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戦略的モラトリアム【大学生活編⑫】

何事もなく 11 月 12 月と過ぎ、ゴールデンモラトリアムシーズンも 1 年を迎えようとしている。年末年始には家にも帰らず、何事もない生活とアルバイトの日々。知り合いたちとも
徐々に打ち解け、「友人」とでも呼べるような間柄になっていった。講義内容のことや教授の癖、履修のことで僕たちの話題は埋め尽くされた。

出席代行(授業を出席せずに誰かに出席カードを書いてもらい、出席扱いにしてもらうこと。大人数の講義ではしばしばまかり通る。平常点を上げる姑息な手段)

やノートコピーなど不穏な話題も当初はあったが、自分は大学の講義を受けることを苦痛に感じなかったので、気にもとめず授業に出席していたら、なぜか自ずと自分の友人も講義に出ることが当たり前になったようだ。授業内容の話も自分の稚拙な考察を出し合う、ほんの数ミリ高度な話になっていった。その点でいえば自分は他人にとって良い刺激となったのかもしれない。モラトリアム欲求は暇な時間を知的好奇心で埋め尽くすこと。それが、高校、大学とストレートできた彼らにとっては未知の生物の思考だったのかもしれない。しかし、大学の講義というものは失跡して話を聞いてみると、これが案外面白い。今まで片田舎の錆び付いた古い伝統主義を当たり前と思っていた自分の心の隙間を見事に突く面白さだった。社会学や心理学、政治学など今まで当たり前にあったものは実は多種多様な深い研究対象だったのだ。さすがに一つの専門分野を持った教授たちだ。深い考察に関してぬかりはない。ある種のオタク集団の巨大な建物が大学だとすれば、なんて恐ろしい世界に足を踏み入れたのだろう。

しかし、多くの学生は心ここにあらずの者。何も考えずひたすら板書に傾倒する者。読書に興じる者、携帯とにらめっこする者。途中退室する者。何とももったいない。こんなオタクたちの話を聞けるなんて滅多にないのに。高い学費を払って何をやっているんだか。自分ははからずも大学生の矜恃である『知的好奇心』を大いに発散させていたようだ。まじ
めに大学生を演じているわけではない。ただ「こいつの話は面白い」で、講義の話に聞き入った。レポート等の課題が出ると、大学の図書館で文献を漁る。そして、友人たちと語らい、それなりの文章を作るのである。むずがゆいがそれが大学生としての健全な姿のだろうか。

「お前、まじめだよね」

友人からのそんな何気ない一言が自分の内蔵を少しくすぐった。

「本当にまじめなら、高校を辞めてないよ。」


そう切り返すのが精一杯だった。自分を素晴らしい人間だなんて思っちゃいない。ただ、邪な願望を日々満たしているだけだ。周りから真面目とみられること自体に悪い気がしない
が、自分を聖人君主のように扱わないで欲しい。別に大学生の見本ではなく、自分勝手な最高峰としての見本なのだ。先延ばし人間のモラトリアム使用方法を実演しているだけなの
だ。そして 12 月の冬期休業を迎える頃には無遅刻無欠席で大学生活の 1 年の大半を終えることになる。

中学高校と不登校を繰り返していた自分にとってはどこか違う世界に迷い込んだかのようなことだった。自分を知る数少ない地元の知り合いもこれには驚愕せざるを得なかったのである。モラトリアム 1 年目は知的好奇心で全てを埋め尽くした何とも一貫性のない時間だった。皮肉交じりにこう総括しておこう。大学生の学力低下なんて興味がない。自分の興味関心に忠実であるだけだ。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》