
元通りに復元するのはどこまでするべきなのか文化財保護の観点で悩ましいところで、文化財保護法が現状から保存に影響を与える行為を厳しく戒めている。現状に変更を与えることがヨシとはしない世界でモノに対して可変を行うことは慎重になる。状態を良くしたくても修理をどこまでやっていいか難しい。修理するとしたら一生背負うくらい神経をすり減らす判断となるとのこと



◼️中世近世の美術品の伝来に外せない情報
ギャラリートークで驚いた皇室に伝わる美術品の
知られざる皇室と上級貴族との贈答品ネットワーク

◼️藤原定家の更級日記について
皇居三の丸尚蔵館 館長島谷弘幸さん
アートの森【書の楽しみ】連載記事


関連情報

◼️藤原定家は平安時代の書物を残した人

百人一首の功績はほんの一部 日本の古典充実に大貢献
平安時代の書物の写本を多数作り、後世で現存最古となる写本を多数残していた定家。どんな写本を残しているか

◼️ 藤原定家の個性的な字からハマった書の楽しさ

徳川家康も、小堀遠州も、松平不昧公も、
歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン
フォントになった定家の字 独特の書風定家様ていかよう
東京国立博物館「特集展示 藤原定家 明月記とその書」
を見てきて 明月記にすっかりハマる

■藤原定家の子孫冷泉家 公家邸宅として唯一現存

日記は奇跡の伝来をしてきた。書物も蔵も徳川家康・秀忠、天皇に守られ、書物散逸危機には蔵を天皇が封印するほど大事にされた。現代の家存続の危機には稲盛和夫さんにも寄付を受け守られていた 


■藤原道長と藤原定家の日記原本が残る奇跡レベル

天皇の書物すら失われる中、この時代の日記原本が残るのはほとんどない例で奇跡。道長と定家の日記の違い、宮廷儀式に奮闘する定家と息子の為家が垣間見られる記録など



皇居三の丸尚蔵館 お堀からの経路 外観と館内

三の丸尚蔵館は、2023年(令和5年)10月1日付で、管理・運営が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、宮内庁三の丸尚蔵館から名称が皇居三の丸尚蔵館へ

赤いところが東京駅
皇居東御苑の看板から入る
雄大なお堀
手荷物検査をして最初の門をくぐり振り返るとビル群
まっすぐ行くと東京駅方面
大手門
大手門から入り進むと三の丸尚蔵館が見えてくる
当日は外国の観光客が日本人より多い印象
建物外観 入り口
展示スペース入口
展示室は二つ
左 展示室1                        右 展示室2
更級日記が展示されている 展示室1
こちらでギャラリートーク開催



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