見出し画像

田丸城と北畠親房。三重県度会郡。グーグルマップをゆく⑮

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立ったところを空想歴史散策をする、グーグルマップをゆく。今回は、三重県度会郡。

 伊勢市に隣接する度会郡、「わたらいぐん」と読むらしい。全く読めない。南部は太平洋に接している。古代、三重県の太平洋側は和歌山県との境目が曖昧で、とにかくそのあたり一体が神聖な場所とされた。

 度会郡玉城町というところに、田丸城跡という城跡がある。鎌倉期から室町期に生きた公卿・北畠親房によって築かれた城である。第5代当主北畠政郷の時に田丸姓を名乗る。当時は平山城であったが、織田信長が伊勢侵攻に伴って息子の織田信雄(当時、北畠具教の養子となっていた)に三層天守閣の近世城郭に改築させた。

 さて、田丸城を築城したとされる北畠親房である。彼は後醍醐天皇の側近で、吉田定房・万里小路宣房と並んで「後の三房」と呼ばれた。ちなみに、吉田定房は、元弘の乱で後醍醐の討幕計画を六波羅探題に密告した裏切り者である。

 北畠親房は後醍醐天皇の命令で「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)という南朝の正当性を論じた史論書を書いている。神話に遡って天皇家について書き、自らの政道思想を打ち出し、いかに天皇家や藤原氏が大切かと言うことを延々と説いている。言うなればガチ右翼であり、そういった点では後醍醐天皇の指名は正解だったと言える。

 親房は徐々に南朝の指導者となり、観応の擾乱では足利尊氏を退けるなど、手腕を発揮し、南朝を守り抜いた。しかし、彼の死後、南朝は衰退する。これだけ取ってみても、親房が重要な人物だったことが窺える。

 田丸城も南朝の拠点として築かれたものである。しかし、地図を眺めていても、なぜここが拠点となったのかがいまいちわからない。京都からと多いのはまだしも、奈良から遠過ぎやしないか?

 南北朝において主要道路は京都奈良間で、宇治や木津といった縦の道である。何かあった時に、かけつけるには遠すぎる気がするのだが、、
 考えられる理由としては、伊勢神宮が隣にあり、熱田神宮も船を使えば奈良よりも早く着ける位置にある。南朝の正当性を主張している立場としては、三種の神器を守るという役目の方が大きかったのかもしれない。

 北畠家は室町期には伊勢守護に任命されるなど、田丸城を拠点に家を維持したが、織田信長によって滅亡させられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?