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名前が付いているものはいちど疑う


2024年1月4日(木)朝の6:00になりました。

ほかのどんな名前で呼んでも、おなじように甘く香るわ。

どうも、高倉大希です。




病院に行くときは、いつも不安な気持ちになります。

病気でもなんでもなかったらどうしよう、という不安です。


いっそのこと「インフルエンザです」と、言ってもらえた方が安心します。

なぜなら、体調がわるい理由が明確になるからです。


まわりの人にも「インフルエンザでした」と、説明することができます。

「インフルエンザなら仕方がないね」と、言ってもらうことができるわけです。


彼が僕にしつこく干渉していた理由は、同じ直樹という名前だったからだと、事後処理をする大人達の会話で知った。先生が僕のことを、「直樹」と呼ぶのを聞いて、自分の名前を奪われると不安になったのかも知れない。その後、彼に怯えることはなくなった。僕を嫌う理由が分かったからだ。

又吉直樹(2023)「月と散文」KADOKAWA


他者に説明するための理由になる。

これが、名前が付くことの大きなメリットです。


近ごろ「HSP」や「MBTI診断」が流行った理由も、きっとここにあります。

漠然とした不安に対して、わたしたちは名前という理由を欲しています。


だから、不安だったんだ。

誰かに名前をもらうことで、どうにか安心したいのです。


「では派」の人はよく勉強する。なぜならそれが自分のプライドの源泉になるからだ。しかし、どれほど巧妙に「〇〇では……」と披瀝できたとしても、自分だけは知っている。単に右のものを左に移しただけだと。その一方で「とは派」の人は情報に頼らない。むしろ情報が入ることで、自分の思考が邪魔されることを恐れている。とことん納得するまで考えたら、ようやく外の世界に目を向け彼我の差に目を細めるのだ。

石川善樹(2019)「問い続ける力」筑摩書房


だから、名前が付いているものはできるだけ疑うようにしています。

安心したさに飛びついてしまいがちだということが、よくわかっているからです。


決して、名前が付いているものが悪だと言っているわけではありません。

無条件で受け入れてしまうことに、懸念を感じているというだけです。


不安なときに名前をもらえると、簡単に信じ切ってしまいます。

名前には、それだけの力があるのです。


一度習得したことを「捨てる」タイプの変化のことを、「学習棄却(アンラーニング)」と言います。アンラーニングは、言うは易し、そう簡単には起こりません。日常のなかで大きな不都合やトラブルが起きない限り、人は自らの認識を変えないため、無自覚のうちに皮膚に蓄積した垢のように自覚されない認識は“こすり落とす”ことでしか気づけません。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


そんなことを言いながら、毎朝6:00に文章を書いています。

広い意味で捉えでば文章を書くことだって、考えていることに対する名付けです。


ほかの名前と大きく違う点は、自分で名付けているという点です。

誰かからのもらいものではありません。


しかも、何度だって名前を上書きすることができます。

自分で毎日名前をつけて、自分で毎日疑います。






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