見出し画像

【1年の振り返り】鬱/PTSD/パニック障害を経て、今思うこととこれから目指していくこと

あっという間にクリスマスも終わり、年末が近づいてきた。
年の瀬ということもあって、自然と、この1年のことを振り返って今の自分の現在地点を確かめようとしている自分がいた。

この1年(実質的には半年だが、振り返ってみたら数年に感じる)、わたしはとてもつらい時期を過ごした。

うつ
PTSD
不安障害
それらからくるパニック発作や不眠症。
その他、もろもろ。

どうして急にこんなことになったのか分からず、そしてどうしたらいいのかも分からなかった。自分ひとりだったら、迷うことなく「休む」という選択肢をとっていたと思うけれど。小さな子どもを抱えたシングルマザーにとって、その選択肢は簡単なものではなかった。


少し前にアップした記事の中で、こんなことを書いていた。

わたしはきっと、この心の弱さが、不安定さが、わたしにとって誰よりも大切な人たちを押しつぶしてしまうんじゃないかと怖くてたまらないのだと思う。だから、逃げることを選んでいる。

逃げることは、守ることと同義なのだろうか。
わたしは、逃げるために、逃げているのだろうか。
それとも、守るために、逃げているのだろうか。

そんなことを、この半年間ずっと、問い続けてきた。

「子ども育てることの怖さ」

でも、そもそも。

わたしは、本当に「逃げて」いるのだろうか?
わたしが今とっている選択は、「逃げ」なのだろうか?

今のこの状況、この選択に至った経緯は、この1年間を振り返るだけでは紐解けない。そんなことを、数日前、ふと思った。


・ ・ ・ ・ ・ 


振り返ってみると、この数年間、わたしは全力疾走で走り続けてきた。
ただ走っていただけではない。短距離走ランナーのペースと走り方で、長距離走を駆け抜けようとしていたのだ。

3年間におよぶ昼夜を問わない授乳。
どちらかというとロングスリーパーの傾向があるわたしにとって、子どもが生まれてから数年間、毎晩何度も起きて授乳することは、とてもしんどいことだった。授乳最後の1年で、ようやくやっと、たまに5時間まとめて眠れることができるようになった。5時間継続して眠れるなんて、奇跡に近かった。

最後の1年は、生理が戻ってきたので、ホルモンバランス的にはアクセルとブレーキを全力で同時に踏んでいる状態だった。体重15キロを超える子どもに授乳をするたび、わたしの中の身体の繊維がどんどん細くなっていって、まるで身体の中がスカスカになっているかのような感覚の中で過ごしていた。

常に寝不足で、そして授乳と生理のダブルパンチで体力は削られ、ホルモンバランスはグチャグチャだった。


そんな中、日中はフルタイムでの仕事。後から後から大量に降ってくる仕事を、コーヒーを浴びるように飲んでなんとかこなす。休日は、保育園に預けている子どもの寂しさを埋め合わせようとした。その合間に、溜まっている家事や用事をこなせば、あっという間に月曜日がやってくる。

当時のわたしにとって、月曜日に会社に出勤することが、もはや休憩時間に相当していた。仕事が暇だったり、楽だったわけでは決してない。責任も重く、業務の幅もどんどん広がり、ストレス負荷はかなり高かった。それでも、仕事にいる時間が唯一、一人の人間として、ある程度の範囲で自分のペースで存在していられる時間に感じられていた。

コロナ以降の社会情勢や今後のこと、成長していく子どもと、年老いていく親の数年先や数十年先の未来を見据えたら、1本の仕事だけではまったく足りなかった。なので、少しでも収入の幅を増やそうと、通勤時間は歩いている時間も全部、副業にあてていた。

家から出た瞬間、スマホをとりだし、メールの返事や副業の仕事や投稿を作る。退勤時も同じだ。友達のLINEに返信する時間すら持てていなかった。毎日のようにLINE通知は溜まっていった。友達や知り合いに返事をすることでさえ、予定に組み込まなければいけないタスクとかしていた。

そして、家に帰った瞬間、上着を脱ぐ時間もままならず、母乳をせがまれ、授乳する傍、スマホで仕事やタスクの洗い出しをする。そこから晩御飯、お風呂、歯磨き、子どもと遊び、そして寝かしつける。寝かしつけが終わったら、寝落ちしそうになる自分をなんとか叩き起こし、今度はパソコンの前に座って、また仕事をする。セッションをしたり、ライブをしていたこともあった。

常に心拍数は早く、呼吸は浅く、アドレナリンが大量に出ていて、ハイな状態になっていた。むしろ、そうしていないと、すべてのことをこなすことは到底無理だった。


そんな生活を2年ほど続けただろうか。
副業は少しずつ広がっていき、お客さんも増えていった。
でも、セッションをする時間が確保できない。
仕事を自動化させていこうにも、その仕組みづくりをするための時間が確保できない。
まさに、自転車走業。
二足の草鞋どころか、三足、四足の草鞋を履いていた。


時間・お金・体力
この3つの板挟みに苦しんだ。

この3つのバランスを、どうやって見つけていくのか。
わたしはそれを、「若さ」というパワーだけで、なんとか乗り切ろうと頑張った。

何度も限界を迎えそうになったけれど、「まだ20代なんだから」「他のお母さんたちもみんな頑張ってるんだから」「子どもがいる人なんて、みんなこんなもんだよ」と自分に言い聞かせ続け、何度も「もう無理だ」と思う壁を乗り越えた。でも、乗り越えたと思っても、またすぐ目の前に新たな壁が立ちはだかる。終わりが見えなかった。


身体は何度もSOSを出していた。
突然、脳みそが溶けたかのように思考停止して、涙が止まらなくなって動けなくなることがあった。
それでも、「わたしが倒れたら家族が路頭に迷う。わたしは絶対に倒れるわけにはいかない」と、自分を奮い立たせて、またコーヒーを流し込んで、走り続けた。


・ ・ ・ ・ ・ 


そんな生活を、3年だか4年だか続けて。
今年に入って、わたしの身体は、「これが最終通告だ」とばかりに、金切声でSOSを叫んだ。無視することは、もうできなかった。パワーと気力で乗り切ろうにも、もうパワーも気力も、どこを探しても見つけられなかった。

そうしてわたしは、睡眠障害と鬱状態に陥った。
そこから芋づる式に、PTSDの症状やパニック発作などが起きる日々。

原因と対策を見つけて、なんとか乗り切らなければ。
そんな思いで、病院や行政に駆け込んだ。
さまざまな専門家の人たちと話をして、みんなに言われたのが一言「休んでください」、そして「必要なのであれば、子育てから離れる時間を持ってください」。


そりゃあ、そうなるよな。
この数年間をこうして書き出してみて、わたしはなんとも納得している。
いやだって。
無理でしょう。そんな状態を続けるなんて。物理的に。笑


・ ・ ・ ・ ・ 


こうして振り返ってみて。

この1年間のわたしの選択は、子どもからの、そして母親という責任からの「逃げ」ではなかったことが、ようやく腑に落ちた。(何度まわりに違うと言われても、わたしは自分が母親としての職務を放棄して逃げているだけという自責の念にさいなまれていた)

わたしが倒れたら家族が路頭に迷う。わたしは絶対に倒れるわけにはいかない」

その想いは、今も変わらない。
でも、そのベクトルが変わった。


子どもを育てるということは、長距離走を走るということだ。
長距離走ランナーと、短距離走ランナーでは、走り方も、呼吸の仕方も、ペースの保ち方も、なんなら練習方法だって、全然違う。
短距離走者が、短距離走を走るのと同じやり方でフルマラソンを走ろうとしたら、絶対に完走することはできないだろうし、最悪の場合、どこかで身体を壊すだろう。

わたしがやろうとしていたことは、結局のところ、それだったんだなと思う。
子育ても、仕事も、お金も。
フルマラソンを、全力疾走で短距離走かの如く、走り抜けようとしていた。

だから、行き詰まった。
だから、壊れた。


それでも。
仕事や子育て、ようやく育ってきた自分の事業や活動。
それらすべてをストップさせることは、とてもとても怖かった。
走ることに慣れすぎて、もはや、どうやって休めばいいのか、どうやって止まればいいのか、思い出すことすら、できなくなっていたんだ。

子育てから少し手を離すということにも、強い抵抗感と自責の念があった。子どもへの申し訳なさ。親への申し訳なさ。そして、自分に「母親失格」の烙印を押され、世間に弾弓されるのではないかという漠然とした恐怖。

なんで、他のシングルマザーにはできるのに、わたしにはできないんだろう?
これって、ただ単に子育てしたくない体のいい言い訳を作って責任放棄しようとしてるだけなんじゃないの?

そんな言葉たちが、この半年間、ずっと頭の中をグルグルとしていた。

それでも。
わたしが友人や専門家の人たちの言葉に背中を押してもらって、子育てから少し距離を置いて、仕事も活動も全部、一時停止させようと思ったのは、自分自身の幼少期の体験が大きい。


光と、影。
わたしと、母。

「一緒に、死のうか」と言った後、母は言葉を発せず、みじろぎもしなかった。それでも、母の放ったその一言は、「こちらにおいで」と影の中から母が手招きをしているように感じられた。母は、膝に頬杖をついて、くたびれた顔をしていたような気がする。正直、あまり母の表情は覚えていない。

ただ。

その母の体温をもった言葉がわたしの鼓膜に届いた瞬間。
世界がスローモーションになった。

光の世界の中にただずんでいた、まだ幼い頃のわたし。
影の中に座っていた母。


わたしの母は、きっと自覚していなかったけれど、長い間、鬱状態にあったのだと思う。それでも、たったひとり、わたしを抱え、頼る家族も人もサポートもない状況で、自分自身の身を粉にしても、働き続けるしかなかった。

あの頃の、母の背後うしろに覆い被さっていた、死臭をまとった暗く、重たい靄のようなものの存在を、わたしは未だに覚えている。それ・・が、母の背後うしろから膨れあがって、わたしをも包み込み、ゆっくりと首元に粘り気のある質感で手をまわし、わたしを母ともども、ずぶずぶと闇のような暗さの底無し沼の奥底にひっぱり込もうとしていた、あの感覚を、わたしはまだ、忘れることはできない。

あのえも言われぬ怖さを、心細さを、わたしは自分の子どもに体験させたくない。

ただ、それだけだったのかもしれない。
あの子は、あの暗さを、闇の深さを、恐ろしさを、つらさを、まだ知らなくてもいい。それを見る必要は、体験する必要は、まだ、ない。

ただ、それだけのことだった。

わたしは、わたし自身の背後うしろにいるそれ・・が、わたしの子どもを侵食することのないよう、自分自身の鬱という闇から、子どもを遠ざけようとした。それは、愛しい、大事な我が子を護るための、わたしの母親としての、体験からくる、本能だった。


・ ・ ・ ・ ・ 


今のわたしを見て、わたしに最も近い場所にいる家族は、「もうちょっと頑張れよ」という雰囲気を出すことがある。

それでも。

惰性に見えるかもしれなくても。
職務放棄に見えたとしても。
わたしは、わたしのできる精一杯の愛と誠意をもって、今の自分にできることを、ちゃんとやっている。

HSS型HSPのは、根っからの短距離走ランナー、スプリンタータイプだと思う。でも、子育てをしながら、しっかりとした経済的地盤をゼロから築いていくのであれば、やり方を変えないといけない。

短距離走ランナーから、長距離走ランナーへ転身して、既に始まってしまっているフルマラソンを完走しなければいけない。序盤で痛めてしまった足首は、熱こそ持っていないけれど、少しでも無理をすれば、また疼きはじめる。

貯金もない。
仕事も安定したものは何もない。
子どもはもうすぐ小学生になる。

お金・時間・体力

今、ようやく、「時間」というリソースが、少しだけ増やせた。
そこで、ゆっくり、着実に、持続可能な、自分にとって心地よい、働き方の基盤を作っていくしかないだろう。そして、同時に、HSS型HSPのわたしにとって、心地よい子育ての距離感。自分時間の確保の仕方。エネルギーの使い所と使い方、そして休憩の仕方。それを、見つけていこうとしている。

いろんなことを、トライアンドエラーでやっていくしかない。
キーワードは、「ゆっくり、着実に、少しずつ」

焦りたくなる気持ち。
不安になる気持ち。
そのすべての気持ちをちゃんと抱きしめながら。

短距離的な視点ではなく、長距離的な、持続可能な在り方を。
わたしにとっての「心地よさ」の正解を。
それがきっと、わたしのためだけではなく、子どものため、家族のため、そしてもしかしたら、見えない誰かのためになるのかもしれないから。



この記事が参加している募集

振り返りnote

サポートしていただいた方のことは忘れません