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『ここまで不幸だったのだから、その分だけ幸せにならなきゃ駄目だ』と生きてきた精神障害者の末路

 最近、友人が29歳になった。平成5年生まれで僕と同い年。早生まれだった彼が仲間内では一番遅く誕生日を迎えた。
 29歳はちょっと特別で、20代最後の一年間になる。社会人として働く彼は「歳を取ったこと、老いたこと」を嘆いていた。

 嘆くばかりの彼に、「僕は精神病だったし、ハタチまで生きられるかどうかわからなかったから歳をとる事は素直に嬉しいと思う」と答えていたけど。
 でも、実際のところ、自分が歳をとることについては全く何の感想も出なかった。本当に何も思わないし何の感慨も湧かなかった。生きることは苦しいし、出来れば長生きしたくないなぁ……と思ってる。

 そう、子供の頃か希死念慮、破滅願望に苛まれてきていたのです。

 今から21年前、小学校3年生の出来事なのですが、寝る前から急に死にたくなってしまい、朝起きたら死んじゃおうと考えていたのです。

 もともと漠然とした破滅願望みたいなものがあり、生まれつきの精神障害だったのでしょう。特に何の未練もなかったのです。

 その友人の住んでいるマンションの屋上から飛び降りる予定でした。子供の身体なら間違いなく即死でしょう。

 ただ、その時に限って急に祖父母が来ることになり、忙しくなってしまったのでタイミングを失ってしまいました。飛び降りて死ぬ予定だったのに、「何となく気になったから」と家を訪ねて来たのです。子供の僕から見てもあまりにも奇跡的なタイミングだったのです。

「こんなことがあるなんて、もしかしたら神様僕に生きていて欲しいのかもしれない!」とそんなことを考えていました。

 輝かしい未来を想像していたのですが、そんなことは全然無くって。大人になるにつれて精神障害者であることが発覚して、苦しみと差別に晒されることになった。今は比較的落ち着いているけど、何かのキッカケがあれば人を殺すなり、自分で命を絶ったりするのかもしれません。この世界は僕みたいな人間が暮らしやすくは出来ていない。毎日泣いてばかりだった。

 ただ、それでも今日まで生きてきたのは、「ここまで不幸だったのだから、その分だけ幸せにならなきゃいけない」という強迫観念によるものが大きい気がする。メンヘラの弱者男性だから、普通に生きていても対した幸せを掴めない事は分かるのですが、頭でわかっているからこそ、認めたくなくて感情の振り幅が大きくなるのでしょう。

 不幸を埋め合わせるために、お酒やクスリに依存する人もいるのだろうけど、両方とも体質に全く合わないから、そこに逃げることも許されなかった。
 その代わりに、何かに取り憑かれたように、「僕を絶対に裏切らないアニメのヒロインみたいな女性が欲しい!」と願っていたのです。
 そしてそんな素敵な女性が僕のために命を差し出すという妄想に囚われている。

 求めるものが際限なくなって、「あたりまえのハードル」がどんどん高くなって。もう取り返しのつかないことになってしまいました。

 僕が救われるには、それこそシュタインズゲートの牧瀬紅莉栖みたいな、美人で頭も良くて、博士号まで持っているような人間が自分の未来や才能、地位を全て差し出して、僕の介護に当ててくれてやっと救われるか救われないか……くらいに非現実的かつ、狂ったものへと変化していた。一体どれだけ求めれば気が済むんだろう……。

 最近、アパートの隣人が亡くなっていたのですが。腐乱死体を見ても何も感じられなかった。自殺のことが常に頭にあるから他人の死を見ても何も感じられないし、そもそも、他者の命なんて全てがゴミにしか見えなかった。

 僕の心を癒すには僕に尽くしてくれる女性だけが必要だった。他は何もかもどうでも良かった。
 そしてそんな人が現れない絶望感から、上映中の映画館で椅子を殴りまくっていた。指から血が流れて続けても止まらなかった。スクリーンの光で照らし出される血液を見ても僕は癒されない。ただひたすら死にたくなるだけ。自傷行為は慣れてる、リストカットしたくらいじゃ安らぎは得られない。

 だから、もし、このキ◯ガイオタクが書いたnoteを読んでる自殺願望を持った小学生が読んでいるとしたら、「未来に期待なんてしないでさっさと死んだ方が良いよ」とは伝えておこうと思うのです。

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