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真剣なメッセージにだけ「。」をつける人たち


2024年1月21日(日)朝の6:00になりました。

句点が「。」で、読点が「、」です。

どうも、高倉大希です。




いつからか、「。」に(真顔)という意味が込められるようになりました。

「こんにちは。」が、「こんにちは(真顔)」になったわけです。


インターネットの高速化に伴い、ショートメッセージが活発になりました。

ラグが短くなることで、書き言葉と話し言葉の差が小さくなっていったのです。


ところが、どこまでいっても文字だけでは伝わらない情報があります。

だからこそわたしたちは、ざまざまな工夫を凝らすようになりました。


書き手とは、大隊を率いて一度に1人しか通れないような狭いすき間を縦列進行させる司令官のようなものだ。一方、読み手は出口で軍隊を受け取り、その隊列を再び整えていかねばならない。題材がどんなに大きかろうが、またどのように扱われていようが、そのコミュニケーションの方法はこれひとつである。

バーバラ・ミント(1999)「考える技術・書く技術」ダイヤモンド社


文末に「!」や「〜」などの記号をつけてみたり。

「( ・∇・)」のような顔文字をつけてみたり。


「😊」のような絵文字をつけてみたり。

「(笑)」や「 www 」のようなスラングをつけてみたり。


これらの表現が常態化することで、相対的に「。」が(真顔)になりました。

真剣なメッセージにだけ、意図的して「。」をつけるようになったのです。


人間は、絶対的な基準で決めることはまずない。ものごとの価値を教えてくれる体内時計などは備わっていないのだ。ほかのものとの相対的な優劣に着目して、そこから価値を判断する。

ダン・アリエリー(2013)「予想どおりに不合理」早川書房


きっと「。」からしてみれば、心外だったと思います。

かつては「。」が、あらゆる感情を一挙に担っていたわけです。


嬉しいときも、悲しいときも、真剣なときも。

すべての文末を「。」が担ってきました。


それなのに気がつけば、それぞれの感情を他の記号に奪われて。

ついには、(真顔)を表すための記号として仕立て上げられてしまったのです。


つまり、コミュニケーションとは、言うならば、自分が頭の中に抱いている〈抽象的〉な広義の思考内容のコピーを相手の頭の中にも創り出す行為であると言える。

池上嘉彦(1984)「記号論への正体」岩波新書


相手に何かを指摘するときにだけ「。」をつける。

相手に謝罪の気持ちを伝えるときにだけ「。」をつける。


いまだに(真顔)を表すための「。」は、どうも好きになれません。

あまりにも意図が見え透いていて、なんだかゾワっとしてしまいます。


文末の記号ではなく、文そのもので伝えたいものです。

同時に、もうすこし読み手を信用できたらよいのになと思います。






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