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「正常」の範囲を拡げる


2024年1月1日(月)朝の6:00になりました。

まともな人々の「正気の沙汰」に痛めつけられた結果がこれである。

どうも、高倉大希です。




「芸人ちゅうのはなんや言うたら、落ちこぼれ人間ですよ。社会のはみ出し者、アウトロー。言わば、暴力団と一緒ですから」

今は亡き、上岡龍太郎さんの言葉です。


そんな社会のはみ出し者であった芸人さんが、今やコンプライアンスに縛られてしまっています。

ちょっとでもおかしなことをしようものなら、「イタい」だの「サムい」だのと除け者にされてしまいます。


「正常」の範囲が狭くなり、ギチギチに詰め込まれてしまっているわけです。

そこからはみ出た「異常」な部分は、どうにかして隠すしかありません。


どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなけでばいけないんじゃないかと思っているわけです。なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


「正常」の範囲を限定しすぎると、やはり窮屈です。

何よりも当の本人が、自分で自分の首を絞めているようなものです。


いちど「正常」を定めると、その中でしか生きていくことができなくなります。

そして、そこに含まれないものは「異常」として判断するしかなくなります。


「正常」の中だけでやりくりができれば、たしかに安心なのかもしれません。

ただし、変化には対応することができなくなります。


集団主義社会では、集団の内部にとどまっている限り安心して暮らすことができます。しかしそのような安心を生み出す集団主義的な行動原理は、実は、集団の枠を越えて人々を広く結びつけるのに必要な一般的信頼を育成するための土壌を破壊してしまう可能性があります。

山岸俊男(1999)「安心社会から信頼社会へ」中央公論新社


外にある「異常」に対して、排他的にならざるをえなくなってしまったり。

自己の中にある「異常」に対して、折り合いがつけられなくなってしまったり。


安心する「正常」にとどまることで、逆に不安が大きくなってしまうのです。

だからこそ、自ら「正常」を拡げていかなければなりません。


「正常」は、自動的に狭くなっていきます。

「正常」は、意識しなければ拡げることができません。


禅の教えによると、人の苦しみはすべて、現実を認めたくないという気持ちから生じるのだという。「こんなはずではなかった」「どうして思い通りにいかないんだ」という気持ちこそが、苦しみの根源なのだ。自分は万能ではない。ただの無力な人間で、それはどうしようもない。その事実を受け入れたとき、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた開放感が得られるだろう。

オリバー・バークマン(2022)「限りある時間の使い方」かんき出版


「正常」の範囲を拡げる。

2024年も、何卒よろしくお願い致します。






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